第8話 お前は誰だ

 動揺を抑えようと、隆弘たかひろはまたコーヒーを口に運んだ。カップを取る手が震えてしまっているから情けない。唇に触れる黒い液体は既に温く、香りは飛んで酸味が勝る。ただでさえ安物のインスタントだから、冷めるとひどいものだ。でも、そんな不味いコーヒーでも、頭をすっきりさせる役には立った。つまり、「のりこさん」あるいは武井たけい法子のりこへの返信を、吟味することができるような気分になれた。

 それでも、再びキーボードに指を置いた時には、打ち間違いをしないように何度か深呼吸しなければならなかったけど。送るのは、ほんの短い文章のはずなのに。


 ――そう。武井法子で合ってる? 西高の。


 相手が本物の武井法子なら、返事に躊躇う必要などないだろう。でも、最初の時とは違って、次の返信が来るまでに隆弘はたっぷり数分は待つことになった。いや、この間に意味があるのかどうか、モニターのこちら側では分からない。「のりこさん」が反応を熟考しているのかもしれないし、武井法子がたまたま席を外しているだけかもしれない。だから、回答を待って神経をすり減らしても、多分そんなに意味はないのだ。


 ――そうだよ。ほんとに辻隆弘?すごい久しぶりだね!

 ――そうだね。大学卒業の時に会って以来?3組のメンバーで同窓会みたいなのやったよね?

 ――そうそう!ちょー懐かしい!


 ほら、今度はぽんぽんとレスポンスが行き交っている。フリック入力というやつにはいまだに慣れない隆弘だけど、パソコンのキーボードならどうにでもなる。知人とのやり取りならメールがあるじゃないか、と思ってたけど、お互いのやり取りが一つの画面で見られる分、SNSでのメッセージの方が確かに早い、かもしれない。目の前にいる相手と言葉を交わしているかのようなテンポでメッセージが次々と表示されていくのは、これなら、楽しいと思う人がいるのも分かる気がしてしまう。


 ――今、何してるの? 前と同じ仕事?

 ――そう。ずっと同じとこ。今年からリーダーなんだよ!


 絵文字や顔文字で彩られた「noriko」のメッセージが、やけに眩しかった。隆弘の目が痛むのは、モニターの光が刺さるからだけではないだろう。ああ、こいつはこういう奴だったなあ、と。学生時代のノートの余白や、クラスメイトの間で回していたメモ。武井法子は、いつもカラフルなペンを駆使してイラストやフレームを描いていたっけ。

 当時の携帯電話で使用できた絵文字よりも、今の方がずっとバリエーション豊かで、点滅しながら動くタイプのものさえある。メッセージを好きなだけ飾り立てることができることを、きっとは喜んで楽しんでいたのだろう、と。今更になってその心情に少しだけ触れた気がしたのだ。


 とはいえ、そんな感傷も多用される絵文字も、彼が「話している」相手が武井法子だということを保証しはしないのだけど。


 ――地元じゃないよね?どこに住んでるの?

 ――ん、会社の近くで一人暮らし。

 ――皆、お前のこと知らないっていうからさ。遠くなのかと思ってた。

 ――んー、ちょっとみんなとは会いづらいかもねえ。仕事の都合もあるから、時間も合わないかも・・


 デコレーションを多用するnorikoと、素っ気ない文字だけのTakahiroTsuji――隆弘と。やり取りだけを見れば、彼の方が距離を置こうとしているように見えるだろうか。でも、彼は単に絵文字の出し方を知らないだけだ。顔文字も、多分あらかじめ登録しておいて、ショートカットか何かで呼び出すのだろうが。どの言語かも分からない文字も組み合わせて表現される感情の機微は、一目見ただけで真似できるようなものではなかった。


 ――この前、同期のやつらと法子の話になってさ。皆、懐かしがってたから。つい、声かけちゃった。

 ――ふーん、何か言ってた?悪口言ってないよねww?

 ――言わないって。どうしてるかなあ、ってだけだよ。


(これは、探りを入れてるのかな……?)


 できるだけ不自然な間を空けないように、当たり障りのない言葉を選びながら、隆弘の掌にはじっとりと汗が滲んできていた。彼が文字だけの素っ気ないメッセージを送っているのは、単に彼のもの慣れなさが理由だけど――norikoというアカウント、彼の知人の武井法子のアイコンを纏ったに心を許している訳では、決してない。


 だっては、武井法子では絶対にのだから!


 彼の名前を正しく変換したことで、油断しかけてしまったのだけど。でも、短いやり取りの中だけでも、は既にボロを出してしまっている。


 隆弘と武井法子が通っていた高校は「西高」と略されることはないし、どの学年であれ二人ともが3組にいたことはない。矢野やの氏と話していた時に回想した通り、隆弘が生きた彼女に最後に会ったのは大学に在学中のこと。だから、卒業の会なんてものはなかったのだ。


 現在の仕事についても住まいについても、「noriko」は誰にでも当てはまるようなことしか言っていない。武井法子の実際の状況を知る相手に突っ込まれるのを、巧みに避けてでもいるかのようだ。一方で、武井法子なら当然突っ込むべき事実との齟齬を、隆弘がやり取りしている相手は決して指摘してこない。


(誰なんだよ、お前……!)


 隆弘の背中にも、緊張と不安の汗が伝う。武井法子でないなら――では、彼は「のりこさん」と接触しているのだろうか。葉月はづき千夏ちかというモデルや、矢野氏の恋人を取り殺したという何者かと?

 ぞくりとした寒気が足元から脳天を駆け抜けて、隆弘は思わずパソコンから軽く身を引いていた。動画でみせられたような白いが、今にも襲い掛かってくるのではないかと思ってしまって。武井法子が相手なら、彼は見逃してもらえるのではないか、話が通じるのではないかと、漠然とした期待があったのかもしれないけれど――


 ――テニス部の宮下。あいつが同窓会やろうかって言ってた。

 ――いいね!仕事の都合つけばなあ。


 存在同級生の名に不審がることもなく、平然と会話を続けてくる相手のことが怖かった。彼が重ねる嘘に、平然と嘘が返ってくる、この虚しいやり取りも。お互いに、名乗る名前と経歴を偽ったまま、それでも上辺だけは旧知の間柄のように和やかに語ることができるなんて。

 norikoは――のりこさんは、隆弘が彼女に宛てたメッセージの一つ一つに「いいね」を送っている。次々と表示されるハートマークの勢いが、むしろ彼を追い詰めるようだった。この部分だけは、武井法子のSNSへの執着を思い出させるから。フォロワーの数に加えて、いいねの数もやたらと気にしていたから。――でも、のりこさんだったら、執着の理由はもっと違うことではないのだろうか。


 武井法子のアイコンを貼り付けたナニカに、辻隆弘のフリをして――当の本人なのになぜ、とは思うけど――接し続けるストレスに耐え切れず、隆弘は椅子に背を預けた。カップを手に取っても、コーヒーは既に飲み干してしまった後で、雫がほんの数滴、喉を通っただけだった。


 SNS上でのレスポンスが、遅くなってしまっている。不自然な状況への戸惑いに、白いへの恐怖に、指が鈍ってしまっている。これでは、相手の方も彼に不審を持ってしまうだろうか。辻隆弘という人間を、本当の意味では知らない相手に、そんなことができるかどうかは分からないけど。でも、多分、相手は普通の人間ではない。生きてさえいない。

 そんな相手に対してどう振る舞って、どう話を切り上げるか――ちゃんと考えていなかったことに、隆弘は今になって気付いてしまった。


(何か……情報を、引き出さないと)


 それでも隆弘は、悪足掻きのようにキーボードに手を置いて、何かしらの文字を叩き出そうとする。武井法子の状況についてのヒントや、「のりこさん」の正体が窺えそうなことを。世間話のオブラートに包んで、どうにか――


 でも、隆弘が次のメッセージを送る前に、またひとつ、通知のアイコンが赤く点った。norikoの――のりこさんからの、メッセージだ。


 ――隆弘、アカウントつくったばっかじゃん。私、フォローしてよ。


 ごくり、と。唾を呑む音が隆弘の頭の中に響いた。動かそうとした手も、止まってしまう。彼の脳に駆け巡るのは、矢野氏から聞いた、あるいは資料で読んだのりこさんに関する噂だ。

 すなわち。のりこさんをフォローしたら「友達」になってしまう。離れようとしたら祟られる。SNSのフォローは、幽霊との通路を自ら開く行為になってしまうから。のりこさんは、より多くの友達を求める。そして入れ替わろうとする。のっとろうとする。だから――


 のりこさんに、見つかってはいけない。

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