第57話 カリルと女たち その1

 ナータは、井上潤次郎が姿を見せなくなってから、一年に一度くらいは井上の名前を出した。「井上はどうなったのか」と渚沙に訊いた。いつも息子を思いやる親のように。そういう万人に対するナータの純粋な愛情が、井上にも注がれていることは常に感じられた。しかし、本当に知りたいとか心配しているというふうでは全然なかった。

 

 今考えると、井上のケースをよく覚えておくようにという意味合いが強かったように思う。それは渚沙が後々、同様のことに興味を持つ人々に警告するためではないか。


 シャンタムやナータのような聖者は愛情深く必要なアドバイスを与え、正道を示してくれるが、彼らの義務はそこまでだ。真の聖者は、人々に強制せず自分で人生を選択する自由を与える。行かないほうがよいと繰り返しアドバイスをしても、それを無視する人を無理矢理引き止めることはしない。

 渚沙はナータから井上の現状を聞かれる度に、今彼がどうしているかは分かりませんと答えた。あれほどシャンタムやナータからも可愛がられ、彼自身と、日本のためにも善良な働きが出来る機会があったのにたいへん遺憾です、と付け加えた。ナータは井上に同情していたが、話はいつもそれだけで終わった。


 トラタ共和国の聖者たちは、自分に会いにやって来る人々にまったく執着していない。真に悟った者は、誰が彼を訪れても訪れなくても気にならないようだ――正確にいうと、人々に対する普遍的な愛を持ち、真の意味で誰よりも個人の幸福を願っているにも関わらず、人々に自立と自由を許しているのだ。子を愛していると主張する親もたいてい自分の理想を押し付けようとするから、なかなかできないことだと思う。だからこそ聖者といわれるのだろうけれど。 


 ナータの寺院でもそうだ。自称聖人の類で、他人に害を与える異常者、危険人物が出入りを禁止された事例は二、三あるが、それらの例外を除き、誰が寺院に来ようが来まいがかまわれない。ある時、突然顔を見せなくなる常連や永住者でさえもそのまま放置され、自然に忘れられていく。日本の組織では考えられないが、永住者のリストさえ存在しないのだ。晴れて永住者になった後、「嫌気がさしたから明日出て行く」と宣言しても、ナータも誰も止めてくれない。


 そういうことで、渚沙にも無執着なところがあり、自分からは日本人にコンタクトをとることはなかったのだが、個人的にまったく関心がないスピリチュアル系日本人の情報、知りたくない失態や有害な行為については、いつも様々な形で渚沙のところに一方的に届けられた。 


 日本人以外だと、ナータから教えてもらうことが多々あった。

 ナータは、ある時渚沙にこういった。

「井上は、カリルのところに多くの日本人たちを連れて行き、みなで一緒にのだ」と。そして、「カリルのところに行っている日本人たちはみな、自分で何をしているかわかっている」と付け加えた。

 時々何も知らない振りをして質問してくるナータだが、実際には誰よりもいろいろなことを知っている。


 しばらくするとナータは、を渚沙に教えた。既に日本人たちがカリルのところに入り浸り、シャンタムやナータ、他の聖者たちのところに顔を出さなくなってからのことだ。

 渚沙は驚き呆れ、同国人、同性としてもえらく不名誉に感じた。カルト連中が性にだらしないのは決まり事らしい――実はカリルは、現地の若い女たちを囲っていたことでも知られていたので、カリルが日本人と関係を持つことは十分にありえる。


 さらにナータは、井上のお抱えの日本語が堪能な現地ガイドと、ツアー客である日本人の女たちとの関係についても明かした。井上のツアー団体がナータの寺院を訪れた際に何度か見かけたことがある、金儲けの上手いガイドである。渚沙が便乗したツアーの時に雇われていた男性とは別の人だ。

 そのガイドには恐妻と小学生の子供が二人おり、一度ナータのところに家族全員を連れて来たことがある。妻に浮気を知られてこてんぱんにやられるが、凝りもせずこそこそと女遊びをする。


 このガイドがドイツ人女性にちょっかいを出したことは、女性本人から聞いていた。彼女がナータの寺院に滞在していた時に、偶然井上たちが来ており、ガイドと接触して、別の機会に旅の案内をしてもらう約束をしたらしい。

 彼女の二度目の滞在時に、「あのガイド、とっても素敵な人だわったわ」とうっとりした顔で渚沙に漏らしたので目を丸くした。

 しかし、日本人の女たちとの不貞は知らなかった。なぜあんな男と?

 日本人女性は欧米人より慎みがあると思っていたが、なんと軽い女たちなのだろうか。うっすらと笑みを浮かべ、都会の匂いと田舎臭さを持ち合わせ、いささか詐欺師を思わせる風貌のガイド。渚沙は、あのような男と関係を持つことが生理的に受け付けられず不潔に感じ、信じ難かった。


 ガイドの話はさておき、黒魔術師のカリルと日本人の女たちの情事は、比較できない重大問題だろう。トラタ共和国の聖者としてはありえない。


 そういう秘密を明かす時、ナータは決まってなんでもないことのようにさらりと告げる。その場に誰が同席していようが気にしない。ナータのところでは、基本的に秘密はすべて公にされ、隠し事はなにひとつできないことで有名なのだ。そのようにして、悪いことはできない、しない、考えないということを嫌でも学べるからだ。


 ナータは、公や個人に対する重大な警告、人生や命に関わるような危険を避けるための最小限の警告は、いつも普通の会話の中で一言、二言口にする。お陰で集中しておらず、聞いていない者もけっこういる。


 しかし、渚沙はそれらの警告や秘密をたいてい聞き逃さない。ナータは通常堂々と話しているのでもはや秘密とはいえないが、同席している一部の人たちが分からないことでも、渚沙はいつも否応なしに耳にしてしまう。というのも、寺院では唯一渚沙だけがナータの使うほとんどの言語、日本語の他に、現地語、英語、ドイツ語を、簡単にだが理解できるからだ。


 その後も二、三度、ナータは渚沙に向かって日本人の女たちとカリルの関係を口にした。ナータがこのように繰り返す時は、渚沙の想像を超え、いつもとんでもない問題につながっていることを後々発見する。このカリルと日本人女性の情事に関する一件も例外ではなかった。 

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