第56話55.領主の選択 17

 甘やかな夢は、天蓋の紗を透かして降りそそぐ光によって破られた。窓の掛け布が半分ほど引かれていたらしい。

「ん……ヨシュア……?」

 ころんと寝返りを打ったレーニエに応える声はなく、伸ばした腕は空を掻いてぱさりと落ちる。

 覚醒はいきなり訪れた。

 はっと上半身を起して隣を見ても、大きな寝台には自分一人きり。敷布に刻まれた波紋だけが昨夜の語り部だった。

 ヨシュア、そんな……まさか、行ってしまった?

 私を置いて―――。

 あの腕の中で幸福に包まれて眠ったのは、ついさっきの事だと言うのに。

 慌てて、掛布を剥いで寝台をまろび出る。レーニエは自分がきちんと寝間着を着ている事に気がついた。見慣れた寝室は明るく、斜めに射す秋の陽光で満ち溢れている。

「いや……嫌だ、ヨシュア」

 部屋の中のあらゆるものが、美しく穏やかにあるべき姿をさらしているのに、そこに彼がいた形跡は何もなく、もしやと思って隣室や浴室を見ても、同じことだった。まるで初めから全てレーニエの見た夢だったかのように。

 全ては夕べ、サリアが部屋を出て行った時のまま――いや、たった一つ――寝台の小卓に赤い酒の入った玻璃の瓶が置かれているのをが見えた。杯は二つ。その一つに酒が残っている。昨夜は二人とも酒には手を付けていない筈だった。

 駆けよってみると、グラスには注がれた酒を半分だけ飲んだ痕があった。それは全て干されることなく、赤い光の輪が卓の上で揺れている。

 レーニエは本能でわかった。ファイザルは昨夜、最後まで自分を気づかい、彼女を純潔のままに留めたのだ。そして眠った彼女を置いて去った。

 何故?

 グラスを手に取ったレーニエの指が震える。いつのまにかこぼれた涙の雫が、グラスの中にしたたった。

 どうして……ヨシュア!

 崩れ落ちそうになる膝を必死でとどめる。

「あ……ああ……」

 熱く覆い被さる胸や、逞しく彼女を腕きとめた腕、何より彼女を狂おしく翻弄した唇や、指の感触がまざまざと肌に残っているのに彼はいない。

 込み上げる喪失感についにがくりと膝をつく。グラス中の酒が激しく揺れる。

 嫌、こんな……こんなのは嫌だ。

 堪(こら)えても嗚咽が漏れる。涙が幾筋も頬を伝って寝間着を濡らした。

 ヨシュア! あなたは今日行ってしまうのに。どうして私に何も残していかなかったのだ……どうして!

 向こうの壁の大きな姿見に、這いつくばる惨めな自分が映っているのが見えた。置き去られて辛くて堪らないのに、鏡の中の自分は、白い寝間着と髪が朝日に映え、滑稽なほど明るくみえる。

 素敵だ。

 昨夜のファイザルの言葉が蘇る。こんな自分を見て彼は確かにそう言ったのだ。レーニエは鏡に映り込んだ自分を見つめた。彼はどんな気持ちで自分を見つめ、そう言ったのだろうか。

 レーニエはゆっくり立ち上がると姿見の前に立った。

 幼い頃から大嫌いだった髪、瞳、肌。この顔。

 しかし、ファイザルは貴重なものでも扱うかのように、大きな手で肌を撫で、唇で愛撫した。そして何度も何度もきれいだと言ってくれた。自分を否定し、嫌いでいることは、彼の言葉を信じないと言う事になる。愛していると、だからこそ何も誓えないと言った彼の言葉は、決してその場しのぎの偽りではなかった。

 それならば。

 自分はこれから何をするべきなのか。

 レーニエは自分に挑みかかるように、鏡を睨みつけていた。


 サリアがいつもの支度を整えて、扉をノックする。

「おはようございます……レーニエ様! 何を!?」

 窓から差し込む秋の朝日を受けたレーニエが窓辺に立っている。扉に背を向け、露台に向かって。翳すように薄い布を持っているため、輪郭が陽に透けてこの上なく幻想的だが、サリアにはそのような事を楽しんでいるヒマはなかった。

「何をなさっていますか!」

 慌ててその辺に脱ぎ捨てられていたガウンを拾い上げ後ろから被せるが、レーニエの視線は尚も窓外に向けられていた。

「今日は出立の式典があると言うのに! お風邪など召されたら……」

「大丈夫だ。それより大急ぎで支度をして。湯を使う」

「お湯? 今から入浴されるのでございますか?」

 驚きながらもサリアは、レーニエの肌に視線を注いだ。よく見なければ分からぬほどの淡い花びらのような痕が数箇所。それ以外はなにもないことに気が付いた。寝台の敷布はやや乱れてはいるものの、いつもと変わりがない。

 ふん、そういうことか、とサリアは刹那に理解した。

 まぁね、こういうことだろうとは思っていたけれども……あの方は本当にレーニエ様を大切に想ってくださるのだわ。だけど、レーニエ様は……レーニエ様はわかっていらっしゃるのかしら? お辛くはないのかしら?

「サリア」

 考え込んではいても、こまめにレーニエにガウンを着せかけるサリアに、レーニエは改まった声で呼びかける。その様子は落ち着き払っており、悲嘆にくれた様子はない。

 ただ――頬に涙を擦った痕跡が僅かに残っていた。

「は、はい! 失礼いたしました。お熱……は、ございませんね。なんでしょうか?」

 サリアは熱を見るふりをしてじっくりと主の顔を見つめたが、レーニエの瞳は既に乾いていて、赤い虹彩が朝日を受けて澄んだ光を宿している。

「うん。今日はファイザル殿の出立式だ。私もきちんとしなくては失礼にあたる。オリイに私の正装を出しておくように言って」

「は? 正装……で、ございますか?」

 サリアは目を見張った。

「そう。母上からたまわった私の正装だ」

 光の中でレーニエは微笑んだ。




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