第二楽章 紅い靴の乙女が踊る円舞曲
第一小節 再会を祝した杯の色は
白樹の塔フレーヌで起きた爆発事件から一週間。
雪を蹴飛ばす勢いでストリートを歩いていたのは、ルーシー・ウィシャートだった。
「まったくもう……っ!」
こんな予定じゃなかったのに!と緩くウェーブがかった短い銀髪を振り乱し、ずんずんと石畳の小道を進んでいく。
真っ直ぐなストリートの先、美しく連なる白い嶺や、店先に並ぶ金銀の煌めきが見えるが、今の彼女にはどうでもいい。
とにかく、例の情報屋と合流して、計画の立て直しを――
「……っと」
と、ルーシーは足を止めた。
紙袋を抱えた子供たちが、店から飛び出してきた。はしゃぎながら目の前を横切っていく。
ぶつからないよう立ち止まっていれば、香ばしい焼き立てパンの香りが漂ってきた。一昨日降り積もった雪山のそば、見上げれば小麦の形をした看板が吊り下がっている。
雪を薄っすらと被りはじめていた毛皮の外套を払えば、薄曇りの灰色の空に、煙突の煙が溶ける。
いつもなら、ルーシーが立ち止まれば、鼻の下を伸ばした男たちが一人二人近づいてくるものだが、あいにくと、今の彼女に近寄ろうとする猛者はいない。
否、一人の青年が、勇猛果敢にもルーシーの背後から手を伸ばそうとした。
「ねえ、そこの君──」
ゆっくりと。
ルーシーは振り返っただけだった。声をかけてきた相手へと、微笑みながら。
途端、ひっ、と引きつった声。振り返った先で、甘やかな顔の青年が蒼白な面持ちで身じろぎしている。
「なにか、ご用かしら」
「す、すみません! なんでもないです──っ!」
青年は両手を振ると、台詞半ばで逃げ出した。石畳を転びそうになったところを街灯にすがりつき、ポストの角を曲がって姿を消す。
ルーシーはふん、と鼻を鳴らした。
まるで化け物と遭遇したみたいに。失礼な。
と、足元、びちゃびちゃの新聞が目に入る。
ストリートに張り付いた新聞の見出しには、こう書いてあった。
──執政官ディディウスの崩御。
──人工大陸崩落。〈光詠み〉による崩落予測地点はメルヒオール区のタレイア街。
そして最後に。
──白樹の塔フレーヌに侵入者、現れる。目的は行方不明となった少女か。
ぎりっと、ルーシーは歯を食いしばった。
本当なら、その少女を攫うのは自分だったはずなのに──石畳の上、カッ、とヒールの音が強く跳ね返った。
*
市の立つ広場を抜けた、煤けた都会の一角。
そこに、ルーシーの目的の店はあった。
零下となる冬の昼、石炭の火が爆ぜた店は温かい。奥のカウンターへ進み、グラスを傾ける紳士の隣に着いて外套を脱ぐ。暖かさにひと心地ついたところで、袖を振った。
御用ですか、レディ、と背の低いちょび髭のマスターが、カウンターから声をかけてくる。
「マスター、今日のおすすめは?」
こちらになります、と木板に薄紙を貼ったメニューが差し出される。
シナモンとジンジャーのグリューワイン、林檎のカクテル、ラム酒のホットショコラ、オレンジスライスとミントの蒸留酒……どれも興味をそそるが、今日のところはこれだ。
「じゃあ、林檎のカクテルを」
「ああ、申し訳ありません。本日、そちらは売り切れでして」
「今の時期なのに?」
「いえ、
「ふぅん……、良ければ、私が持ってきましょうか?」
「いえ、お客様にそのような手間をかけさせるわけには」
「いいのよ。せっかくだもの。ついでにタールのプラリネもちょうだい」
マスターは、かしこまりました、と淑やかな佇まいで一礼してくる。
「一度外に出て、裏手になります。お願いできますか」
もちろん、と言い残し、ルーシーは半地下の
「……奥へ続く扉は、自分で探せってことかしらね」
言いながら、ずらりと並ぶ巨大なワイン樽の裏を見たり、林檎が積み上がった箱を動かしてみたりする。
──この店には、必ず品切れとなっているメニューがある。
品切れのメニューは毎日変わる。それを注文し、これまた毎日変わる特定のフレーズを返すと、自然に秘密のやり取りが行われ、もう一つの店へと案内される。なんとも慎重な仕組みだ。
それはそれとして。
「……タールのプラリネなんて、おいしいのかしら」
がこん、と足元の扉を開き、ぽつりと呟く。今日の秘密のフレーズの一つ、タールのプラリネ。食べたことがある情報屋いわく、カカオから木炭の燻し香がするらしい。
はしごを降りた先は静かだった。店の一階、席でおしゃべりに興じるマダムたちや他の客の声も、地下道の奥までは届かない。
ルーシーは扉を押し開いた。とたん、むせ返る強烈な酒の香りに、反射的に顔をしかめる。酒は嫌いだ。人を堕落させるから。うんざりとした気分で、ルーシーは店の奥から流れ込んでくる酒臭さを不満ごと飲み込む。
店内は細く狭く、なにより薄暗かった。ランプの下、いかにもガラの悪そうな男たちが小さな卓を囲み、腕の利きそうな戦士は大剣から片時も目を離さない。黒鞘の片手剣を下げた傭兵、顔に大きな傷跡のある男、以下エトセトラ。陽気に酒を飲み交わしながらも、どこか殺伐とした空気が漂っている。
ルーシーはゆっくりと店の奥へ歩き出し──気づく。笑い声の中に、先ほどまで異なる、ひそやかな冷笑が含まれたことに。
案の定、大柄な男が二人、にやにやと下卑た笑みを浮かべながらルーシーに近づいてきた。
「よお、姉ちゃん。一人か?」
そう言って、男はルーシーを上から下まで観察した。
……値踏みされている。
舐めまわすような視線にあからさまなものを感じ、ルーシーは嫌悪感に目を眇めた。
「いいえ、あいにく先約があるの。失礼するわ」
そうさっさと話を終わらせ、歩き出す。
しかし、男は行く手を阻んできた。ルーシーの前に身体を回り込ませ、挑発的に笑いながら見下げてくる。
「おいおいつれねぇな。ちっとばっかしおれたちと遊んでくれたっていいじゃねぇか。あんたも金を稼ぎに来たんだろう?」
「こっちより旧市街の方が、仕事は見つかりやすいだろうがな。あっちは金回りも悪けりゃ、客の質も悪い。ついでに貧相だ。気持ち良くしてやるよ」
最後の一言に、ルーシーは目尻をこの上なく吊り上げた。
「なあに、悪いようにはしねえからよ」
そう言って、片方の男がルーシーの肩に手を伸ばしてくる──と。
「そういうあなたたちこそ、昼から相手してくれる女性を探しに行ったらどうかしら? きっとお似合いだわ」
そうせせら笑うと、薄汚い男の手を鋭く払いのけた。足早に先に進む。
手を振り払われた男が背後で怒声を上げているのが聞こえるが、付き合ってなどいられない。目指すは煙突のそば。椅子を傾け、顔に新聞を広げ、あまつさえテーブルに足を投げ出している行儀の悪い男。
ルーシーは男のテーブルにたどり着くと、力の限りその手を振り下ろした。
豪快な音。テーブルが打ち震え、上に乗っていた琥珀色のグラスが驚いて飛び上がる。
一瞬、水を打ったかのように店内が静まり返った。
「んー? なんだぁ?」
寝ぼけ気味の声。新聞が男の顔からずり落ちる。
のぞいたのは、短く刈り込まれた灰色の髪だった。
つん、と猫のように尖った鼻先は少し上向き加減。肌にはそばかす。
自分と似たような年齢の、二十歳ぐらいの青年である。
優雅にルーシーは微笑みかけた。
「おはよう。お目覚めかしら?」
「おーよ、今起きたとこ……って、どちらさま?」
青年はきょとんと聞き返してきた。見ようによってはすっとぼけている風な態度に、ルーシーは微笑みを絶やさない。
「はじめまして、トレイター。依頼人のルーシー・ウィシャートよ」
そう言ってルーシーはトレイターを連れて外に向かい──迷った末、上の店でタールのプラリネを持ち帰れるよう包んでもらった。
*
目立つ鐘楼や子どもたちが遊ぶ広場から離れ、店下の吊り看板をくぐって一本奥の道に入ってしまえば、人通りの多さとは無縁の小路だ。
雪かきのされていない路地の上、積まれたトロ箱にトレイターは行儀悪く座っていた。安っぽい紙束を差し出してくる。
「はいよ。これ。頼まれたもん」
ルーシーは受け取るなり、紙をぱらぱらとめくっていく。
そこには白樹の塔フレーヌで起きた爆発事件に関する詳細な情報が書いてあった。
一週間前に起きた塔の爆発事件。その騒動に乗じて、塔の上層区画への侵入を目論んだのはルーシーだった。予定通り、内通者に協力してもらい、爆発を陽動に忍び込む──はずだった。
だが、塔へ向かう途中、塔周辺に浮かぶ大陸の一部が崩落し、検問が封鎖されてしまったのが運のつき。足止めを食らって迂回する羽目に陥り、なんとか侵入経路付近にたどり着いたときには時遅し。
内通者が設置した爆弾はとっくの昔に爆発し、その上、内通者と思しき人物は殺され、騒動はほぼ鎮火作業に入っていた。
別の情報屋から聞いた話によれば、ルーシーが忍び込んで確保する予定だった少女は、別の侵入者によって攫われ、今も行方をくらませているらしい。
こうなっては一からやり直しだ。紙を握る手に力がこもる。
「まあ情報としては今のところはこんなもん……って、おや、なんか機嫌悪い?」
「いえ、別に?」
気づかれ、とっさ、ルーシーは、おほほ、と笑顔で取り繕ってみせた。
トレイターが、手を軽妙に振ってくる。
「まったまた。……しかし、こんな美人まで件のお嬢さんと誘拐犯を探してるたあな。あんた、金回りに困ってるようにゃ見えねぇが」
そう言って、顎の下に手を置き、ルーシーの身なりをつぶさに眺めてくる。
銀の髪は控えめながらも艶を保ち、上質の布地で仕立てられた裾の長い外套は深みのある赤。芯に羊毛を使っているため、寒さは通さない。
「別に賞金が欲しいわけではないわ」
「へーえー?」
ずる賢そうにトレイターの瞳が光る。
「なら、どんな目的で?」
「それはあなたの預かり知るところではないでしょう」
「あっ、こらっ、人のもんだぞ! 寄るな寄るなっ! いでっ」
聞いていなかった。トレイターは輪の形をしたパンを抱きかかえ、足元、寒さでまるまると膨らんだ鳩を蹴飛ばしている。別の鳩には頭を突かれていた。
「けっ、ばーかばーか! 二度と来んなアホ鳥~!」
一応の勝利は収めたらしい。飛び去る鳩に向かってトレイターが叫んでいる。
無視してルーシーは紙片をめくった。途中、間に一枚の写真を見つける。映っているのは、翡翠色の大きな瞳に金髪の可愛らしい少女。こちらは既に内通者を通じて何度も見ているが、改めて見ると、あの執政官に
「……もう一人の拐った本人に関する情報はなし、か」
「あ? ああ、そっちは確度がまだ足らねぇっていうか……」
「信憑性が低くても、情報を譲っていただけないかしら。弾むわよ」
袖からシルク織りの袋をちらつかせる。
ひょー、とトレイターの鼻の下が伸びた。所詮は金にがめついRADか。眼差しの温度を下げながら、恭しくトレイターが差し出した手の上に袋を落とした。
トレイターは片手でもりもりとパンを頬張りながら、のんきに答えてきた。
「女の子さらったやつって、帝都の人間じゃないからだろ?」
「帝都カレヴァラの人間じゃない……ね。例えば、古都トレーネの上級法術士とか?」
「おや、その情報は既に手に入れてらっしゃる?」
「おあいにくさま。……噂通り、腕は確かなようね」
「あっ、てめっ、なんか人のこと試したか裏付けに俺を使ったな!?」
「使えるものは使える主義なの」
「美人なくせに、おもしろくねー女」
「あなたを面白くさせてあげる義理はないわ」
「もっとおもしろくねー」
しらけたように言ってから、一転。トレイターは弾みをつけてトロ箱から飛び跳ねた。気まぐれな猫を思わせるしなやかさで、ルーシーの前に着地する。屈託のない笑顔ですり寄ってきた。
「なっ、そこまで言うってことは、写真とか持ってんだろ? 俺にも見せて見せて。なんならちょうだい」
「ちょうだいって、あなたもそのぐらいもう持ってるんでしょう?」
「それが世知辛い世の中でよー。だーれも俺に焼き増ししてくんねぇの」
「仕方ないんじゃないかしら」
「初対面とは思えねぇぐらい態度きっついな!?」
「あなたについて、事前に手に入れた情報があまりなものだったから。それに、RADに優しくしてあげるつもりはないわ」
「はあ? それ職業差別じゃね?」
「自分たちの仕事内容を振り返ってから言うことね。それじゃあ、さようなら」
そう言って、ルーシーはさっさと表通りに出た。浅く積もった白い雪の上、街を行く人達とすれ違いながら広場へ戻る。
すると、後ろから追いついてきたらしいトレイターが、うるさく叫んできた。
「うっわ、人のこと使うだけ使って捨てやがった! 非道! 残酷! な~あ~、ルーシー」
そう甘えた声でごねながら、ルーシーの外套を後ろから引っ張っている。
「あなたあのね……」
怒りを通り越して呆れ果てる。敵意が鈍るのを感じながら、ルーシーは後ろを振り返った。既に通りに寝転がっているトレイターを半眼で見下ろす。
トレイターは服が汚れるにも構わず、ルーシーの靴の傍でごろごろしながら、見たい~、見たい~、見せてくれなきゃ俺しんじゃう~。かわいそすぎる俺~!などと駄々をこねている。とてもではないが二十歳ぐらいの男がする行動ではない。自分と似たような年頃というのもあって、余計に頭痛がしてくる。
ひそひそと耳打ちし合う声。行き交う人々が、ぎりぎり失礼にならない程度の視線をルーシーたちに向けながら何やら言い合っている。
なあにあれ? 喧嘩か? 男のほうがふられたらしい。
……往来の目がとてもいたたまれない。
やがて、折れたのはルーシーだった。渋々、懐から写真を取り出す。
「……一回だけよ」
「やりぃっ」
途端、トレイターが跳ね起きた。笑顔ですり寄ってくる。今度は猫というより犬だ。調子がいいと思いつつ、どうにも憎めない。
取り出した写真には、エルス・ハーゼンクレヴァと書いてあった。写真はモノクロだが、黒髪に蒼い瞳の少年らしい。
そう説明したところで、ルーシーは、トレイターが写真に見入っていることに気づいた。
「どうかしたの?」
「……いや、なんでもねぇ」
だが、ルーシーは、トレイターの頬が微かにひくついたのを見逃さない。
「もしかして、この写真の人物を知ってる、とか?」
質問に、トレイターは肯定とも否定ともつかない、煮えきらない様子で首を横に振っただけだった。
「んー、知ってるっていうか、たぶん、見かけたっつぅか」
「見かけたってどこで?」
「どこだったかなぁ……正確な位置までは覚えてねぇや。でもこの街にいるのは確かだと思うぜ」
へらりと不真面目に笑うトレイター。その態度で彼の言っていることを信用しろという方が難しい。ルーシーは不審に目を細めた。
「それ、本当?」
「俺が嘘つく理由がどこにあんのよ」
「よくいう。裏切り者が」
密やかに揶揄し、銀貨の入った小さな袋を投げ渡す。
そう、友好的な笑顔に惑わされてはならない。情報屋、トレイター。その意味は裏切り者。その名の通り、彼は依頼主を裏切るのだ。その人当たりの良さで油断を誘い、何食わぬ顔つきで裏切る。
しかし、トレイターは裏切り者と言われたところで痛くも痒くもないらしい。にんまりと笑うと、仰々しくお辞儀してみせる。
「お褒めいただいて結構。んじゃ、俺そろそろ行くぜーっ。またのご利用お待ちしておりまーすっ」
トレイターは袋を高々と掲げると、広場の中央、水のない泉に向かって走っていった。
が、途中、大樽を転がしながら歩いていた頑丈な男と激突。謝りもせず、舌を出して挑発した矢先に、横っ面を殴られて凍った石畳に沈んだ。それでもめげない。男の背中につばを飛ばし、もう一度怒鳴られ、次は殴られる前に退散した。別れ際まで賑やかな男だ。
ルーシーはふぅと、息をついた。
エルス・ハーゼンクレヴァがこの町にいるらしい。
おそらく、ルーシーが攫う予定だった少女も一緒に。
身を隠しているとすれば、モンレーヴ旧市街か。新市街は劇場や明るい商店街もあり、ひと目につきやすいだろう。
「……故郷に戻ってくるのは、半年ぶりぐらいかしら」
溢れた白い息が、煙突の煙が溶ける鉛色の空に舞った。
*
ルーシーと別れた後、トレイターは川の埠頭にある倉庫群の中を歩いていた。
外の寒さから逃れたそこは、市場なのだろう。しなびた野菜が転がり、魚市場で干物のような魚が並んでいるのを見かける。
また、飢えと凍死を防ぐため、火の傍で身を寄せ合う、頬の痩せこけた人々の姿も。
見慣れてしまった貧困。それに心を痛めるでもなく、トレイターは鼻歌を口ずみながら進んでいく。
倉庫を抜ければ、ろくに雪かきがされずに根雪となった薄暗いストリートが伸びていた。両脇は、捨てられたエールの空瓶とゴミだらけ。
昔、小さくも旧貴族の保養地だったそこは、今は見る影も形もない。白い花が一面に広がる素朴できれいな風景は、五年前に失われた。
と。
「──トレイター」
背後から呼び止められ、トレイターは立ち止まった。
一呼吸で心づもり。
今度は顔に出すようなヘマは犯さない。友好的な笑顔を作ってから、後ろを振り返った。
道の真ん中、少年の姿があった。薄ら汚れた蜂蜜色の町並みに似つかわしい、小綺麗な格好をしている。黒い髪に紺色の外套。少年らしい細い肩に、いつもの金色の小動物は乗っていない。
ルーシーの写真から飛び出したような黒髪の少年が──正確には、本人その人がトレイターに向かってくる。
「お、どーしたん?」
「買出し。お前は?」
「飯」
「酒場で?」
鋭く嗅ぎ取られた。あそこではエールの一杯しか飲んでいないはずだが、服にでも染みついたか。
トレイターは仰々しく驚いてみせた。
「ばっか、お前、酒場の飯はうまいんだぞ」
「ふうん」
少年の反応は疑心、というより興味ない者のそれだ。
「あ、その反応、信じてねぇな? エガス・ベレニスに戻ったら、今度、トマトのオイル漬けがうまい店紹介してやる。パティスならお前も飲めるだろ」
「飲めるが断る」
「人付き合いの悪いやつぅ」
「お前と一緒にいるとこ目撃されると、俺までとばっちり食らうから面倒」
「そんなこと言っちゃってぇ。こーんなところで俺のこと頼ってくれちゃうぐらいには、俺のこと好きなくせに」
「爆ぜろ—」
まるっきり相手にしていない口調で物騒な発言。相変わらず、可愛げもない。
じゃれつくのもそこそこ、トレイターは表情を改めた。
「それより、連れの女の子は? 目ぇ覚ましたのか?」
「部屋でまだ寝てる」
「まだ目、覚めないのか」
「ああ」
「このまま一生目覚めなかったりして」
ひひっ、と意地悪く笑う。
すると、少年は、つ、と目を細めてトレイターを斜に見上げた。
答えは存外素っ気なかった。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「お前、ひでぇな。せめて、そこは反論するか、早く目覚めるといいのに、ぐらいは思っておけよ」
「移動の手間を考えると起きてくれた方が助かるっていうのはある。運ぶより自分で歩いてくれた方が楽」
「そういう意味じゃねぇよ」
「そう言われても」
返すそこに、少女に対する不快な感情はないようだった。
「ま、とりあえず早く戻ってやれば?」
「そうする」
少年は変わらぬ抑揚で頷くと、トレイターの脇を通り過ぎていこうとする。
──古都トレーネの上級法術士が、帝都カレヴァラの上層区画で何かを盗んだらしい。
トレイターがモンレーヴ旧市街でその情報を得たとき、そして、まさしく上級法術士の資格を持っている目の前の少年が、血塗れの少女を抱えてトレイターの眼の前に現れたとき、ピンときた。
が、確度が足りなければ、少年の目的もわからない。
顔写真が出回るとしても時間がかかるだろうと高をくくり、少年に探りを少し入れていた矢先、ルーシーから誘拐犯の写真を見せてもらったのが先刻。
早くも顔が割れてんじゃねぇよ、俺の情報の価値が下がるじゃねぇかと、と内心で悪態をついていたら、ルーシーに感づかれてしまったのはとんだ失敗だったが。
なんとなく、トレイターは通り過ぎる少年を見送った。
と、何かを察したか、すれ違いざま少年が訪ねてくる。
「……なにかあるのか」
「べっつにー」
そっぽを向き、トレイターも歩きだす。少年の進行方向と逆に足を進め、少年から自身の顔が見えなくなったところで、にんまりと悪巧み。
──ちょうどいい。荒稼ぎさせてもらおう。
既に、帝都カレヴァラは、少女と少女を攫った少年に賞金をつけて指名手配している。
だが、この少年、多少の荒事は難なくこなすし、適当な傭兵や賞金稼ぎをぶつけたところでそう負けはしない。情報を売り渡す先を誤らなければ、しばらくは稼げるだろう。そう〈盤上の白と黒〉なんてものが出てこない限りは──
「そういえば」
少年が立ち止まる。
ぎくり、とトレイターは肩を強張らせた。とっさ、感づかれたかと警戒し。
「残りの宿代、いつ支払えばいい?」
肩をこけさせる。
「……お前って、妙なところで律儀だよな」
「なるほど。
「んなこと誰も言ってねぇよ。勝手に決めんな。ったく」
腕組みする。こうして見る分には、どこかあどけなく、表情に乏しいだけの子供だ。感情が薄れがちな、だが、どこまでも澄んだ蒼い瞳。
「そうだな……後で取りに行くから部屋で待ってろ」
「わかった。俺がいなかったら部屋で待っててくれ」
少年がそう言って片手を挙げる。
トレイターも手を挙げ返し。
「じゃあな──エルス」
そう、指名手配真っ最中の少年の名前を、口にした。
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