第65話
麻貴はパレスの大きな庭をチェックしているうちに、隅の一画に古ぼけた離れ家があることに気づいた。
家の前に荒れた庭園のある小さな洋館は、人の訪れを拒んでいるようなたたずまいだ。またこういうものを放っておけないのも麻貴の性格だ。
錆びた庭門を開けて中に入る。さらに、洋館のドアノブを握ったが、鍵は掛っていないようだった。足を踏み入れると、キラキラひかるほこりの向こうに、壁に掛った立派な額装の画が見えた。背後に若い夫婦を従え、豪華な椅子に座る自信に満ちた初老の夫婦。その膝の上にはこどもがいる。どこかで見た顔だなと、しばらく考えるうちにそれがジョンであることに気づいた。
周りを見渡すとそれぞれの家具や室内の空気が、朽ちているとは言わないが、かなり澱んでいる感じがする。オーク材でできたキャビネットの上に写真立てがあり、見ると、幸せそうな笑顔で寄り添う老夫婦が写っていた。ああ、あの絵と同じ老夫婦か。その時背後で物音がした。
「家主の許可もなく入ってくるとは、非常識にもほどがある!」
見ると、車いすに座った老人が、眉間にしわを寄せてがなりたてていた。もとより麻貴にはタガログ語が分かるはずもない。
「こんにちは、おじいさん。これからこの部屋を掃除しますから、埃をかぶらないように外に居てくださいね。」
「この家から出ていけ!この無礼者!」
老人は、タガログ語でもかなり汚い言葉で麻貴を罵倒しているが、麻貴はいっこうに構わず、笑顔で車いすのハンドルを取ると庭に押していった。
庭にあったパラソルで日陰を作り、ガーデンテーブルをどこからか見つけ出してきて老人の前に置く。老人は、何を言っても動じない、いや通じていないのだが、どこの国の人ともわからないこの女性に唖然とした。
麻貴は、家の中から小さくて奇麗な絵皿を取ってきて、自分が日本から持ってきていたチョコレートを盛る。
「勝手に家のものを持ち出すでない!」
青筋を立てて、さらにがなりたてる老人の口に、麻貴は小さなチョコレートをひとつ放り込んだ。
「お口は怒鳴るためにあるんじゃないですよ」
老人はこの麻貴の意外な行動で口を封じられた。
「きゃっ!おじいさん助けて!」
今度は、あろうことか麻貴が老人にしがみつく。見ると蜂が、チョコレートを狙って飛んできたのだ。老人は仕方なく、片手で蜂を追いやったが、麻貴はそれでも老人にしがみついて震えている。
こんな麻貴を見て、おもわず老人の口元がゆるんだ。絵皿、チョコレート、蜂嫌い。これらはすべて、数年前になくした最愛の伴侶の嗜好そのものだったのだ。
老人は、妻を亡くしてから失望のあまり、今は外界との接触を絶っている。妻は、世界中から集めたきれいな絵皿に、大好きなチョコレートを盛って、幸せそうに彼に微笑んだものだ。そして、庭いじりの最中に蜂に襲われると彼の陰に隠れ、いつまでも震えていた。麻貴を見ながら、そんな妻の面影を重ねて、懐かしく思い出していた。
「おじょうさんも、蜂が怖いのかい?」
老人は、こんどは麻貴にもわかるようにと、不得意な英語で話した。
「ええ、大嫌いです!」
「亡くした私の妻も、蜂が大嫌いでね。私の名はトニーというのだが、ケンカした時は、『Tony Bee!! I hate you!!(トニーの蜂野郎!大嫌いだ!)』といってよく私を蹴ったものだよ」
「その気持ち、よくわかります。」
コロコロと笑う麻貴。
「それが悔しくてね、妻への当てつけで、自分が作った店の名前を『Jollibee(ジョリービー/お祭り気分の陽気な蜂野郎)』にしてやったのさ」
老人も久しぶりに笑った。
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