第80話 14時46分
右の眉を書き終わったその時だ。
洗面所が小さな振動と共に音を立てた。その振動は次第に大きくなっていく。
地震だ。
渚沙は洗面所を飛び出すと、リビングのテーブルの下に身を入れた。尋常ではない揺れ方になり、かなり長く続いている。
ただ怖くて、ナータの名を何度か口にしたが、習慣で「助けて」という言葉はどうしたって出て来ない。都合のいい時だけ神に祈るのは大嫌いなのだ。どんな不幸も自分たちの責任という考え方が、渚沙の脳に刻み込まれているらしい。
日本では、子供の頃に何度か地震を体験したけれど、立って歩くが不可能なくらい大きな揺れは初めてだ。渚沙が身を隠していた小さなダイニングテーブルは、横にずれるように動き続け、その上に載っている物が少しずつ落ちてくる。幸い、雪子の子供のおもちゃとか、紙だとか割れないようなものばかりでほっとした。
渚沙がテーブルの下で恐怖に駆られて思い出したのは、二週間前に起こった、日本人被害者がやけに多く出た奇妙なニュージーランドの地震の映像だ。真っ先に、ほぼ全壊した建物の壁や天井に挟まれ、ようやく足を切断して助けられた日本人の青年のことが脳裏に浮かんだ。あのニュースの映像さえ見ていなければ、そんなに怯えることはなかっただろう。
ここは、十三階建てのマンションの五階だ。このまま揺れ続けたら、そのうちこのマンションも倒れるかもしれない。そう想像して恐怖感が倍増した。崩れた壁に身体を挟まれて暗闇の中で何日も動けずに生き地獄を味わうなんて、絶対にごめんだ!
長い揺れがやっと収まると同時に、ガタンという機械的な音がした。電気のヒューズが飛んだような音だ。ふいに静寂が広がり、それまでは冷蔵庫やらエアコンやらの微音がしていたのだと気づいた。停電だ。
渚沙はテーブルの下から出ると、出掛けるのに必要な物を取りに寝室に急いだ。例のパステルグリーンの本棚が倒れて、漫画が床にちらばっている。それをさっと起こして手早く片づけた。
前夜、雪子がこう話をしていたではないか。
「最近、地震がちょくちょくあって気持ち悪い揺れ方するの。この本棚だけは倒れるから気をつけてね」
雪子のマンションで倒れていた家具は、本当にその本棚だけだ。見た限り壊れた物はひとつもない。さほどひどい地震ではなかったのだろう。
さあ、もう地震は終わった。何の問題もない。これから私はふたつの約束を果たしに出掛けるんだ。原島克昭たちとの面会、そして美のパーティーに出席するんだから――。
渚沙は自分にそういい聞かせると、急いで左眉を描き、荷物を手に玄関を出た。まだ電気が通っておらず、エレベーターではなく非常階段を使って階下に降りることにした。仮にエレベーターが動いていたとしても、階段を使うに決まっている。また大きく揺れて、中に閉じ込められるなんて絶対にご免だ。もっとも、先程のような大きい地震なら非常階段さえ降りられなくなるけれど――。またもやニュージーランドの地震のニュースの映像を思い出しながら、一刻も早く地上に出たほうが安心だと信じて、急いで階段を下りた。
マンション前の公園や道路には、小さな子供を連れた親がところどころに集まって話をしている。右を見ても左を見てもマンションが立ち並ぶエリアで、それぞれの建物からどんどん人が出てくる。渚沙は、自分がいた十三階建てのマンションを見上げた。渚沙より上階にいた人たちは、さらに激しく揺れに襲われたはずだ。どれほど怖い思いをしたことだろう……。五階の揺れでパニックに陥ってしまった渚沙は、上階に住む人々を心から賞賛したくなった。
渚沙は、細い道で立ちすくむ人々の間をぬって足早に駅へ向かった。
十分も歩くとM駅に着いた。それまでの帰国時に何度も雪子のマンションに来ていたので、駅周辺の光景は見慣れていたが、今日はいつもと様子が違う。駅前の小広場に三、四十人くらいの人が突っ立っている。待ち合わせにしてはやけに人が多い。切符売り場に行くと、すぐそばの改札口で二、三人の駅員が「改札は通れません」「ホームには入れません」と繰り返し声を上げている。
先程の地震の影響で、ホームに停車している電車は発車できないらしい。これ以上ホームに人を入れたくないのだ。それで、駅前にあんなに人が待っていたわけだ。
電車はすぐに動くだろうと、渚沙も一同に加わり駅前の小広場に戻って待つことにした。約束の時間まで一時間以上ある。少しここで待たされるとしても、約束のホテルには四時前に着けるはずだ。
M駅はそれほど大きくない。駅ビルというほどでもないが同じ建物の一階には、スーパーや寿司屋、蕎麦屋、服屋、和菓子屋、パン屋など小さな店舗が幾つか入っている。そのほとんどが店を閉めていた。たいした地震でもないのに、そんなに早く店を閉めいいのか。店の人間が怠慢で、今がチャンスとばかりにさっさっと帰宅したかっただけだろう。そう思った。
渚沙は余震が続いているのに気づいた。小広場に立っている数本の植木の枝が絶えず小刻みに震えている。
一時間もすると、電車の中にいた客やホームにいたと思われる人々が一気に出てきて、駅前の群衆に加わった。誰も震源地がどこであるとか、被害について話している様子もなく、駅のアナウンスもないままだ。停電でテレビが見られなかったり、情報網が混乱したりしているのだろう。それでも、そのうち電車は動くだろうと思っていた。その時は、そこにいた多くの人がそう信じていたはずだ。
余震は相変わらず続いており、商店街の比較的新しい丈夫そうに見える鉄製のポールや、駅前に植えられた木々が絶えず揺れているのを見ていたら怖くなった。マンションで体験したような大きな揺れがまた襲ってくるかもしれない。駅の向かいのビルは、築三十年くらいだろうか、大きな地震がくれば簡単に崩れてしまいそうだ。この商店街には新しい建物は少ない。もしもの時を考えて、渚沙は何も倒れてきそうもないスポットを見つけて移動しようとしたが、駅前の小広場は狭すぎて難しい。
人々は、次々に携帯電話を手にし始めたが、どうやらメールだけが機能するようだ。近くの商店街は電気の点いている店もあれば、停電している店もあった。この近辺はライフラインが半分ストップしているらしい。
「こわいねぇ」
女性の声が後方から聞こえてきた。
いつの間にか、見ず知らずの者同士が不安そうに声を掛け合っている。渚沙も、すぐ隣にいた中年の女性と二言、三言交わした。時折、揺れが幾らか大きくなり、すぐ近くで電車が走っているかのような振動がする。もしかして電車が動けるようになったのかと思ったが、その様子はない。余震だった。
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