第2話

 有機パネルに映し出された絵の具のような水色の空を眺めていた。50階建ての高層マンション。その最上階の一室。眼下には乾いた混凝土コンクリートとその上をゆっくりと動く人々の姿が見える。

明日も晴天が続きます、といかにも朗らかな声でテレビのアナウンサーが告げる。次の計画降雨は一週間以上先なんだから当たり前でしょう。そう皮肉ってみるけれど、その思いを拾ってくれる人などこの広い部屋のどこにもいはしない。

明日の気温は18℃で、過ごしやすい一日となるでしょう、とまた駄目押しするように画面の中のアナウンサーがほほ笑む。過ごしやすいようにしてるんだから当たり前でしょうが。またかわいげの欠片もない考えが頭をよぎった。壁に埋め込まれたテレビから視線を外して、窓の外を見下ろした。この街で一番高い建物の一番高い部屋から見る景色は、何とも人工的な、つまらない上に味気のない街並みでしかなかった。防弾仕様の分厚い窓ガラスに手を沿わせる。


 自立式居住ドーム『四守よつもり』24番街、7の5000室。

私の狭い世界はそこで完結していた。やることといえば、朝に起きて、部屋のドアに取り付けられた小窓から差し出された食事を早々に平らげて、あとは本を読みながら大きな窓の外を眺め続ける、そしてまた食事をとって、部屋に備え付けられたお風呂に入って、老人の習慣のような時間帯にベッドに沈む。鬱屈した、閉塞感に満ちた毎日。作り物の空と景色が映し出される有機パネルに映し出される人工の景色を眺めては、胸に沸き起こる怒りとも悲しみともつかない感情を持て余して、結局あきらめに収束させる日々。それだけを繰り返していた。蒙昧に、曖昧に。

ぼんやりとした頭でつうっとガラスを指でなぞれば、キュ、と甲高い音を奏でる。少しずつ頭から霞が消えていく。指の軌跡が有機パネルをなぞって、北端の黒扉ゲートに重なった。──黒扉ゲート。色彩と白の境界。

 黒扉の向こうの白い世界。深い霧に覆われたさみしくて恐ろしい世界。父も母も家政婦も昔の知り合いも、皆が皆、そう口にする私たちの故郷。人がそこを捨ててドームにこもってから、もうすぐ3年が経とうとしていた。故郷に別れを告げた人々は、新たな生活に馴染んでいるようだった。事実人々はここでの生活に馴染み切っていた。享受していた。堪能していた。喜んでいた。新たなドームでの生活を、私以外は。

 私は馴染めなかった。作り物の空にも、調整された天候にも、それらを喜ぶ人々の輪にも。私は嫌いだった。このドームが。このドームでの生活を享受して笑っている人々のことが。

元々は私たちだってあの霧の中に住んでいたのに。あそこであったことを、忌まわしい血まみれの記憶を、忘れていいはずがないのに。それなのに、そんな不都合なことは何もかも忘れたように笑っている人たちが、苛立たしくてしょうがなかった。一人ずつ並べて、頬を打って、永遠に詰り続けてやりたくなるくらいには。でも、そんなことできるはずもない。何を言っても、何をしても、生ぬるい憐みの目が向けられるだけなのはとうに理解しきっていた。だから、諦めてしまった。放棄してしまった、何もかも。そうして私は世界を閉じた。学校をやめて、部屋に籠った。…本当は、閉じる世界すらなかったのかもしれない。きっと、私の世界はあの霧の中に置き去りにされたままだ。だから、こんなに明るいドームの中にいても霧の中と大差ないように思ってしまうのだ。

何も見えない。何も聞こえない。誰も見えない。誰の手も取れない。

 …いや、きっとこのドームの中はあの霧の中より何も見えない。扉の先に思いをはせる。あの霧の中にいた頃。まだ、楽しい、という感情を覚えていられたあの頃。どんなに先の見えない世界だって、あの頃は彼の手があった。彼と笑いあえていた。それなのに、ここにきてからというもの、楽しさ、がだんだんと分からなくなっていった。もう、笑い方を忘れてしまったんではないかというほど長く、私は笑っていなかった。

──やっぱり私は、貴方に逢いたい。


「…響一郎きょういちろう。」


 そう呟いたはずの彼の名前は、ただの掠れた息となって広い部屋に小さく消えていく。しばらくして、生温かい物が頬を伝った。広い部屋に嗚咽がこぼれる。テレビから聞こえるにぎやかな笑い声にかき消されてゆく。眼下の景色の中、ひときわ小さく頼りない黒い扉を眺めながら、目元をぬぐう。あの先の世界を見ようと目を開ける。それでも、景色は滲んでいった。

──どうして、私はあなたを助けられなかったんだろう。

 この三年、やんだことのない自責の声がまた心臓を刺す。ずぶり、ずぶりと胸の穴が大きくなる。痛い。苦しい。そんな叫びが胸を打つ。けれど、どんなに苦しくても声は出ない。この部屋で初めて目覚めたあの日から、私は一言も声を出せていなかった。…もう、喋れるようになっても声の出し方なんて忘れてしまっているかもしれない。自嘲的な笑みが涙と混ざる。

 誰より想っているひとのために声を枯らして泣くこともできない。それが悔しいと、悲しいと、不甲斐ないと、浅ましいと、そう思えば思うほど、涙はとめどなく流れていく。


──ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。


 そう呟きたいのにやっぱりどうしたって声にはならない。諦めるように窓の前から踵を返してベッドに沈む。ぼやけていく意識の中、ただ、掠れた息の音だけがいつまでも耳に残っていた。




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霧の街、桜の下。 @kyanos_iris

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