第18節 黒海会議襲撃
高回転で正弦波の金切声を上げる嫌なエンジンだった。ろくに整備してもらえていなかったのだろうけれど、もっと大きな不安材料は燃料の残りだった。メータは四分の一から五分の一とみるみる減り、高速を降りて市街地に入ったところでとうとう警告音が鳴った。 接続の悪い赤信号を切り抜け、議場のゲート前の人だかりをクラクションで退かしたのがそれから十分後。
ヘレンはゲートを封鎖していた仲間に言って車を任せ、エントランスに向かって並木の間を走った。
USPを抜く。
七段の浅い階段を飛び上がり、ショーケースほどの大きさのガラスが割られているところへダイブ。
模様付の赤い絨毯の上を転がり、味方の誤射を避けるために手を振って合図。
インカムで状況は把握している。目指す応接室は四階だ。
道を折れるごとに壁に身を隠すよう留意しながらエレベータホールの横を抜け、倒れているゲリラを踏み越える。ちょうど飛び越したところでそれがAK-47を抱えていることに気付いて貰っておくべきか少し悩んだが、装填重量で五キロ超もある。置いて行こう。
本当に敵は減っているみたいだし、それも綺麗に片付いている。テロの代名詞といえば爆弾ではないか。なぜそれを使っていないのだろう。あちこちに弾痕があるばかりで、クレーターの一つもないし、瓦礫が積もっているわけでもない。
なぜだ?
そんなことを考えていたら、踊り場から飛び上がった先に急に迷彩服の兵士が現れた。
否、現れたのは私の方で、彼は先程――コンマ数秒前からそこに居たのだけれど、視野に入っていなかった。「各個現地防衛」という命令を信用し過ぎたか。
つまり、その兵士は(ついでにいえばこっちも)命令違反だった。
気付かないふりをしてヘルメットをしていない額に膝蹴りを入れて張り倒し、背後に居たペアの片割には、片足で着地した後に回し蹴りをお見舞いする。同じく額。これで昏倒、あと数分は起きてこないだろう。
無線の送話を押す。「三階階段ホールに負傷兵、救援求む」暗色のウッドランド迷彩だったが、どこの国だ? あんな一瞬では判別がつかない。
次が四階。
今度ばかりは上がる先に誰も居ないことを確かめた。
そのはずだった。
膝を折って着地した時、防火扉の陰から見える廊下の曲がり角に人影が差しかかるのを見た。こんな遭遇の仕方でなければ彼を殺してしまうことはなかっただろう。
こちらの気配に気づいた彼は振り向き、銃を向けるよりも先に目を丸くした。
その時にはもう撃ってしまっていた。右の胸にひとすじ、左の胸にひとすじ。三発目は気合いで止めた。まるで衝撃波で雲が吹っ飛んで晴れて、快晴の夜空から冷たい光がどっと降り注いだような気がした。正気というのがこんなにも痛烈な焦燥を呼び起こすものだと初めて知ったのだ。
走り込んで、後ろに倒れた彼の手からM57を蹴り飛ばし、廊下の左右を睨んでから彼の上に覆い被さって鳶色の瞳を凝視した。
「僕は待っていたのかもしれない」と彼は掠れた声で言い、その声が自分でも意外だというような顔をすると、床に手を突いて体の向きをずらそうとした。
見守るしかない。あるいはそれは虚空の月のような気持ちかもしれなかった。
「何、寂しかないさ」彼は銃を握っていた方の手を伸ばして頬に触れた。触れて、撫でる。指紋の谷に宇宙が生まれる。
彼が死ぬ前に何か言わなくてはと思うと、懐かしい言語がにわかに口を衝いて出た。おやすみなさいだなんて母語にしていた頃にだって口にしたことはなかったのに。
どこへ置いてきたのだろう、彼はドラグノフを背負っていなかった。
彼は私を撃たなかった。
それが、やはり、このテロ全体の意義らしかった。
「ヘレンは僕を憎むべきなんだ」ぞっとするほど感情の籠った声で社長は言った。
まっすぐに突き出していたUSPのスライドを掴んで初弾を吐き出させると、それともども足元の床に放った。
USPは鈍い音を立てて廊下の床に落ちた。弾はまだ入っているが一度も撃っていないので暴発の危険はほとんどなかった。
ワイアームはこんなに乱雑な社長の行為を見たことがなかった。それはもうポセイドンだって息を呑むくらいに沸騰した大波が心の中でうねっているに違いない。怒っているのだ。直感して鳥肌が全身を駆け巡った。
「臨終の最後の言葉がカリマである者は天国に入るであろう」気付いた時には口が言っていた。狂気が持続しているのかもしれない。
「それは?」
「兄貴が言ってました。ムスリムの言い伝えだって」雷発生器みたいになった社長の目を横目で恐る恐る見る。
「確かに聞いていないな、アッラー・アクバルのコールを」
ワイアームは肯く。
「後で他のメンバーにも訊いてみよう。こちらにも死者の弔いがある。…いや、まさかな、馬鹿馬鹿しいとは言わないが」社長は目を細め、ワイアームの肩に手を当ててブルーノのところへ戻るように言った。それから「悪いな」と。
ワイアームはなぜ悪いのかわからなくて首を傾けたけれど、社長は振り向かなかった。
マッカーサーの銅像のようににぴくりとも動かない。
ヘレンは俯いて垂れた髪で顔を隠していた。旧友の死の境目を探していた。
なぜ泣かないのか。
なぜ悲しまないのか。
そう訊いてやりたかった。
けれど、それほど愚かしいこともない。死者に同情してはいけないのだ。
社長のUSPから吐き出された9㎜パラベラム弾が所在無さげに蹲っていた。
「若いな」状況を一瞥したエーリンは歩き出しながら言った。
「誰が?」シードルは訊いた。銃声がまだ耳に残っていた。
「死に場所を求めてくる者のことだ」
「そんな奴、居ましたかね」
「居たな」
「どれくらいです?」
「テロリストは何人居たんだ?」
「さあ、あまり聞いていなかったので」
「それと同じ人数だ」
「何に殉じたんだ。宗教か、主義か」シードルは少し憤然として首を捻る。
「自由だ。小さき者たちだよ」
「小さい?」
不意にアンジェの微笑むイメージが脳裏に浮かんで、咄嗟に額を押さえる。
彼女がトカレフのスライドを掴んで差し出す。照明は消え、小部屋の中に蝋燭だけが灯っている。
「それは違う」シードルは首を振る。
「ふむ」
「あれは、誰に殺されるか、だ」
場所は心も感情も満たさない。
海の水に抱かれること。
大地に包まれること。
空気に揺られること。
相手の人格を捉えて我が前に現前させる。
その愛を信じる。
それが死ぬということだ。
「小さき者よ」愉快愉快とエーリンはわざとらしく言った。
しばらくカメラの前から人が居なくなった。みんな部屋の外に出てしまって、その間は銃声が鳴らなかった。
最初に戻ってきたのはコーネリウスの護衛に付いていた少年で、右手のソファにどすんと腰を下ろすと、肩に掛けた銃のストラップを外し、銃を膝の上に乗せて仰向けになった。
さっき入ってきた時は血みどろでいったいどんな重傷を負ってきたのかとひやひやしたものだったけれど、別に何ともないようだった。返り血なのだとすれば、相当数の生から死への移行を間近で見届けてきたということではないか。想像してみると背筋が寒くなった。私でも、だ。ブリュンヒルトは思う。
「ロゼ、大丈夫?」彼女の肩越しに訊く。
事態は思ったより悪かった。コーネリウスから願い出られた時は向こうで何が起こっているかなんて知る由もなかったのだ。画面の向こうでは感触の無いリアルな戦争が起きていた。会議場が一瞬で紛争地にテレポートして廃墟に変わる。そんな印象だった。一応は私も携わったのだ。そして仕事は既に済んでいる。けれど、何をすればいいのか。それがわからないという奇形の熱意が頭の中でトグロを巻いていた。コーネリウスはあの状況で実に的確な行動をしたと今更になって思うのだ。
「平気。何が?」何食わぬ顔で振り返る。
「想像力に乏しいのね、あなた」
「この子がこれだけリラックスしてるってことは、戦闘が終わったの。テロリストは、三十四人、まとめて始末されたってわけでしょう」
ロゼの淡白さを存外に思ったブリュンヒルトは片方の眉を上げて見せる。
「銃を使ったって使わなくたって、大して違わない量の人間がどっかで死んでんのよ。それと同じくらいの人間が別んとこで生まれてんの。見知らぬ誰かの死を悲しめるくらいの人間なら、見知らぬ誰かの誕生だって祝ってやれるでしょう?」
ロゼは荒っぽい口調で言った。さりげなくスクリーン・ショットを撮って席を立ち、自室のキッチンへ行ってスプライトの缶を取ってきた。冷蔵庫の奥で良く冷やしておいたものだ。
「あなたの想像力の乏しいのは、そこから先ではなくて?」ブリュンヒルトは溜息をつく。
「乏しくていけない? どうせ誰かの大切な人だとか、人情論を押し付ける気なんだ。私はそんな他人のことに首を突っ込みたくない。自分の身に起こってもいないことを可哀そうだ恐ろしいだって嘆き叫ぶ人間が、私は大嫌いなんだ」ロゼはソファに座って眼鏡を外し、部屋のあちこちに向かって捲し立てた。
ブリュンヒルトはそれをあくまで首を傾けて眺めた。謝ろうかという気になったのは一瞬だった。
「それが私の生業なのよ」ロゼは言った。
ロゼは哀しい。
誰も私のことをわかってくれない。
私も誰のこともわかろうとしない。
それがわかり合えない理由なんだって知っているけれど、硬化を解くのは怖い。
嘘と本当の境界を見つけてしまうのが。
わかっていても踠いているだけなのは、私も同じ。
分けてもらうためのグラスを食器棚から出してきたところで、彼女が缶の封を切るぷしゅうという音がした。
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