第81話 灰色の駅前

 都会の動きは止まり、赤茶けた空が重苦しい。こんな異様な空気は初めてだ……。

 渚沙は、灰色のM駅の前で人々と共に立ち尽くしていた。


 その時だった――ふと視線が引き寄せられた方向を見ると、鉄橋の下から小型スーツケースを引いた男がやって来る。金曜日の夕方の五時台に、出張するという服装でもなく、旅行という雰囲気でもない。その男を見た瞬間、渚沙はやっと深刻さに気づいた。先程の地震は、多分、普通の地震ではなかったのだろう。その辺りでは見た限り、電車が動かないのと、数か所で停電している以外には何も被害が出ていないようだが、どこか遠くでえらいことになっているのかもしれない。最初の大きな地震が起こってから随分遅く駅にやって来たこの男は、テレビでニュースを見たり、遠方の知人から連絡が来たりして、慌てて最小限の荷物をまとめて家を出て来た――そんなふうに見えた。もしかして、日本から脱出しなくてはいけないような状況なのではないか?

 

 そう考えた次の瞬間、突然理由もなくひとつの言葉が鮮明に思い浮かんだ。

「スピリチュアル・クリミナル」


 ……そうか、この異常事態は連中のせいか。

 スピリチュアル・ビジネスで人々を洗脳し、大儲けしている自称大天使のヒーラー、ヨアヒムのことをナータはそう呼んだ。スピリチュアル・クリミナルは彼一人ではない。世界中に増殖し、日本にも多数の個人、大小のグループ、神や仏の名を利用する組織がやりたい放題悪事を働いているが、検挙しにくい厄介な犯罪者たちである。スピリチュアル・クリミナルの大半は、ナータが二〇〇四年に明かした日本の自然災害の理由である「聖人やグルになりたがる人」だが、今回は彼らだけじゃないはずだ。


 渚沙がそう思ったのは、この日の二つの予定が象徴していることに気づいたからだ。人を精神病院送りにしているスピリチュアル・カウンセラーの原島克昭。と、もう一つが「美のパーティ」。

 スピリチュアル・クリミナルのほうが重罪ではあるが、見栄と欲望に翻弄ほんろうされ、自分のことしか考えず利己的に振る舞う物質主義者たちの罪だ。感謝、謙虚さ、奉仕などとは無縁で、動物的本能のままに無価値な人生を送り、社会のあらゆる場面で他人に迷惑をかけ、母国にとって何の役にも立たない人種は今の日本にけっこういそうだ。


 渚沙は、今の日本が抱えている問題に気付くと、ナータのことを思い浮かべた。何故、ドイツ行きを決めていた渚沙に向って、わざわざみんなの前でナータが大声で日本に行くようにいったのか明白に理解した。そして、環境が整ったらすぐにやろうとあることを決意した。 

  


 原島克昭はらしまかつあきが電話を掛けてきた。渚沙はこの状況において、ナータの警告をずっと無視してきたこの男と話をする気にはとてもなれず出ることを拒否した。少ししてからショートメッセーシでやりとりをして、とりあえず面会を中止した。

 万が一電車が動いても、ふたつ目の予定のパーティーの始まりにも間に合わない時間になると、渚沙はとうとう諦めてマンションに戻ることに決めた。まだ多くの人たちが駅前に残っていた。


 いつもの道は歩道が狭くて通りたくない。今まで歩いたことのない駅から出てすぐ左にある大きな道から帰りたい。もし、大きな地震がまた起きても広々としているので安心感がある。


 鉄橋の下をくぐると、ビルの工事のおじさんが安全案内のために立っていて渚沙に声を掛けてきた。

「駅の様子はどうですか」

「ずっと駅前で待っていたんですけれど、電車が動かないので諦めました。これから帰るところです」

「僕も帰れるだろうか」おじさんは不安そうだ。

「夜になれば動き出すかもしれませんよ。あの……この建物、これから建てるんですか?」

 ビルらしき建物は鉄筋がき出しになっていて、四階くらいの高さまで組み立てられている。

「そうですよ」

「何階建てですか?」渚沙にとって、このおじさんから今一番知りたいことだった。

「二十六階建てだよ」

「そんなに高いビルは建てないほうがいいですよ。今日みたいな地震が来たら、倒れちゃいますよ」渚沙は、遠慮気味にだが真剣に主張した。

 少し前に自分が十三階建のマンションの五階にいて、死ぬほど揺れたことを思い出しながら、その倍の高さもあるビルなんか建てたら絶対に倒れると思ったのだ。

「そうだね」見るからに人の良さそうなその工事のおじさんは、心から同意しているようだった。


 おじさんに挨拶をして別れると、渚沙は狭い道路の両側にそびえ立つオフィス街の巨大な高層ビルを見上げた。そのまま上方から目が離せなくなった。五十階とか六十階もありそうな銀色のビルが左右にずらりと並んでいる。今、また昼間のような大きな揺れが襲ってきたらどうしよう。そうなったら、ビルは渚沙の上に崩れ落ちてくることを約束しているように見えた。


 二分ほど歩いたところで、渚沙は声も立てずに転んだ。ずっと上を見上げていたので、十五センチほど高くなっている歩道から道路に落ちてしまったのだ。といっても右膝をついただけで済んだ。少し先の横断歩道付近に三人くらいの人の姿が見えたので、渚沙は恥ずかしくなってすぐに立ち上がると何事もなかったように歩き続けた。

  

 雪子のマンションに戻ると、ガラス張りのロビーに二十人ほどの住人の姿があった。渚沙は、ゲートを出入りする人々がよく見える場所に設置されたソファに座った。大きな余震の度に外に出るが、寒くてたまらないのでまたロビーに戻る。あと一時間もすれば、雪子の夫、晴臣はるおみが子供たちを連れて帰ってくるはずなのだ。

 管理人の中年の女が、安全装置のせいで電気もガスも止まっていること、再開の目処は立っていないことを告げると、無責任なことに定時の終業時間だからと帰ってしまった。このまま電気がつかなければ、住人たちは寒さに耐えられるだろうか。昼間でも暖房を使わなければ寒くてたまらないのに、夜になったら尚更だ。


 ふと床を見ると、ぽつぽつと血が滴り落ちた跡がある。そこで初めて自分の血だと気づいた。つい先程、歩道から落ちた時に膝の辺りを怪我していたらしい。血は既に止まっているようだし、痛みもさほど感じない。そんな怪我などどうでもいいと、膝を見ることさえしなかった。


 少し前から、マンションの住人たちが車でどこかに出掛けて行く。まるでこのマンションが危険な場所であるかのように。停電していない、もっと安全だと思える実家や親戚の家へ行くのではないか。渚沙もこのマンションから出たかった。五階には絶対に戻りたくない。昼間の揺れの恐怖がまだ離れないのだ。だが、この状況において他に渚沙の行き場はない。電車も動いておらず、所持金は少ない。とにかく、雪子一家が帰るのを待とう。

 暗くなるにつれ、ロビーにいた人たちの数も少なくなっていく。じっと座っていたら、足元から冷たさが体中に伝わり始めるが、絶えない余震に怯えながら、渚沙はロビーから何処にも動けなかった。


 やっとゲートに見覚えのある姿が見えた。晴臣が二人の小さな娘たちを連れて自転車で帰って来たのだ。渚沙は嬉しくなって、手を振った。三人も笑顔で手を振り返してきた。

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