追憶③

「空を泳いだら、きっと気持ちいいのでしょうね」



 妻は何気なく呟きながら、窓の外に広がる空を仰いだ。


 その姿は、亡くなった兄を想起させ、ジルドは俯いた。


 妻は病弱で、もう子供が産めない身体となっている。産めるには産めるのだが、次赤ん坊を産んだら、命を落とす可能性が非常に高いのだ。


 ジルドは、歯ぎしりをした。


 元々病弱だった。だが、さらに身体を弱くさせた原因を憎く思う。


 愛そうとした。生まれてくるまでは、楽しみにしていた。だが、目の色が兄と同じだから、どうしても駄目で。罪悪感、劣等感、憎悪。それらを思い出し、絡み合ってしまい、拍車が掛かり、存在自体さえ疎ましく思うようになった。



「あ、鳥」



 空を飛んでいる鳥を見つけたのか、妻の声が弾む。

 鳥が好きなのか、と昔訊いたことがある。妻はこう答えた。



『好きよ。飛んでいるを見ていると、軽くなった気分になるから』



 ジルドには分からない答えだ。兄が死んだあの日から、出来るだけ空を見上げないようにしていたから、尚更だ。



「あらあら……ふふふ」



 妻が控えめな笑声を上げる。顔を上げると、妻は空から地上に視線を落としていた。


 妻が何を見て笑っているのか、想像できた。


 おそらく、庭にいる我が子が走り回って、何かをしでかしたのだろう。それが微笑ましくて笑っているのだ。


 妻は、自分が我が子のことをどう思っているのか、よく分かっている。おそらく、憎悪に覆われたその奥の感情も見抜いていることだろう。


 だから、妻は自分の前では我が子の話を出来るだけしないようにしてくれている。けれど、その心の内では、いつも我が子のことを想っているのだ。


 それが、羨ましく妬ましい。



「ねえ、あなた」

「なんだ」



 返事をすると、妻はゆっくりとこちらに振り向き、淡く微笑んだ。



「私ね、あなたに感謝しているのよ?」

「なにをだ?」

「私に生を与えてくれたこと」



 どういう意味か分からなくて、思わず顔を顰める。



「今まで、身体が弱いから、あまり無理をするなって屋敷に閉じこもって、学園でも身体を動かしてくれなくて、元気な子が羨ましかったわ」


「……」


「なんで生きているんだろう、そもそも本当の意味で生きているのかしらって、いつも思っていたわ」



 何を言いたいのか分からない。だが、次の言葉で言いたいことが分かった。



「でもね、あの子が生まれてきてから、私は生きているんだって実感出来るようになったの」



 我が子の話だ。ジルドは逃げ出したくなったが、それは許さないとばかりに、妻が深い笑みを浮かべた。



「あの子が生まれて、あの子が笑うのを見るたびに、私は本当の意味で生きているんだって、思えるようになったの」



 本当の意味で生きている。それがどういうことなのか、分からない。だって、妻は今生きているではないか。それ以外の答えがどうあるのだろう。



「あの子が生まれてきてくれて、本当に良かった。あの子が生まれてこなかったら、きっと今も死んだように生きていたかもしれないわ。今までの人生の中で、今が一番満ち足りているの」



 だから、と妻は続けて言った。

「あの子のこと、いつか見てやってくださいな。あなたは後悔しているかもしれないけど、私は後悔していないわ。むしろ嬉しくて仕方ないの」



 さらに切なそうに眉尻を下げて、言い募った。



「今のあなたには、全く分からないでしょうね。でも、あなたが分かってくれる日が来てくれることを、私は信じているわ」

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