三題噺
@cocoapan
音を織る
白い月が、優しく笑っている。
深夜一時の静かな空気の中、ヒールがコンクリートの地面にぶつかって、カツン、カツンと小気味よい音をたてていた。音の主はそのまましばらく歩いたかと思うと不意に足を止めて、それからまたすぐに、カツン、カツンと楽しげな足音を響かせる。
近隣に家もないこの道は、街灯も少なく、不審者が出るから昼以外近づいてはいけないと噂されていた。そんな道を一人歩くその人は、そんなこと気にならないと言わんばかりに、まっすぐ伸びた髪を揺らす。歩みに合わせるように、ロング丈のスカートが広がってはしぼんでを繰り返していた。さらり、カツン、ふわり、カツン。
そのうちに道は開けて、ネオンと喧騒が埋め尽くす繁華街に出た。ぴかぴか、チカチカ、うるさく光るその電光を受け流して、その人は迷わず歩いていく。
安っぽいキャッチの猫なで声は耳につく。酒に酔った人はフラフラと揺れ歩き、スーツを着た人は無差別に刺すような視線を向けている。ぐちゃぐちゃに入り交じった海を切り裂いて、その人はひとつの店の前に着いた。
アンティーク調の木製ドアをコンコンコン、と三回叩く。ほどなくして「どうぞ」としゃがれた声が返ってきたら、その人はドアを押し開けて、その店舗へと入っていった。
中はこざっぱりしたバーのようだった。客の入りは、ほどほど。カウンターに座る何人かが軽く手を挙げて、今宵の来客を歓迎した。
適当にカウンター席を引いて、その人が座る。マスターと思しき初老の男性が「いつものでいいかい?」と尋ねると、髪を耳にかけながら控えめにコクリと頷いた。
カランッと氷がグラスとぶつかって、透明な音をたてる。ロングカクテルを飲み干したその人は、ゆっくりと立ち上がった。
「照明は?」
マスターの声にゆるゆる首を振ったその人は、店の隅にある小さなステージへと向かっていく。カツッ、と一際大きな音が鳴って、ステージの上で、その人は背筋を伸ばした。明かりに照らされない、暗いステージへと、客の目が集まっていく。それには期待と疑問の色が入り交じっていた。
音が、ひとつ、またひとつ、消えていく。それらがぴたりと止むまで、そう時間はかからなかった。
ステージの上のその人は、そこにある痛いほどの無音を、まるごとすぅっと吸い込んだ。それからゆったりと溢れ出したのは、優しく甘い、テノールの歌声。
独特の響きを持った楽器で、彼は歌う、歌う。
それは時に楽しげで、時に何かを慈しむように、そして時折、途方もない悲痛な哀しみをもって、緩やかに音を紡いでいく。
その声が止んで、彼は綺麗に一礼すると、ステージを降りた。だれもが、息をすることも忘れてしまったようにその挙動に魅入っていた。
彼が席に着いた頃、ようやく誰かの手元から、カラリと氷が溶ける音がして。それを皮切りに、店内では人々の手元で無数の花火が弾けた。
しかし、それから閉店するまでの間に、彼が再び音を織ることは無かった。
カツン、カツン。カツッ、コン、カツン。
その人は、帰っていく。元来た道を、歩いた道を。
カツン、カツリ、コツン。
「あの、すみません。」
若い女性の声だった。
その人は声の方へ振り返る。そこにあったのは、ついさっき、バーで見かけた女性の姿だった。
「あなたの歌、素敵でした。次はいつ聴けますか。」
その人はしばらく黙って、それからはにかむように、疲れたように、小さく、小さく笑った。
「次は、あなたが歌うんだよ。」
コツ、コツ、コツ。
少しずつその人は、女性へと近づいていく。女性は顔を引き攣らせて、しかし、恐怖のあまり動けないようだった。月が、雲に隠れていく。
その人は女性の前で静かに膝を折ると、優しく右手をとった。
「困ったら、マスターにお聞き。きっと、助けてくれるから。」
そして、その手の甲に口付ける。
同時に、雲が眩しい月を覆い隠して、
その雲が晴れる頃、二人の人影は跡形もなく消え去っていた。
【お題】月、店舗、歌う
三題噺 @cocoapan
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