第123話≪尾てい骨骨折・3≫
新・ここは世田谷豪徳寺・26(さくら編)
≪尾てい骨骨折・3≫
目が覚めると、世界はハッカの香りに満ち満ちていた。
目が覚めきるにつれ、香りの元が自分の口だと分かって驚いた。さつきネエがニヤニヤしている。
「ちょっと、あたしに何かした?」
「え、覚えてないの?」
「なんのことよさ?」
「さくら、寝言でのど飴くれって言ってたんだよ」
さつきネエの話では、あたしは寝ながら口をパクパクやっていたらしい。で、のど飴と言ったらしい……。
「あら、声もどったのね」
今度はお母さんに言われた。
「え、そんなだったのあたし?」
「覚えてないの?」
「え、ああ、ううん」
いいかげんな返事をしたが、実のところ、昨日の秋分の日の記憶が飛んでいた。若年性健忘症……にしては、それ以前の記憶はしっかりしている。尾てい骨が痛いことや、そのために数学の先生に誤解されたこと。そいでひい祖母ちゃんが夢の中に……そうだ、ここから記憶があいまいだ。
今日はレイア姫の勝負パンツを穿いている。と言っても放課後怪しげなことをするためではない。今日は苦手な音楽の歌唱テスト。まあ、人並みに歌えればいいと思って、歌は教科書の『若者たち』と決めている。ただ江戸っ子の見栄っ張りで恥はかきたくない。当たり前程度には歌えて、尾てい骨に響きませんようにとの願いから。
で、音楽のテストの時間になった。
「じゃ、次、佐倉さくらさん」
「はい」
腹はくくっている。
「曲目は?」
「ゴンドラの唄……」
と言って自分でも驚いた。どこへ行ったのだ『若者たち』は!?
「えらく、渋い曲ね、先生弾けるかなあ……」
ほんの少し考えて音楽の美音先生が前奏を奏で始めた。
いのち短し 恋せよ乙女 あかき唇 あせぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを
いのち短し 恋せよ乙女 いざ手をとりて かの舟に いざ燃ゆる頬を 君が頬に ここには誰れも 来ぬものを
いのち短し 恋せよ乙女 波にただよう 舟のよに 君が柔わ手を 我が肩に ここには人目も 無いものを
いのち短し 恋せよ乙女 黒髪の色 褪せぬ間に 心のほのお 消えぬ間に 今日はふたたび 来ぬものを
美音先生やみんながびっくりした。一番びっくりしたのはあたしだった。
こんな歌は聞いたこともないし、唄ったこともない。
「すごいいわよ、佐倉さん。ちょっと待っててね……」
先生はデスクのパソコンを操作して森昌子さんの『ゴンドラの唄』を流した。
「すごい、先生、もう一度歌ってもらって録画していいですか?」
マクサが言った。気が付いた、順番から言えば佐久間マクサの方が先なんだけど、あたしが先になったことに誰も不審に思っていない。マクサは、どうやら気づいているようで、あわよくば自分の番が回ってこないうちに時間を終わらせようという腹だ。
いつもなら、こんなズルッコ許さないんだけど、あたしは自分でも歌いたい気持ちになっていた。
「すごいすごい! あたしのピアノもカンタービレになっちゃった!」と、先生。
これが奇跡の始まりだった……。
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