7

 キッチンから、ダイニングに戻ってきた。


 お母さんは、下りてきていない。

 さっきまでお父さんが座っていた席の前に、水の入ったグラスを置いておく。

 外も暗くなってきたし、電気を点けておこう。ダイニングの電灯をつけるスイッチを押しに行った。明るくなった。

 座っていた席に戻ると、水を一口飲んだ。

 とりあえず、お父さんとは良い感じに終わることができた。今まで苦手意識が少しあったけど、今度からは、大丈夫かもしれない。

 お母さんとはどうなるんだろう? 一言も何も言わなかったことが気になる。それと、お父さんが階段を上がっていってから五分くらい経ったけど、下りてくる気配さえないのは、どういうことなんだろう?

 考えていても仕方ないとはいえ、気になるものは気になる。こちらから行ったほうが良いだろうか?

 ドンッ。上の方から音がした。大丈夫かな?

 何をやってるのか知らないけど、確認しに行こう。ちょっと怖いけど、このまま待っているのも、それはそれで怖い。

 席を立とうとしたら、すごい勢いで階段を下りる音が聞こえてきた。

「ごめんなさい。おまたせしました」

 お母さん。お母さんだ。

「大丈夫?」

「もしかして、髪がボサボサですか?」悲壮に満ちたような声だった。

「そうじゃなくて。何か落ちる音が聞こえたから、もしかしたらって思って」

 てっきり、ベッドから落ちたんじゃないかと。

「はい。重い物を落としてしまいました。お騒がせしました」 

「ああ、お母さんじゃなかったんだ」

 そもそも、お母さんの体型だったら、あそこまで大きな音はしないか。

「どういう意味ですか?」

「なんでもない」

 もしかして、寝てた?

 お母さんは、お父さんが座っていた場所に座った。

「このお水は?」さっき置いた水のことだろう。

「誰も口をつけてないから、良かったら」

「ありがとうございます」

 お母さんが水を飲み始めた。

 怒ってないように見えるけど、どうだろう?

「お水、汲んできます」

 お母さんはコップを持って立ち上がると、ダイニングを出ていった。

 一気飲みか。よっぽど喉が乾いていたのかな?

 お母さんがコップを持って席に戻ってきた。

「おまたせしました。始めましょうか」

「うん……」こういう状況は、嫌でも先生との個人面談を思いだす。いつも無言の圧力のようなものを感じて、少し息苦しかった。それに比べると、今は緊張を感じない。自分が変わったからなのか、相手がお母さんだからなのか、どちらだろう? 

 ただ、お父さんの時もそうだったけど、これはこれで調子が狂う。慣れていないから?

「他の家の方々は、こういう時、どうしているんでしょうね?」

 お父さんと同じか。

「お父さんとは何も話してないの?」

「はい。今回は意見交換はしないほうが良いということになりましたので、必要最小限のみです」

 何をするにも二人で一緒に決める印象が強かったから、予想外だ。それとも、そこまで重要なこととは思われてない?

 どちらにせよ、これだといつまで経っても始まらない気がする。こちらから切り出そう。

「改めて、ごめんなさい」テーブルに額をつける勢いでお辞儀をする。

「お母さん達を騙し続けていました」

「そうですね。裏切られた気分でした。しかし、それはもう、重要な問題ではありません」

「えっ、そうなの?」思わず顔を上げてしまった。

「騙されていたのは驚きましたけど、隠し事をしているのは気づいていました」

 これが、女の勘というものなのかな? あまり信じてないけど。

「じゃあ、打ち明けた時、なんで怒ってたの?」

「そう見えました?」

「俯いていたから、怒っているのかと」

 もしかして、深読みしすぎていただけ?

「怒っていたのは事実です。コミュニケーションを取っていれば、別の道を探ることもできましたよね?」

 それは、痛感してる。もっと早く話すべきだった。

「ごめん。すごく失敗したと思ってる」

「騙し続けるのは、どうでしたか?」

 声を張り上げられることはない。ただ、淡々とした声を向けられた。

「どうって?」

「どんな気持ちになりましたか?」

 いつも通りの調子で、声だけが冷たく聞こえた。

「少し、考えさせて……」

 大学に入って最初の頃は、何事もなく日々が流れていくことにホッとしていた。最善の選択が取れたと思って喜んでいた。

 少し経って、秘密が漏れた時のことが頭を掠めるようになって、しだいに怖くなった。怖さを感じる度に周りに当たりたくなる。怒っている間は、不安を感じないことを知っていたからだと思う。

 その衝動に飲み込まれそうになるたびに、自分が嫌いになっていった。不満を溜めるか逃げるか。それしかできない自分が哀しかった。

 すべてをごまかすために、勉強もアルバイトも頑張った。ゲームをしたり、小説を読んだり、楽しいと思えることにも手を出した。楽しいのは最初だけで、うまくいかなくなると、何もかもが辛くなった。義務感だけが、後に残った。作業の繰り返し。終わりを願う日々。もしかしたら、お姉さんと同じだったのかもしれない。

「……辛かった」

 顔を上げたお母さんと、目を合わせた。じっと見つめ合う。目を逸らないように必死に見つめ続ける。

「……わかりました。信じます。夢を探してみてください。その代わり、ちゃんと相談してください」

 無機質な感じが、拒絶されているようで辛い。

「わかった。ありがとう」

「それはそれとして、なぜ、今まで相談してくれなかったんですか!?」突然、柔らかく優しい声に変わった。

 本気で怒っていたわけではなかった?

 甘えたくなかったというのもあるけど、関係が壊れるかもしれないという恐怖も同じくらい強かったのだと思う。

「言いづらかった。前に進路のことを相談した時に、『好きな道を歩んでください』って、お母さんが言ったこと、覚えてる?」

「覚えてます。いけませんでしたか?」

「実を言うと、プレッシャーだった」

「すみませんでした」

「でも、ありがとう」

 誰かに決め続けてもらっていたら、今、こうして話し合うことはなかっただろう。

「……なぜですか?」お母さんを見ると、伏せ目がちになっていた。

 辛い日々だったけど、多くのことを知ることができた。

「悩むきっかけになったから、今は感謝してる」

 これが、良いことなのかはわからないけど、大切なものを得られたことは確かだ。

「ありがとうございます。そう言ってもらえると、私も嬉しいです」

 満面の笑みだけど、少し無理をしているように見えるのは気のせいだろうか?

 会話が止まった。

 水を一口、飲んだ。コップの少しひんやりとした触り心地が、気持ちを落ち着けてくれる。瞼を下ろす。黒い場所に移動する。

 ダイニングの、時計の針の動く音が、チク、タク、チク、タクと聞こえる。

 もっと怒られると思っていた。あれだけ、嘘はいけないと言っていたお母さんだから。

 それだけに、すっきりと収まらない部分がある。嵌まるべきところに嵌っていない感じ。自分でも、よくわからない。


「私の高校時代の話、したことありましたか?」

 意識が上っていく。目を開ける。

「え? 聞いたことない」突然なんだろう?

「その頃の話を、少ししても良いですか?」

 何度かそういう話になったことはあった。

「どうぞ」

 いつもはぐらかされていた。なんで今になって?

「高校生の頃の私は、よく言えば、世話好き。悪く言えば、お節介焼きでした」

「今も世話好きだよね」

「そうですか? なら、当時の私は、ただのお節介焼きだったのかもしれません。今より、独善的でした」

「独善的?」

「はい、仲の良い後輩の子がいたんですけど、その子の家は厳しい家庭で、女は家を守るものという価値観が絶対でした」

「今は、そこまで絶対的ではないよね」

「そうですね。後輩の子も、何度となく私に、『結婚しか道はないんでしょうか?』と嘆いていました」

 楽なほうにばかり考えていた頃なら、贅沢な悩みだと思ったかもしれない。

「難しい問題だね」

「難しいです。少なくとも、一介の高校生に扱えることではないと思います。当時の私は、将来が保証されているのに何を贅沢を言っているんだろう、と思っていました」

 こういうところが親子なのかな? 考え方が似ている。

「外から見たら、良さそうに見えるもんね」

「その時の私は、彼女が世の中を知らないのだと偏った見方をしました」

「実際はそうでもなかった?」

「それについては、なんとも言えません。私は、お母さんを説得したいと言って、彼女のお母様と何度も会いました」

 こうと決めたらけっこう積極的なところは、今もそうだと思う。

「すごいね。他人のためにそこまでするなんて」

「最初は説得だったんですけど、そのうちに協力に変わりました」

「協力?」

「私は、後輩の味方の振りをしつつ、彼女のお母様に協力するようになっていきました。

 あの子は内気で嘘のつけないか弱い子でしたから、外堀を埋めつつ、内側からも埋めていく。ゆっくりと囲い込んでいけば、彼女が無茶な行動にでることはない。彼女のお母様は、そう見越していたんだと思います」

 お母さんが、丸め込まれやすかったのか、後輩の子のお母様が上手だったのか。

 どちらにしても、一方的すぎるとは思う。

「成績は平凡で、目に見える取り柄があるようには見えない。家柄が良いというだけ。なんとかして飛び出そうと模索していた、世間知らずの後輩。

 当時の私は、そういう認識しかできませんでした。理解できないというより、理解する気がなかったのかもしれません」

「ごめん、本当の話?」

 目の前にいるお母さんからは、とてもじゃないけど想像できない。

「本当ですよ」

 お母さんの顔を、凝視した。

 悲しい顔をしているようにも見えた顔が、今は薄く笑っているようにも見えてしまう。お母さんがどんな気持ちなのか、いまいち把握できない。

「でも、そんなに上手くいくものなの?」

「実際は、どうなったのかは知りません」

「知らない?」

「高校卒業とともに会う機会がなくなってしまったので、その後のことは知らないんです」

「そう言うことか」

 お母さんって、若い頃はどんな生活をしていたんだろう? そういうことをまったく知らない。

「高校を卒業した後、数年かかって、自分のしたことの愚かさを思い知りました。謝ろうと決心したんですけど、彼女のお母様から張りのない声で、行方知れずだと」

 だから、昨日の話で、おそらく、だったのか。

「それからは、言葉を慎重に扱うようになりました。言葉は、使い方次第で人を狂わせてしまう」

「なんていうか、ひどい人だね。子供の意見はどうでも良いってことでしょう?」

「私の目から見ると、意見自体は真摯に受け止めていたようにも思えました」

「えっ、そうなの?」

「娘は本当の幸せを知らないだけなのだと、よく通る声で、繰り返し仰っていましたから」

「うーん」それは、真摯に受けて止めていたと言えるのだろうか?

「私に、そう見えただけなのかもしれません」

 独善的。自分の信じることをする。しかし、他人に意見を押し付けるのは良くない。

 でも、明らかに間違っていると思われることが目の前で行われていたとしたら、どうだろう?

 何が善くて、何が悪いのか。この話だって、今がそういう時代だから、悪い話に聞こえるというのもあると思う。

 もし、世間が昔の風潮のまま、あまり変わることなく進んでいたら、この話を悪い話だと思うことができただろうか?

「小学生の時に、『なんで、変な話し方なの?』と私に聞いたことを覚えていますか?」

「あー、うん、一度聞いたことがあったね」

 友達に疑われた時のことかな?

「この話をする決心がつかなかったので、その時は、『秘密です』と返しましたけど」

『本当に血が繋がってるの?』だったかな? あまり覚えていない。

「その子の話し方なんですよ。こういう話し方。最初は、あの子を真似していただけだったんですけど、気づいたら、この話し方で落ち着いてしまいました」

 なんというか、あまり、現実感がない。でも、お母さんが嘘をついているようには見えない。哀愁漂うと言うのは、こういう雰囲気なのだろうか?

 こういうお母さんは初めて見た。いつもとあまりにも雰囲気が違う。

「……なんで、こんな話をしてくれたのか、聞いても良い?」

「母親としてではなく、一人の人間として、話す必要があると思ったからです。お友達にも、正直に事実を打ち明けてください。お願いします」

 ああ、そういうことか。

 悲しい? 楽しい? そのどちらもだろうか?

 言葉に上手く表せない気持ちが湧き上がった。あえて形にするのなら、歩いていて、ふと見上げた夕陽が綺麗だった時のような気持ち。こういうの、なんて言うんだろう?

「お母さん、そういうところは変わらないんだね」

 不謹慎だけど、少し微笑んでしまっていると思う。

「どういうところですか?」

「そういうところ」

 お母さんは、訳がわからないというような顔をしていた。

「大丈夫、絶対に謝るから。そのつもりで、今、ここにいる」

「わかりました。信じてますよ」

「うん」

「それじゃあ、握手してもらっても良い?」片方の手のひらを差し出した。

「握手ですか?」不思議そうな顔をされた。

「仲直りの印に握手すると良いって聞いたから」

「ハグでは、駄目ですか?」

「うーん、ハグはちょっと…」正直、恥ずかしい。

「本当に駄目ですか?」

 念押しされると、断りづらい。

 まあ、たまには良いか。

「わかった。今回は乗る」

「ありがとうございます」

 お互いにイスから立ち上がると、広いところに移動した。

「私からハグしますので、手を広げていてください」言われたとおりにする。

 お母さんにハグされる。ハグし返せば良いのかな?

 とりあえず、お母さんの背中に手を回しておく。

「大きくなりましたね」

「お父さんと同じこと言ってる」

「そうなんですか?」

「さっきの話……、お父さんは知ってるの?」

「知ってますよ……」

「そっか……」お父さん、知ってるんだ。

「ありがとうございました」

 お互い、相手の身体から手を離した。

「こちらこそ」お母さんと顔を合わす。

 続く言葉は、出てこない。時計の心地よい音が、時間を刻み続けている。

「お父さん、呼んできますね」

 お母さんが、ダイニングを出ていった。

 その後ろ姿を見ながら、さっきまで座っていたイスに、崩れ落ちるように腰掛けた。

 終わった。

 今さらになって、頭が熱くなっていることに気づいた。

 息を吸うと、新鮮なものが入ってくる。

 息を吐くと、熱と共に内側に溜まっていたものが抜けていく。

 抜けていく。

 瞼が下ろされていった。

 お母さんが階段を上がっていく音が、遠くから聞こえた。

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