呪詛
鼻の治療を終え、晴明は言った。
「これでまたしばらくは鎮まるはずです」
円融は満足げな顔で言った。
「いつもすまぬな、晴明」
「何をおっしゃいます。帝の御為ならばこの晴明、厭うことなど何一つございませぬ」
「うむ。この奇病を患ったことは不運であったが、晴明がおってくれたことはそれを十二分に補えるほどの幸運であるぞ」
馬鹿な男め。お前は間違いなく不運だ。
その病はそもそも俺がかけたのだ。古より伝わる水行の禁呪をもとに、自ら編み出した。道満や他の陰陽師もまだ気付いていないらしい。もっとも気付いたところでどうにもなるまいが。
俺がかけた病なのだから、症状を抑えるのは容易い。だが、無論、完全に直しはしない。この病にかかっている限り、こいつは俺との良好な関係を保ちたがる。
「帝、本日は、悲しい知らせを一つ、お耳に入れねばなりませぬ」
円融の顔がさっと曇った。
「何だ?」
「今朝の占いで、恐るべき相が出たのです。近々、この都に、百鬼夜行が現れるであろうと」
「……ひゃっきやこう、とは?」
「妖魔の大群にございます。冥界の王がいよいよ本格的に帝のお命を狙い始めたものと思われます」
「余は……余はどうすれば良い?」
すがるような目。俺以外の人間には決して見せない表情だろう。
「ご心配なく。帝は私が必ず守ります」
「晴明の力は疑いはせぬが、はじめに悲しい知らせと言ったからには、相当な軍勢なのであろう?」
「ええ」
「陰陽院での子供らの育成を急がせねばならぬな」
「それはごもっとも。されど、あまり期待はできませぬ」
「何故だ?」
「子供らはこの春に学び始めたばかり。道満が工夫を凝らして従来よりも効率の良い修行をさせてはおりますが、どんなに急がせても、夏までに戦力として数えられる程になる者は何名あるか……」
「左様か。ならば、現役の陰陽師たちにも、今一度修行をさせるべきか?」
「都の守りに立つ六十名。彼らはそれぞれ優れた陰陽師でありながら、慢心することなく日々修練を重ねております。しかしそれはあくまで錆び止めのようなもの。元服を迎えてしまった彼らに大きな成長は望めませぬ」
「うむ、左様か。かくなる上は今ある手駒で戦うしかないということか?」
「一点だけ、増強の余地がございます」
「それは?」
「私めにございます」
円融が期待を込めた眼差しで晴明を見た。
まったく、こんな御しやすい男の治世であってくれて、感謝に堪えない。
「元服を過ぎれば成長はないと申しましたが、この私は例外。昨日完成したばかりの黄金の塔、あの場にて研鑽を積めば、新たな力をこの身に宿すことができましょう」
金箔に退魔の力があるというのは、半分は事実で半分は嘘だ。金箔だけでは金行の守り――木行を祓う――にしかならない。だが、土の力の豊かなあの場所で、木造の塔を建て、金箔を貼り、その金箔を術で結露させ、燈籠に火を灯せば、五行の守りが完成する。どこか一点を破ろうとしても、他の力がそれを阻む。
あの中でならば、安心して蛹になれる。俺はもう一段羽化するのだ。
「されば、行くが良い。晴明が今以上の力を持つならば心強いことこの上ない」
ここで瞬時、迷いを見せておく。相手に質問をさせるのが人の心を掴む秘訣だ。
「どうした? 何を迷うことがある?」
「修行には幾ばくかの時を要します。その間、私は塔の中へ籠もり切りになります」
「やむを得まい」
「この御所が襲われることはないでしょう。結界を張ってございます故」
そんなものはない。御所の近くには描くなと良秀に言ってあるだけだ。
「ただ、私がおらぬ間、お鼻の治療をいかが致しましょう」
耐えてみせる、と虚勢を張るはず。
「それしきのこと、耐えてみせる」
そら、見込んだ通り。
「よろしいのですか?」
「都の一大事なれば、余も力を尽くそう」
精一杯、威厳を見せつけようとしている。実に滑稽だ。
「ご立派でございます、帝。せめて毒抜きの紙と軟膏を置いて参ります。症状が出た時は、医術に長けた陰陽師をお呼びください」
「うむ」
安堵の気配が漏れる。それはそうだ。夜も眠れないほどの痒みが、何の対処もできないまま幾日も続いたら、きっと正気を保てないだろう。
円融には気の毒だが――実に不運な男だ――置いていく紙と軟膏では、痒みを半分ほどに抑えることしかできない。他の者に治療をさせた暁には、苛立ちと共に、やはり晴明が必要だという思いを一層強くするだろう。
「それでは、ただちに」
「しかと励めよ」
「有り難きお言葉。この晴明、必ずや、百鬼夜行を退ける力を得て、戻って参ります」
さぁ、支度を始めるとしよう――新たなる門出に向けて。
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