6

 目を開けると、天井が広がっていた。汚れもそのまま。何も変わらない。

 そっか、寝たんだ。


 ベッドから起き上がると、懐中時計を手に持ったまま、窓に近づいた。

 窓の向こうには、日が傾いて赤に染まった、鮮やかな青い空。

 茜色に染まった雲は、線を描いて遠い彼方まで続いている。

 ただ流れているだけにしか見えなかった雲が、今は目的地を定めた旅人のように、一つの道を歩んでいるように見えた。

 向かう途中なのか、それとも、帰る途中なのか。

 雲は何を考えているんだろう? 見るだけではわからない。一緒に進んでいけば、気持ちがわかる?

 窓を開ける。なんとも言えない、擦れたような柔らかいような匂いが身体を通り過ぎて、部屋の中に入ってくる。なんとなく、懐かしい匂い。

 風の冷たさが、不思議と心地よい。

 夏が待ち遠しい。今年の夏は暑いだろうか?

 目を静かに閉じる。目の前が真っ暗になった。七色の光が目の前を舞っているように見える。光が中心に向かって渦を巻き始めるのに従って、少し先の未来をそうぞうする。


 クーラーの効いたコンビニから外に出た。

 強い日差しに当てられて、一瞬、目の前が真っ白になる。響き渡る特徴的な虫の声が流れ始めて、身体から汗が流れ始めた。

 今は夏なのだと思い出す。

 むせ返るような暑さの中、声の正体がいるであろう木の下の小陰を目指して歩いていく。

 近づくにつれて、声に全身を包み込まれていく。一層、暑さを感じる。頬を伝う水分がくすぐったい。

 小陰までやってくると、袋から急いでアイスを取り出す。

 水滴だらけのアイスと、汗を流す自分に、どこか親近感を覚えた。

 アイスから放たれる冷たさで、手の近くが涼しくなる。横切る風が心地よい。アイスを一口食べた。冷たさが口の中で広がっていく。

 ため息を漏らすと、熱が天に登っていく。深く沈み込まれそうな鮮やかな青空と、触り心地のよさそうな純白の雲。


 すべてが、楽しい。

 目を静かに開けた。目の前には茜色の世界が広がっている。

 ふふっ。おかしい。前は内側に目を向けると、不満ばかり思いついたのに。

 こんなことでよかった。

 胸が締め付けられた。温かいものが、頬を流れていく。頬が風に吹かれて、冷たい。

「綺麗……」

 窓から振り返って、部屋全体を見回す。夕日に淡く照らされた部屋に、次の瞬間には壊れてしまいそうなくらい曖昧な紅の陰りが揺蕩いていた。

 コンコン、とドアのほうから音が聞こえた。

「起きた? 話をしたいんだけど良い?」お父さんの声。

「あ、はーい。少ししたら行く」

 足音が二つ、別々の方向に遠ざかっていく。どちらかは寝室に戻った?

 そうだ。まだ、結果は出ていない。終わってない。チャンスは、まだあるかもしれない。

 人を信じられなくなったことで、相手を注意深く見ようとするようになった。

 自分がわからなくなったことで、間接的に、他人の感覚を知ろうと努力するようになった。

 怒りの感情を抑えていたことで、自分の感情の動きを少しだけど、知ることができた。

 結果だけを求めて、近道を選んだ結果、回り道してしまっていた。だけど、無駄ではなかった。上手く使えば、流れを変えられるかもしれない。

「大丈夫……」サムズアップをした右手を見る。向き合う勇気。

 生きていれば、きっと、明日は来る。


 部屋のドアの前まで進んで、止まる。

 手に持った懐中時計を、そっと握りしめた後、ポケットにしまった。

 覚悟はできた。行こう。お父さん達のいる一階へ。

 ドアのレバー開けて、部屋を出た。


 前を見たままドアを閉めると、階段の手すりに手を乗せ、指を手すりに滑らせながら階段の途中まで下りると、立ち止まった。

 無表情で感情が読めないお父さん。

 一目見てわかるほど激怒していると思われるお母さん。

 恐らく、どちらかが待ち構えている。

 正直、お父さんとは話しづらい。いつだって、回り回って返ってくるような会話に悩まされてきた。

 今まではそこまで気にしなかった。

 けど、今回は状況が違う。質問の内容がどんなところで関係してくるのかが予想できないから、良い返答を返せる自信は、正直あまりない。

 かといって、お母さんはお母さんで、燃え上がる炎のように怒っているだろうから、下手なことを言って再爆発させてしまうかもしれないし、めったに怒らないから、どこが逆鱗なのかわからない。

「ふー」ため息をついた。

 もしかしたら、こういうところが友達が離れていった原因なのかもしれない。打算的な見方しかしていない。常にこんな風に見られていると感じたら、一緒にいたくなくなるのも当然かもしれない。

 こうやって考えていても、悪い想像ばかり浮かびそうだ。ここまで来たのだから、今さら踏みとどまっても仕方ない。

 目を閉じて、手のひらで顔を覆う。視界が暗闇に覆われた。

 あるのは黒い空間と、普段なら気づかないような微かな音。あとは、自分自身。

 こうすると、感覚が鋭くなる。余計なことが浮かんでは消えていく。

 胸の鼓動を強く、速く感じる。これは、恐怖のせいなんだろうか?

 怖いのは、お父さん? お母さん? そんな具体的なものではない。もっと抽象的なもの。

 しっぱい。多分、これだ。失敗したという事実が起きてしまうことが怖い。

 なんで、失敗が起きることが怖い? 失敗から連想されるものが掠めて消えた。心をざわつかせる。足踏みさせて、惑わせる。

 今までは、ここまでで引き返していた。ここからは未知。

『あなたは、自分と他人を信じられる?』声が通り過ぎた。

 あなたは、自分と他人を信じられる? 自分に問いかけた。

 二人を信じる。そもそも、悩み抜いて信頼できると思ったから、打ち明けた。最後の最後で、二人を信じた自分を信じないでどうする。

 もし、もしも、この選択が間違っていたとしても、人を見る目が足りなかったというだけのこと。次に生かす大事な反省点にすれば良い。

 成功と失敗に囚われすぎていたかもしれない。何を考え、何を学び、何を識るか。こちらにも目を向けるべきだった。捉え方次第だった。

 言っていたこと、なんとなくわかった気がする。

 恐怖は、跳ね除けるものでも、打ち消すものでもない。認めるもの。ただ認めて、答えを出すもの。そして、ともに歩むもの。

 答えは出た。とりあえず、二人を信じる。悔いはないね?

 迷いがあるなら、ここで止まるべきだ。

 何も考えないように意識する。ただ、心の動きを感じるだけにする。

 悪い感じはしない。まずまずといったところ。良いとは言えないけど、手応えはある。それでは、行こうか。

 残りの段差を下りて、ダイニングに入っていく。

 お父さんが、ダイニングテーブルのイスに座っている。

 お母さんはいない。

「…お母さんは?」

「一対一で話し合いたかったから、部屋に戻ってもらった。三人一緒のほうが良かった?」

「そういうわけじゃない」

「じゃあ、先にお母さんのほうが良かった?」

「お父さんからで大丈夫」

 最初がお父さんで良かった。冷静沈着なお父さんなら、感情に振り回されずに話し合える。もし、言い合いになってしまっても、小さなうちに止め合えるだろう。

 感情的に飲み込まれたまま続けたら、伝わることもなく壊れていくだけで終わる。それは悲しい。それだけは避けたい。

「座らないの?」

「座る。どこに座れば良い?」

「どこでも良いよ。水、飲む?」

「うーん、とりあえず、大丈夫」

 お父さんの対面の席に座った。

 少し熱くなってるかもしれない。

「ごめん、やっぱり飲みたい」

「じゃあ、ちょっと待って。水を汲んでくる」

「あ、自分で行く」

「大丈夫」

 お父さんが席を立って、テーブルを離れていった。

 少し、頭を冷やそう。

「どうぞ」お父さんにコップを手渡される。

「ありがとう」コップを受け取って、一口飲んだ。

 お父さんを横目で見る。コップを持って、席に戻っていく。

 ふぅ。頭が涼しくなっていく。熱が冷めていく。

 テーブルにコップを置いた。席に座って水を飲んでいるお父さんを眺める。

「おまたせ。話を始めよう」

「うん」

 始まる。

「まず、先に謝りたい。ごめん」

 ん? 「なんで…、謝るの?」

「世の親御さんは、こういう時、どうするんだろうね?」

 どうすると聞かれても困る。

「甘ったれたことを言うんじゃない、と叱るんだろうか? それとも、なんとかなるさ、と優しく励ますんだろうか?」

 どうしてこういうことになったんだろう? 

 最初に説教について聞かれるとは思わなかった。

「僕は、どちらもできない。怒るのは苦手なんだ。かと言って、無責任に励ますことも性に合わない。

 親である前に、一人の人間なんだと思う。親の務めは果たせそうにない。

 だから、素直に思ったことを言わせてもらう」

 来る。

「一緒に、考えてはいけないかな?」

 こんなことになるとは思わなかった。反論して、一方的に言い合って、揚げ足を取り合って、喧嘩になる最悪の可能性も考えていた。それだけは避けないといけないと思っていた。

 お父さんのことだから、好きにしなさいくらいが妥当だと予想していた。

 それなのに。それで、「良いの?」

「嘘を嘘のまま終わらせなかった。その気持ちを信じるよ」

 微笑んでくれている。

「それに、本当のことを言うと嬉しかったんだ。それとなく聞いてくることはあっても、自分の悩みとして何かを打ち明けてくれたのは、小学生の頃以来かな?」

 胸に手を当てた。熱い。

「ありがとう」

 お父さんの顔を見られない。

「いつまでも養うつもりはないけど、納得の行く道を探すと良い」

「見つかるかな?」

「わからない。未来がわかる超能力、持ってる? 僕は持ってない」

 真面目な話をしているのに。

 前は話の骨を折られるようで嫌だったけど、今はありがたい。おかげでいつもの自分に戻れそうだ。

「持ってたら、苦労しないよ」お父さんに、笑いかけた。

「そうだよね。だから、いろんなことを知るためには他の人とちゃんと話し合うことが必要じゃないかな? そういうこと、してる?」

「あまり、してない」

 ちゃんと相談できる人がいなかった。

 というより、信じていなかったのかもしれない。

「多くの意見を知ること。ちょっとした世間話が、思わぬ発想を生むこともある」

「うん」

「友達にも、ちゃんと謝ること」

 謝って、終わらせる。

「うん」

「一人で抱え込むことはやめること」

「うん」

「相手にも都合や考えがあるから、分かり合えないこともある。でも時間が経てば、分かり合えることもあるかもしれない。

 過去の姿に鑑みることは必要だけど、現在の姿もしっかりと見て、相手を判断してほしい。大学生には大学生のしがらみがあるだろうけど、約束」

 偏見で判断するな。口でわかったというのは簡単だけれど、実際に徹底することは難しい。

 おそらく、それを踏まえたうえで、約束してほしいということなんだろう。

 お父さんの顔に注目する。いつも通りの顔だから、本当のところはわからない。

「努力する」

「うん、ありがとう。それくらいのほうがこっちも気が楽だよ」

 微笑んでくれたみたいだから、たぶんそういうことなんだろう。

「じゃあ、ゆびきりをしよう」

 お父さんが小指を突き出した。

 ゆびきり? 久しぶりに聞いた気がする。

「なんで?」

「口約束だと、味気ない」

 どう、味気ないんだろう?

 よくわからないけど、お父さんが言うなら。

「わかった」

 お父さんの小指に片方の小指を絡め合わせる。

「「ゆびきりげんまん」」

「ありがとう」お父さんがそう言ったので、指を離した。

「諸行無常。変わらないものはない」

 お父さんは、さっき絡め合わせた小指を、もう片方の親指と人差し指で擦っていた。

「だから大事なことは、形にして残しておくことにしてるんだ」

「うん」

「ごめん、どうしても説教臭くなるみたいだ」

「そういうところ、お父さんらしいと思うよ」

 ゆびきりした理由といい、お父さんらしい。

「ちゃんと伝わったと思うよ。少なくとも、僕には響いた」

 いつになく真面目な声だったから、少し驚いた。

「うん……」

 お母さん、どう思っているんだろう?

「言葉足らずだったのは今後の課題だね」またいつもの調子に戻っていた。

「そうだね。でも、お父さんがそれを言う?」

「それもそうだね」

 会話が止まった。焦りも怖さもない。この余韻は好きだ。お父さんと話してこんな気持ちになるのは、いつぶりだろう。

 水を少し飲んだ。お父さんも水を飲んでいた。

「知らない間に大きくなったね」

「もう、大人だからね」

「大人か……。何をもって大人なんだろうね?」

 お父さんの声が物悲しい響きに変わったように思われた。

「二十歳になると大人だけど、そういう話じゃないよね?」

「うん。制度のほうじゃなくて、もっと、曖昧なほうの大人」

「うーん、わからない」

「感情的にぶつかり合うことなく、相手の意見を汲んだうえで、自分のいしを伝えられること。相手がいかなる人物であろうと、まずは対等な態度で臨むこと」

「それが、お父さんの最終的な答え?」

「そう思ったこともあった。ずっと、答えが定まらない」

「大人でもわからないことばかり?」

「うん。成人を迎えても、何かが変わるわけじゃないしね。レッテルが貼り変えられるだけ。お酒が飲めるようになる利点はあるけどね」

「お父さん、お酒飲まないから、あんまり意味ないよね」

 飲んでいるところを見たことがない。

「そうだね。だから、何も感じなかった」

 成人式。大人になるという自覚、か。

「そういうこと言って、周りの人に嫌味な人に思われてない?」

「こういうのって嫌味に聞こえるの?」

 あれ、真面目に返された? 冗談交じりに言ったつもりだったんだけど、伝わってない?

「人によっては聞こえるかも」最悪、ごまかそう。

「まあ、大丈夫だと思うよ。こういうことを話す人は選んでいるし」

「それって、暗に捻くれ者だって言ってる?」

「そういう意図はない」

「そうですか」

 不思議な雰囲気だ。皮肉を言い合っているのに、楽しい。お父さんも楽しそうに見えるけど、同じ気持ちだろうか?

「気づいたら、こんな年になってた」お父さんは、独り言のように呟いていた。

「まだまだ若いのでは?」

「僕より高齢の人から見たら、そうなるね」

「こんな歳になるまで生きてみて、どう?」

 思わず口に出してしまったけれど、こんなことを聞くのはまずかったかな?

「退屈しない人生だよ。晴れの日もあれば、雨の日もある。曇りや嵐もある。良くも悪くも飽きないよ。失敗が多いのが難点」

「失敗、多いの? 意外」

 割と完璧な人だと思ってた。

「一緒に住んでいて、何に悩んでいるのか、気づけなかった」

「それは、お父さんは悪くない」

 隠そうと必死だったわけだから、ばれていたら、それはそれでまずかった。

「良い悪いの問題ではないんだ。近くのものを見落としていた事実は変わらない」

 変なところで頑固なのは、お母さんと似ている。

「じゃあ、借りをチャラにして」手のひらをお父さんの前に差し出した。

「それでおあいこ」

 お父さんの目を見る。目が合う。お互い、合わせ続ける。

「借り? なんのこと?」

「今回のこと。お母さんは許してくれるのかわからないけど」

「そういう話だったかな?」

「お互いが良いって言ったんだから、とりあえず終わりということにしない?」

「うーん、まあ、そうだね。では、おあいこということで」

「じゃあ、手を出して」

「なんで?」

「握手しよう。仲直りの印に握手すると良いって聞いた」

「そうなの?」

「そうらしい」お姉さんが言っていただけだから、本当はそんな意味はないのかもしれないけど、せっかくだから使わせてもらおう。

 お父さんが手をパーにして出してくれた。

「ありがとう」お父さんの顔を見ながら、握手する。

「こちらこそ」お父さんからも返ってくる。

 手を離すと、顔をそらした。他人の顔をじっと見続けるのは、まだ難しい。

 握手した時、お父さんの表情が柔らかく見えた。今は、どんな顔をしているんだろう?

「もしかして、大人になった?」

「なんでそう思うの?」思わず顔を上げた。

「ふと、思ったんだ」お父さんの表情は今も柔和に見える。

「さっき、大人とはなんだろうと言ってなかった?」

「頭ではわからないけど、心でわかるもの、ない?」

「ある」

「さっき、少しだけ大人に見えた」

「そうかな?」成長できたのなら、嬉しい。

「うーん、やっぱり、気のせいだったかもしれない」

 そう言ったお父さんは、苦笑いしているように見えた。

「結局どっちなの?」

「どっちだろうね?」

 結局、曖昧なまま。それも良い。

「世界は広い。知らないことだらけ……」

「うん」

「人は、宇宙を目指して、海底も目指しているよね」

「そうだね」

「ここにも、未知の世界が広がっているね」

 お父さんが、自分の胸の辺りを指差す。

「心ってこと?」

「心と身体、両方」

「両方なんだ」

「身心一如」

 どういう意味なんだろう?

「世界は不思議だらけだね」

「うん」

「悩みがつきない」

「うん」

 会話が止まった。静かな時間が続く。

 残り少ない水を飲み切った。

「僕の話は終わり。本当に楽しかった」

 お父さんは、コップを持って席を立った。

「お母さんを呼んでくるよ」

「うん」

 お母さんが来る前に、水を汲んでおこう。

 席を立つと、コップを持ってキッチンへ向かった。

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