7
空を見ると、青く白い空に薄い赤色が、ぶつかり合うことなく重なっていた。
振り返って、見慣れたドアと対峙した。
ドアの鍵穴に鍵を入れて回した後、ドアを開けて玄関に入る。出掛けた時にはなかった、お父さんとお母さんの靴が視線をよぎった。
あれ、もう帰ってきたんだ。思ったより早い。
廊下を進んでダイニングに入る。
リビングにあるテレビの前にお母さんとお父さんが座っているのが見えた。
テレビには背中に武器を背負ったキャラクターが暗い道を進んでいる場面が映っていた。重苦しい感じのBGMが鳴り響いてくる。
最近熱心にやっているけど、そんなに楽しいんだろうか?
家族で遊ぶ時以外では触りもしなかったのに、えらい変わりよう。
「ただいま」
「あっ、おかえりなさい」
お母さんが身体をこちらに向けた。
「おかえり。ゲーム機借りてるよ」
お父さんはゲームに集中しているのか、顔をテレビに合わせたまま、声だけをかけてきた。
「うん。勝手に使って」
すっかり、お父さん専用機になってしまった気がする。
「どこかに出かけていたんですか?」
「気分転換に歩いてきた」
「そうだったんですか」
「お母さん達は今日、早いね」そう言いながら、キッチンに入って冷蔵庫を開けた。
炭酸か、野菜ジュースか、どちらにしようかな?
「そうですか?」
「あれ? 夜には帰ってくるって言ってなかった?」
炭酸。コーラのペットボトルを取り出すとグラスに注いだ。
良い音だ。炭酸は、このジュワー、という音がないとね。
「お母さんがそういう言い方をした時って、いつも日が落ちた頃に帰ってくるから」
一口、飲む。口の中が、パチパチする。飲んで減った分を再び足した。
「そうでしたっけ?」
「うーん、さっきのは訂正。いつもそうだったかは、自信がなくなってきた。実際はどうなんだろう?」
コーラのペットボトルを元あった場所に戻すと、冷蔵庫の扉を閉めた。
グラスを持ってリビングに戻った。
テレビには、ゾンビのような敵と戦っているところが映っていた。
リビングにあるソファに座った。
足が痛い。明日、筋肉痛にならないと良いけど。
「動植物園に行ってきたんだよね?」お母さんに質問した。
「はい。私もお父さんも、一度も行ったことがなかったので」
「一回も行ったことなかったの?」
正直、驚いた。
「あそこって有名なデートスポットだったよね? ちょっと遠いけど、電車で行ける距離だし、てっきり何回も行ったことがあるのかと」
「私も盲点でした。ゴールデンウィークに二人でどこに行くかを話し合っていた時に、そういえば二人で行ったことないよね、という話になりまして」
お母さんの声のトーンが少しずつ上がっていっている気がする。
「ここで気づいたのも良い機会だから、行こうという話になりました」
「へー、楽しかった?」
「楽しかったですよ。動物園も植物園も、たくさん回りました」
「動物園、どんな感じだった?」
「とても広くて、たくさんの動物がいましたよ。名前の知らない、初めて目にした動物がたくさんいて感激しました。
知っている動物でも、キリンなんかは写真では味わえない迫力が感じられて、新鮮でしたよ。どの動物も、写真で見るのとはまた違ったものを感じられて楽しかったです」
本当に楽しそうに話していた。
「良かったね。それだけ楽しかったのなら、行った甲斐があったってことだよね」
「はい! 最高の思い出になりました」
「そういえば、写真撮った?」
「写真ですか?」苦笑いしているということは、撮り忘れた?
「私もお父さんも、見るのに夢中で写真を撮り忘れていました。すみません」
「全然。話を聞いただけでお腹いっぱい。植物園のほうには行ったの?」
「あ、そっちも行きましたよ。植物園のほうは動物園とはまた違った楽しさがありました。
独特の静けさと植物の香りが印象的で、別の世界にいるようでしたよ。普段、あまり見られない植物を見られたのも良かったです」
「あそこの植物園は結構すごいよね」
「もしかして、行ったことあるんですか?」
「たしか、小学生の校外学習か何かで植物園だけ入った」
「植物園だけ?」
たしかに、不思議に思うよね。そういう顔をするのは、ごもっとも。
「なぜか、植物園だけだったんだよね。せっかくここまで来たのに、なんで動物園に入らせてもらえないんだって、同じクラスの友達と言い合ってた」
本当、どういう事情で植物園だけ回ることになったんだろう?
「まあ、でも、二人が楽しかったなら良かったよ」
「そんな風に言うなら一緒に行けば良かったじゃないですか」
「しつこい。電車に乗って動植物園に行くって聞いてついて行くほど、アグレッシブな人間じゃないのは、お母さんも知ってるでしょう?」
「はい、すみません……」
たぶん、お互いに深い意味はなかったんだと思うけど、こうなると少し気まずい。
お母さんは、叱られた子供のようにしゅんとしている。怒ると本当に怖いのに、すぐに謝ってしまうところは性格だろうか?
ふと、思ったけど、普段は怒らない人が怒ったと感じたから怖いと思うのか、凝縮された怒りが爆発したと感じたから怖いと思うのか、どっちなんだろう?
めったに怒らないし、すぐに謝るお母さんは優しい人なんだと思う。
でも、いつもいつもこういう態度なのは、ちょっと卑怯だとも思う。こっちは悪くないのに罪悪感が生まれてくる。
そんな顔をするなら、はっきり言ってくれれば良いのに。すぐに自分に呆れた。
謝っている人にこういう見方をするなんて、汚れているのかもしれない。
「……でも、すごいね。あんなところまで行くなんて」
家からあそこまで行こうと思ったら、電車で行っても一時間はかかるだろう。
出不精だから、そのバイタリティは見習いたい。
「そうですか? 私やお父さんと同じくらいの歳と思われる人も来ていましたよ。
でも、たしかに若い人のほうが多かったような気がします。すごくエネルギッシュに動かれていて、あれを見てしまうと、私達も若くないと実感しますね」
お母さんは足を軽くさすっていた。
「えっ、そうなの? ついさっき、隠れ桜まで行ってきて、運動不足を実感したばかりなのに」
一緒に夜桜を見に行った時は、あんまり疲れなかったんだけどな。
「へー、隠れ桜に行ったんですか? この時期に行くのは珍しいですね」
「確かにね。桜って、満開シーズンが終わるとあまり気にしなくなるよね。最初は並木道の方の桜を見に行って、その後に隠れ桜に行ったんだけど、どっちも綺麗な葉桜になってたよ」
本当に綺麗だった。
最近は、何をしてもあんまり楽しく感じられなかったから、余計にそう思うのかもしれない。
我ながら、テンションが上がっている。
「そうなんですか?」
冷静にならないと。でも、まあ、いいか。
「並木道のほうは、あそこって、先月は人でいっぱいだったけど、シーズンが終わったから、そんなに人はいないかなって思って行ったんだけど、案の定、あんまり人がいなくて、並木道の葉桜も綺麗だったよ」
上手くまとめきれず、支離滅裂になってしまって、思ったことがそのまま口に出ていたようだから、ちょっと、恥ずかしい。でも、なんだかすっきりした。
「じゃあ、明日か明後日に三人で行きませんか?」
何事もなかったかのようにスルーしてくれたお母さんに感謝。
でも、お母さんはなんでこう三人で行きたがるんだろう?
今年に入ってから、妙に押しが強い気がする。前はここまで強引じゃなかった気がするんだけど。
グラスに入ったコーラを飲む。
「うーん、今日しっかり堪能してきちゃったから、もう良いかなって。二人で行ってきたらどう?」
「お父さんはどう思います?」
そう言いながら、お母さんは身体の向きをお父さんのほうに変えていく。
「あー、ごめん。今だけはこっちに集中させて」
テレビに目を向けた。
武器を持ったキャラクターが、自分よりも何倍も大きい敵と対峙していた。ボス戦に差し掛かったのかもしれない。
「もうっ! ごめんなさい…。お父さん、頑張ってください」
ころころ表情が変わって、おもしろい。
「うん、頑張る」
お父さんは、ゲームに戻っていった。
お母さんの身体の向きがこちらに戻ってきた後、
「話を戻しましょう」と言ってガッツポーズを取っていた。
「綺麗なものは何度見ても綺麗ですし、もう一度、一緒に行きましょう!」
「考えておく。お母さん、一緒に夜桜を見にいった時のこと、覚えてる?」
ちょっと、口早になってしまった。
「夜桜ですか? あの時は三人で楽しかったですね。もう少し暖かいと良かったんですけど」
うまく話を逸らせたらしい。
「そうだね。隠れ桜に向かってる途中から、もう少し厚めの上着を着てくれば良かったって思ってた。その分、暖かいお茶がいつもよりおいしかったけど」
「夜桜宴会をする人のイメージが強かったので、てっきり夜も暖かいと思っていたんです。私達、夜に出歩くことがないですからね」
お母さんが笑ったので、つられて笑いがこぼれた。
コーラを飲んだ。コーラがなくなった。
手に持ったグラスを少し見ると、近くにあるテーブルに置いた。
「気になってたんだけど、携帯用のランタンなんていつ買ったの?」
「んー、あれはたしか、何年か前にホームセンターで安くなっていたので、二人で話し合って買ったんです。
最初は、ただ物珍しかっただけだったんですけど、キャンプでも言ってみたいですね、とお父さんと話しているうちに、おもしろいから買おう、という話になっていって、買ったんです」
「買ったは良いけど使うこともなくしまわれていた、と」
テレビ画面では、お父さんの操作するキャラクターが攻撃を受けているようだった。体力ゲージと思われるところが少なくなっているから、けっこう苦戦しているらしい。
「夜桜なら灯りがいるかもしれない、という話になりまして、懐中電灯を探していたら一緒に出てきたんです」
お母さんの話を聞きながら、視線をお父さんに移動させた。
合理的に見えるのに、『おもしろそうだから』という、よくわからない理由で物を買ったりするから、何を考えているのかいまいち読めない。
正直苦手なタイプではあるけれど、変な気を使わなくて良いからか、不思議と話していて楽しい。
視線をお母さんのほうに戻す。
「役に立ったから、結果オーライかもね。実際、懐中電灯だけじゃ手元がおぼつかなかったし」
「暗かったですもんね。だからこそ、下から灯りに照らされた夜桜が際立って見えましたけど」
「昼の桜しか見たことがなかったから、小さい灯りに照らされた夜桜は新鮮だったね」
暗い空の下。風に揺れる枝。枝から飛んでいく花びら。
「綺麗でしたよね。好きな人の別の一面を知ったときのような気持ちになりました」
「そうなんだ。恋愛したことないから、そういうのわからない」
恋愛か。
「自分らしく生きていれば、いつか必ず、良い人と巡り会えますよ」
「あれ、お母さんは神様とか運命とか信じてる人?」
「信じていますよ。もちろん、それだけではないですけど」
陰のある顔をするなんて珍しい。
テレビの画面を見ると、お父さんが操作していたキャラクターだけが画面に残っていた。敵を倒したらしい。
「とりあえず一峠越えたから、ちょっと待ってて」
お父さんがそう言うと、立ち止まっていたキャラクターが動き始めた。また向こうの世界に戻っていったようだ。
「そういえば、今日のご飯はどこに行くの?」たしか、食べに行くという話だったと思うけど。
「近くの定食屋さんにしようかと思ったんですけど、食べたいものありますか?」
「特にないから、どこでもいい」
「お父さんはどうですか?」
「近所のところだよね? うん、あそこにしよう」
テレビには、セーブしています、電源を切らないでください、と出ていた。
「では、決定ですね。準備してきます」
お母さんがリビングを出ていった。
「おまたせ。僕も準備してくるよ」
少しして、ゲーム機とテレビの電源を切ったお父さんもリビングを出ていった。
テレビラックに置いてあるゲーム機が、視界に入った。
あのゲーム機もそうだった。欲しいゲーム一本のためにゲーム機を買うのは勇気がいる。だからそれとなく、二人を説得することにした。
お母さんはプレイするよりプレイしているのを見るほうが好きみたいだから、イマイチ乗り気になってくれなかったけれど、少しだけお金を出してくれた。これは想定内だった。
お父さんも説得したけど、最初はいくら説得しても見向きもされなかった。割と新しいもの好きな人だと思っていたし、以前はゲームもやっていたと聞いていたから、こちらは想定外だった。
だけど、店頭で実物を見たあたりから、目の色を変えたように、本体と周辺機器の値段や仕様を調べていた。
その時も、『これはおもしろい』と言っていた。
普通は、ゲームのラインナップでゲーム機を買うか決めると思うんだけど、お父さんは機械の仕様ばかり注目していて、やっぱり変わっているとそのときも思っていた。
最終的にはお金を半額出してもらって、予想以上に少ない出費でゲーム機を買うことができて、こちらとしては大助かりだった。
ただ、買ってすぐにセットアップを一緒にやった後は、買う前の情熱はどこへやら。お父さんは全然ゲームで遊ばないから、今までは、実質専用機になっていた。
あのゲーム機は多大な出資のおかげで買えたわけだから、文句はない。最近はゲームをしてないし、お父さんが楽しそうにゲームをしているのを見ると、少なからず、嬉しい。
でも、それを見ていると、少しささくれだったような気持ちが湧いてくるのはなんでだろう?
「準備できたよ」
「準備できました」
二人とも、リビングに戻ってきた。
「準備できました?」
「うん、大丈夫。行こう」
三人でリビングを出た。
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