Ⅴ―境界
小学校の卒業を目前に控えた春、香月は何かの用事のついでにナリを連れて銀行へ行き、口座を開設させてATMの使い方を教えた。どこにでもある、大手のメガバンクだった。
「暗証番号って、何でもいいの?」
「自分の誕生日とか住所とかじゃなければいいよ」
何かの片手間に香月がそう答え、ナリは少し考えて母親の誕生日を書き込んだ。誕生日を祝う習慣も、祝われる習慣も無かったが、なぜか幼い頃から忘れようの無い数字だった。
――馬鹿だ、私。ほんと馬鹿だ。
マンションのエントランスを出るなり、ナリは走り出した。黒々と雨に濡れた夜道のアスファルトを踏みしめて、千駄ヶ谷の駅に向かって走った。
風で、雨が傘の内側に吹き込んだが、どうでも良かった。
水溜りから撥ねる飛沫が、膝から下を濡らした。
街灯の明かりが、か細く歩道を照らしている。周囲の建物も、明かりが点いている窓は半分くらいだった。都心のマンションは空き部屋だらけだ。人の温度を知らない、空白の箱。
もっとも、人が二人も住んでいながら冷え切った部屋が存在することを、ナリは良く知っていた。
痛いほど、知っていたはずだった。
痛覚が麻痺していなければ。
駅を目前にして、赤信号にぶつかった。信号待ちの短い時間が、いつになく勿体無かった。ナリはポケットからスマートフォンを取り出して、ヒカルの電話番号を呼び出した。三、四回のコール音の後、繋がった。
『――はい』
「ヒカル? 私、佐藤ナリだけど」
『……』
短い沈黙。
『……なに?』
「今、まだ研究室にいる?」
『……いるけど』
「もうちょっとそこにいて」
『何の用』
「後で。じゃね」
ヒカルの問いかけには答えず、電話を切った。
信号が変わると同時に、再びナリは走り出した。
夜九時近い時間だった。
文部科学省の別館のエレベーターには、殆ど人が乗っていなかった。エレベーターを降りた先の廊下も、人の気配がしなかった。
ナリは真っ直ぐ研究室に向かった。
ドアを開けると、部屋の中は半分しか明かりが点いていなかった。案の定、研究室に残っているのはヒカルだけだった。無人のワークステーションの列がひっそりと佇み、部屋の一番奥の、明かりが点いているところに、ぽつんとヒカルの背中があった。
遠くから、キーボードを打つ乾いた音だけが、かすかに聞こえてくる。
後ろ手にドアを閉じて、ナリは暫くその背中を見つめていた。
ヒカルが振り返った。だがヒカルは、ナリの姿を認めただけで、何も言わずに再びモニタへ視線を戻した。
ナリは、ゆっくりと部屋の奥へ向かって、歩いて行った。
ヒカルの背後で足を止める。ヒカルが見ているモニタの文字列を、ナリもヒカルの肩越しに見ているようで、だが実際には自分には何処も見えていないような気分だった。
ヒカルが手を止めて、今度は椅子ごとナリのほうを振り返った。
「……びしょ濡れじゃん。何してんの」
「分かんない」
「あっそ」
濡れた足から、空調の風に熱を奪われてゆく。ひんやりと冷えた肌の下で、名前の付かない思いが燻っている。ナリはぽつりと言った。
「だよね。興味、ないよね」
「何に」
「――私に」
「……」
ヒカルは目を逸らして、逡巡するように首を傾げた。ヒカルが答えるのを待たず、ナリが口を開いた。
「言いに来たの」
「俺に?」
ナリは小さく頷いた。
ワークステーションのファンの音だけが異様に大きく、ざらざらと耳に響いていた。それすらも遠い世界の出来事のようで、理由もなく、今ならどんな沈黙も、怖くなかった。
「私、ヒカルが好きだ」
長い前髪と伊達眼鏡の向こうの瞳が、僅かに見開かれた。小さな揺らぎも見逃すまいと、ナリはヒカルの瞳を真っ直ぐ見つめていた。
ヒカルが少し、眉を顰めた。
「――それ、本気?」
「本気」
「正気?」
ナリは小さく噴き出した。目の前のヒカルは真顔だったが、それと相まって思わず苦笑いが零れた。
「……正気じゃ、ないかもね」
真顔のまま、ヒカルが言った。
「なら、止めとけば?」
薄暗い研究室で、ナリとヒカルのいる所だけ、白々と人工の光に照らされている。
ナリはゆっくりと、ヒカルの肩に手をかけた。
そのまま静かに、ヒカルの唇に、自分の唇を重ねた。
唇を離すと、ヒカルの凪いだ瞳が目の前にあった。
「……正気じゃないかもしんない。けど、そういうの、どうでも良くなった」
「……」
ヒカルの瞳からは、好意も拒絶も読み取れなかった。ただ、いつもの柔らかい声で、ヒカルが冷たく言うのが聞こえた。
「……何だか知らないけど。自棄っぱちに巻き込まれても困るんだけど」
「違う、――」
――『困る』。
ナリの耳に、いつかの自分の言葉が蘇った。
ここで、全部止めたくはないのに。
私はどこまでも、どうしてこんなに卑怯なんだろう、という絶望が頭の中を駆け巡った。我儘な望みを空回りさせて、その先で何が出来ると考えていたのだろう。
今ここで天変地異が起きて私が死んだらいいのに。
そう思った時、ヒカルが椅子から立ち上がった。
キーボードを叩いてデータのバックアップを取り、使っていたシステムからログオフだけして、モニタが煌々と光を放っているのを気にも留めず、ナリの横をすり抜けて、ドアのほうへ歩いていった。
ナリはただ、明るすぎるモニタを前にして、立ち尽していた。目に、行き場の無い熱を持った涙が、滲んでくるのが分かった。
だが、黙って部屋を出て行くと思っていたヒカルの声が、背後から聞こえた。
「本気なの?」
はっとして、ナリは振り返った。
部屋のドアの前で、ヒカルが上着のポケットに両手を突っ込んで、こちらを見ていた。
ナリは深く頷いた。
「……本気だよ」
暫く、ヒカルは黙ってナリのほうを眺めていた。ナリはヒカルの、伊達眼鏡とカラーコンタクトの奥の瞳を見つめていた。これまでもこれからも関係無く、せめて今だけは、ヒカルが自分から目を逸らさないでいてくれる限り、そうしていたかった。
「……正気じゃないのは、まあ、いいけど」
ヒカルが独り言のように、呟いた。そして、ナリに向かって言った。
「なら、ついて来て」
ヒカルの意図が全く分からないままで、だが欠片ほどの迷いもなく、ナリは静かに答えた。
「分かった」
ビルのエントランスを出ると、ヒカルは地下のメトロの駅へは向かわず、外堀通り沿いに進んだ。ナリは、折り畳み傘を差したヒカルの後ろについて、黙ったまま歩いた。車道を走る大型車のライトが歩道を舐める度に、細かい雨粒が、ヒカルの背中に斜め掛けにされたメッセンジャーバッグの上で光った。
十分くらい歩いた頃、四角い官公庁の建物ばかりだった周囲の景色が、猥雑に入り組んだ繁華街になった。ヒカルは更に繁華街を縫うように歩き、細い路地を入ってすぐのビルの前で足を止めて、振り返った。
ナリはビルを見上げた。
暗い路地の中で、自動ドアの内側から白い光が伸びている。看板も青白い照明に照らされ、レンタルルームと書いてある。だが、看板のすぐ下に『宿泊』『休憩』と書かれた料金表があるところを見ると、どう考えても実態はラブホテルだ。
半ば唖然としてそれを眺めていると、ヒカルが言った。
「まだ、付いてくる気、あるの」
ナリの心の奥底で、理性が苦笑いを零した。迷いも沸かないんだから困ったもんだよね、と、他人事のように嘲笑う。
ビルを見上げながら、ナリは答えた。
「……あるみたい」
自動ドアをくぐるヒカルの後について、ナリもビルの中に入った。
フロントでヒカルは、一枚差し出された紙に軽い手つきで住所氏名を書きいれ、部屋のキーを受け取った。ナリはヒカルの背後で、フロントの係員からは目を逸らし、濡れた傘から落ちる水滴を見つめながら、こういう所って高校生が入っていいんだっけ、まあ名前がラブホテルじゃなくても多分アウトだろうな、などとぼんやり考えていた。
ヒカルの後について部屋に入り、靴を脱いでも、まだどこか現実から遠いように思えた。
部屋の内装は一昔前のモダンスタイルといった雰囲気で、繁華街の雑然とした卑猥さを精一杯脱ぎ捨て、オフィス風の清潔感を醸し出していた。そうやって演出しようとしている空気に、間接照明とガラス張りのシャワーブースが逆らっている。
ヒカルは、カーペットの床にメッセンジャーバッグを置いて、上着のジッパーを下ろした。何をすれば良いか分からず、ただ立っているナリに、ヒカルが言った。
「別に襲わないから」
「は?」
「ただ、見せたいものがあったから。それだけ」
上着を脱ぐと、高い襟に隠れていたヒカルの首筋が、露わになった。滑らかで白い曲線を描いていた。
ヒカルは急ぐわけでもなく、何の感情も滲まない淡々とした手つきで、眼鏡を外した。続いて手首までを覆っていた長袖のTシャツを脱いだ。ヒカルはその下に、更に黒いタンクトップを着ていた。
タンクトップを脱ぐと、ようやく白い肌が剥き出しになった。
ナリの瞳が、ゆっくりと見開かれていった。
細い鎖骨の線が、なだらかに肩と上腕に続き、身体を囲んでいる。それらの内側に小さく、しかし柔らかく膨らんだ胸があり、肋骨からすとんと落ちた先で華奢なウエストに繋がっていた。
目の前にあるのは、疑いようもない、少女の肢体だった。
ナリは時が流れるのを忘れて、それを見ていた。
沈黙がどの位続いた頃か、ヒカルが口を開いた。
「――こういうこと」
いつものヒカルの声だった。
目の前にある滑らかな身体の線と、それに矛盾する少年の声を、ナリは瞬時に頭の中で結び付けた。何かがすとんと腑に落ちると同時に、ナリの唇から言葉が零れた。
「…………知ってた」
今度は、ヒカルが瞳を見開いた。
だが、ひと呼吸置いて、瞳の色は蔑みに変わった。静かな声で、ヒカルが言った。
「……適当な嘘、吐くんじゃねえよ」
「ごめん、でも違う――」
「何が、違うんだよ。空気読んだつもりかよ」
「そんなんじゃない!」
思わず、ナリは叫んでいた。
「変だと思っていいよ! けど今、分かった気がしたんだ――知ってたっていうのは、どっか違うかもしれないけど、でも……分かった気がした。納得した」
「――」
「今までぼんやりしてたヒカルの形が、すごいはっきり見えたみたいな。多分私は、答えをもらえたんだよ、今。理解できたんだよ。ああそっか、だからヒカルはこういうヒカルだったんだ、って――」
多くの言葉を重ねれば、言葉で表せないものを伝えられるだろうか。
懸命に伝えようとすればするほど、もどかしかった。
暗く深い水の中で、手探りでもがいている。
それでも諦めるわけには、いかない。
諦めたくない。
「私は、まだ……ヒカルが、好きだよ」
瞼の奥が熱かった。
泣くもんか、と思って顔を上げていた。
簡単に涙なんて流したくなかった。
意地で隠し通すつもりで、
そんな自信が揺らいだ時、
ヒカルが小さく笑った。
「……馬鹿だね」
つられてナリも、笑った。
「馬鹿だよ。知ってたでしょ」
ヒカルが頷いた。
「――知ってた」
小さな間接照明の光だけ残して、部屋を暗くして、二人は同じベッドの上で仰向けに寝転がって、夜が更けてゆくのをただ見ていた。
「――私、一つ知りたいんだけど」
「何」
「ヒカルって、本名?」
天井を見上げたまま、一呼吸置いて、ヒカルが答えた。
「戸籍とかは、漢字一文字で『ひかり』。『くろすひかり』」
「くろす?」
「苗字」
「え? 溝口じゃないの?」
驚いてナリは身体を起こした。ヒカルは天井を見上げたまま、答えた。
「俺、親の再婚とかで苗字何度か変わってるから」
「へえ……。苗字いくつもあるような感じ? 便利じゃん」
「ん」
「……羨ましいな」
「クソだよ。俺の親」
「違うよ」
ナリは即座に否定した。さも可笑しそうに、くすくす笑っている自分がいる。現実離れした現実だった。
「――私の名前、ナリって、漢字で名無しって書くの。名前のナの字に、果物のナシで、『名梨』。ウケるよね。役所も止めろよって感じ」
「すっげー」
棒読みで淡々と、ヒカルが感嘆の台詞を吐き出した。
「名前付けるのめんどくさかったって丸分かりじゃん? ほんとその通りで、親、別に産みたくなかったんだって。私のこと。ただ、不倫で出来ちゃって、養育費とかくれるって言うから産んだんだって」
「そんな金、貰えないパターンのほうが多いっしょ」
「それが貰ったんだって。最初にどかーんって、十年分以上。それにめちゃくちゃお金持ってる人だったから、妊娠中からもうマンション買って貰ってたんだって」
「バブルかよ」
「ほんとそれ。――馬鹿みたい」
砂地にむき出しの枯れ木のような自分の根っこの部分を、軽口叩きながら話した事など、これまでにあっただろうか。ナリには思い出せない。
あるとは思えない記憶を呼び起こすなんて、不可能だ。
「……どこが、羨ましいわけ。俺の」
ヒカルが言った。ナリはゆっくりと、言葉を探した。
「ヒカルはさ、――名前も、見た目も、自分でなりたいように選んじゃってるでしょ」
「んー…」
返事に悩むような声だったので、傷つけるような事を言ってしまったかと思い、ナリは慌てた。
「あれ? 違った?」
「……そうでもなかった」
ナリの動揺とは裏腹に、ヒカルはのんびりと言った。
「脅かさないでよ。超失礼な事言ったかと思った」
「失礼な事言われたかと思ったけど、この格好は好きでこうしてるし、名前はクズな親が犯罪やらかした時の本名使いたくないからこうしてるし、自分で選んでたわ、俺」
「良かった。似合ってるよ、ヒカルの髪型と格好」
「ども」
「高校ん時、制服は無かったの?」
「俺、高校行ってない」
「そうなの?」
「中学は制服あった。あんまし行かなかったけど」
「制服が嫌だったから?」
「そうでもない」
ナリは以前に坂本から聞いた話を思い出した。ヒカルは以前、クラッキングで警察に捕まりかけた。ということは、相当波乱に満ちた子供時代を過ごしてきたのだろう。
ナリの、表向きにはさざ波すら立てないよう取り繕った生活とは、遠くかけ離れた日々を。
物心ついた頃から、ナリは他所の大人に『可哀想』と言われるのを無意識に避けていた。同じ年頃の子供達を観察して最大公約数を探る。そうして集団に埋没する保護色を装って、大人達から奇異の目を投げかけられずにいたかった。
「……制服ってさ、私、便利だと思うんだ。適当に制服着てれば、他人が見た目で勝手に判断してくれるから。真面目そうな普通の子だ、女子高生だ、って。身分も、歳も、性別も」
「あー、それはなんか分かる」
「ほんとはそういう枠、すごいめんどくさい。死ぬほどめんどくさい。けど、私服だと、小学校の時なんか、母子家庭でもいい服着ててお金あるのねとか、お母さんに買ってもらったの?とか、そういう女の子っぽくない色が好きなの?とか、もう迷惑極まりない大人がすっごい後から後から沸いてくるから、勘弁してよってなった」
「太川のおばちゃんタイプ」
「そうそう、それ」
ヒカルの言葉に頷いて、ナリはくすりと笑った。
「私もそこまでお人好しな子供じゃなかったけど、理解はしてたよ。子供のうちは、大人に気にしてもらわないと色々生きてけないってのは。分かるんだよ。でも実際は、煩わしい大人ばっかりが寄ってきて口先だけ出してくる。それ、なんか違うよって。言ったら逆切れされるから言わないけど」
「……煩わしい」
仰向けで天井を見上げたまま、ヒカルが独り言のように呟いた。
「俺、坂本さんに言われた」
「……?」
「君はちゃんと子供をやってきてないんだねって」
「――。『ちゃんと子供をやる』かぁ……」
「確かに俺、アングラな親に言われるがままハッキングしまくって、これアウトでしょってガキでも分かる金稼ぎしてきたから、じゃあどうすりゃいいんですかって訊いたら」
「何て?」
「のほほーんと、埋め合わせは出来ると思うよー自覚さえしてれば。まあ時間掛かるだろうけどねー。て言われた」
「他人事じゃん」
ナリも仰向けで天井だけ眺めたまま、でも他人事は他人事なんだな、と思った。
隣にヒカルが、これまでで一番近くにいる。唇を重ねた時よりもずっと近い。
それでいて、ヒカルの心の中には、絶対に入れない。
それでいい、と思った。
ヒカルの中にナリを混ぜたら、ヒカルでなくなってしまう。
レンタルルームのベッドで寝転がって目を閉じても、結局殆ど眠れなかった。
数時間うとうとして、始発電車が走り始める頃、二人はそこを出た。
昨日雨の中でびしょ濡れになった足が、ひりひりと熱を持ち始めていた。ナリは、レンタルルームのシャワーで足だけでも洗ってくれば良かった、と後悔した。
新橋駅のホームのベンチに二人並んで座って、コンビニで買ったパンを齧りながら、ナリは香月の事をぽつりぽつりと話した。ナリの遺伝子上の父親とは別に、大体常に彼氏がいること。ナリが幼い頃から、家にいる時間よりいない時間のほうが長かったこと。対外的には『仕事の出来る華やかな美女』で、実生活では家事能力が欠如しており、なお且つ本人にもやる気が無いこと。早朝の時間帯である今現在、家にいるかどうかが分からないほど、生活パターンが自由奔放であること。
家で親と顔合わせたくないと呟いたら、ヒカルが
「うちに来る?」
と訊いたので、ナリはそのままヒカルと同じ電車に乗った。
電車の中吊りに、夏休みの旅行のプランを謳う広告がぶら下がっている。
広告の爽やかで眩しい写真とは裏腹に、窓の外の空は、雨の湿気を含んだ靄に覆われていた。
ヒカルの住み処は、蒲田で電車を降りて、暫く歩いた細い路地にあった。
古びた鉄筋コンクリートの、四角い外観。灰色の壁に、錆びた看板の枠だけが残っていた。四階建てで、昔は下半分が町工場だったらしい。最上階まで階段を上がると、格子のついた窓と、剥き出しの古い換気扇と、丸いドアノブのついた鉄の扉が、セットで幾つか並んでいた。そのうちの一つが、ヒカルの部屋だった。
靴が四足も並べば一杯になりそうな狭い玄関を入って、ナリは部屋の中を見回した。
部屋の中は案外広く、そして驚くほど物が少なかった。
階下の町工場跡から貰ってきたという大きな作業台を中心に、大きなタワー型のパソコンが複数台と液晶のスクリーン、それらとは別にラップトップがあり、机の下には黒と白のケーブルが大きなとぐろを巻いている。その机周りが、最も物が多い場所だった。
「パソコン何台あるの?」
「七台」
「マジ? 何に使ってんの」
ヒカルは問いに答えず、ひとつの液晶パネルの電源を入れて、画面を指した。
映し出されているものをよくよく見て、ナリは吹き出した。どう見ても文科省のメールサーバの中身だ。しかも、今現在の、である。
悪びれる素振りも見せず、飄々とヒカルが言った。
「文科省経由で自衛隊とかも結構いけた。さすがにあそこから衛星本体には入れなかったけど」
「あそこって、研究室?」
「ん」
「こんなことしてたの? よくばれなかったね」
「部屋に人がいる時は、ファイアウォールのソフト作ってた」
「……矛盾が酷すぎるんだけど」
ナリは心底呆れたが、これまでのヒカルの行動には合点がいった。プロジェクトのミーティングの席で「これ、全部ありますよね。既に」と言い放ったあれは、ハッタリでも何でもなく、実際にヒカルは知っていたのだ。恐らく、あの場にいた誰よりも知っていた。今、国内外で何が起きているのか。そして――
――これから先、何が起ころうとしているのか。
簡素なパイプベッドの下には、業務用のプラスチックの折りたたみコンテナがいくつか置かれていた。見たところ、コンテナの中には電子機器のパーツのような物や、洋服や、その他少ない生活雑貨が、大雑把にカテゴリ毎に分けられて放り込まれているらしい。まるで、パソコンのデータフォルダのようだった。ただでさえ少ない荷物が、すぐに何処にでも運べそうな姿で並んでいる。
それらを見ていると、視界の端でヒカルがスマートフォンを取り出すのが見えた。電話が掛かってきたらしい。
発信者の番号を見て首を傾げながら、ヒカルはそれに応答した。
「はい――どうしたんすか、朝っぱらから。……は?」
ヒカルが眉を顰める。
「……や、持ってないすけど。…………はい」
妙な雰囲気を感じて、ナリはヒカルの横顔から目を離せなくなった。ヒカルの目に驚きが浮かんでいる。
暫くヒカルは、電話の向こうの人物の話を黙って聞いていた。が、やおらスマートフォンを耳から離して、
「ちょっと待ってもらえますか。――ナリ」
と、突然ナリに話しかけた。
「え? 私?」
「パスポート、持ってる?」
「は? パスポート?」
ナリは目を丸くして、首を振った。ヒカルは軽く頷いて、スマートフォンの通話に戻った。
「坂本さん、一つお願いがあるんすけど。それ、ナリも一緒に行けないですか」
事態が全く、飲み込めない。
ナリはヒカルの横顔、電話の向こうの坂本に対する真剣な眼差しを、ただ呆然と見ていた。
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