第二章 1




 さあ、攻撃してこい!

 

 心の中でそう呟いた珠代は自分の席に戻り、相手の出方を待っていた。


 この程度の局面はこの六年間、何度も乗り越えてきたはずなのに、なぜかドキドキが止まらなかった。

 

 くっ……、こんなことじゃ、また昨日みたいにやられちゃう。

 

 気を紛らわせようと珠代はまたマニュアルの文章を思い返してみた。





 「罠の重要性とその使い方」

 

 ラブデュエルの原案となったトレーディングカードゲームには大概何種類かのカードがあります。


 プレイヤーは巧みにそれを使い分け勝利を目指さなければなりません。


 しかしモンスターや魔法が現実に存在するわけではありませんね?


 ではラブデュエルの場合、そこから何を学べばいいのか。


 それはずばり「相手を罠に掛ける」という駆け引きなのです。


 カードゲームではお互いの「ターン」と言われる回を交互に行ないます。その時、攻守が入れ替わるわけですが、単純に一方的な攻撃と防御だけをやりあうわけではありません。


 相手の攻撃を予測し前もって場に罠を敷いておけば相手の攻撃を防げるばかりか、カウンターの一撃を相手に加えることが出来ます。この「予測」と「準備」こそ勝ち負けに直結する要素であり、あなたには相手の「予測」を上回る戦略が必要と……。





「鈴村さん、あの、ちょっと……」

 

 突然後ろから声を掛けられ驚いた珠代はもう少しで声を上げるところだった。

 

 なぜこの男は人が考え事をしている時などタイミングの悪い時にばかりぬうっと現れるのだろう? 収まりかけたドキドキが加速しちゃったじゃないか。


 ……待てよ、まさか、わざとなのか? これが鉾本の戦略?

 

 珠代は出来るだけ平静を装いながら、にこやかに振り返り返事をした。


「はい、何でしょう?」


「あの、この書類ね、さっき出してもらった奴なんだけど……」

 

「はい、それが?」


「ここね、ほら、昨日と全く同じ間違いを……」

 

 よし、掛かった!


 珠代は密かに心の中でガッツポーズを上げた。これは昨日のような「うっかりミス」ではない。昨日のミスを逆手に取った「わざとしたミス」なのだ。今日、鉾本へ回さなくてはいけない書類があったのを思い出した珠代が仕掛けた罠だった。昨日の今日だ、鉾本が気付かないわけがない。


「あっ、ああ、ご、ごめんなさい! 私、また同じミスを! ああ、どうしよう!」

 

 自分でも少し臭い演技だとは思ったがこれくらいが丁度いいことを珠代は経験から知っていた。本当にパニックになった人間は意外とオーバーアクションになるものだ。


「本当にすいません。折角任せて頂いた仕事なのに……」

 

 珠代は少し涙ぐんで見せた。研修中に身に付けた得意の嘘泣きだった。


「いや、あの、責めているわけじゃないよ。そんな泣く程のことじゃ……」

 

 予想通り、鉾本はオロオロし始めた。


 よし、これはチャンスだ!


「いえ、私、まだまだ自分に甘いのかも知れません」


「い、いや、あのね、次に注意さえしてもらえばいいんだよ」


「あの、鉾本さん、お願いがあるんですけど」

 

 珠代は今日勝負を掛けるつもりだった。


「何ですか?」


「少し相談に乗って頂けませんか? あの、手順とかそういう事だけじゃなくて仕事に対する心構えとかも含めてちゃんと教えて頂きたいんです。今日、仕事が終わってからどこかで会えませんか? 二人で」

 

 いくら鈍い鉾本でもこう言われれば色々妄想するに違いない。だが気弱で真面目な彼のことだ、結婚しているのに女性と二人きりでは会うのはさすがにまずいと言ってくるだろう。


 そう、そこからは珠代にとって腕の見せ所だった。例えば、和紗さんも誘ったからと安心させておいて、いざとなったら彼女の都合が悪くなったと言って強引に二人きりになる、など幾つかのパターンをすでに用意してあった。

 

 さて、どう来る?


「わかりました。じゃあ、この前みんなで行った店で良いですか?」

 

 ……へっ?

 

 予想外な鉾本の答えに珠代は思わず固まった。それは珠代の分析した鉾本の性格からしてありえない答だった。最初は間違いなく断ってくると思っていたのに、こうも簡単に誘いに乗ってくるなんて……。それとも自分が過大評価していただけで鉾本はそういう軽い男だったのか?


 混乱して考えがまとまらなかった。ひょっとしたら罠に掛けられているのは鉾本じゃなくて自分の方なのか? 珠代は昨夜の早希との会話を思い出した。

 

 凄腕の対プロ専門プレイヤー。

 

 もし鉾本がその対プロだとしたら自分には勝ち目がないかも知れない。珠代は震えを外に出さないように必死に押さえた。例えそうだったとしても「あなたは対プロなんですか?」なんて聞くわけにはいかないのだから素知らぬ振りで戦うしか無いのだ。そう決意した珠代は鉾本の挑戦を受けて立つことにした。


「……ありがとうございます。じゃあ、そこで待ってます」


「うん、じゃあ、後で」

 

 書類を置いて自分の席へ戻っていった鉾本を見送りながら珠代は「ふう」と小さく溜息を吐いた。頼ってはいけないと思っているのにふいに早希の顔が頭に浮かんでしまった。

 

 まだだ! まだ、私は負けたわけじゃない。


 戦って、負けて、頼るのはそれからだ。

 

 そう思った珠代は決戦に向けて目の前の「仮の仕事」を猛烈に片付け始めた。





 雰囲気の良い居酒屋。珠代は新人歓迎という名目でこの前この店に来たばかりだった。まとまった数の派遣社員が入るとよく使われる店らしい。


 店員に待ち合わせだと伝えて個室に案内してもらった。この間来た座敷の方とはだいぶ違う雰囲気の良い部屋だった。勝負を掛けるにはうってつけの場所かもしれない。この後どんな展開が待っていても引かずに戦おう。それだけを決意し珠代は鉾本を待った。

 

 ところが三十分が過ぎ、一時間が経っても彼は現れなかった。さすがの珠代も苛々してきた頃、本人ではなくメールだけがそこへやってきた。


 (帰り際に取引先から緊急の電話があり抜けられなくなりました。連絡が遅くなって申し訳ありません。今日はもう行けそうにないのでそこのお代は私のツケにしておいてください。ではまた明日)

 

 珠代は呆然とそれを見つめた。やっぱり罠に掛けられていたのは自分の方だったのではないか、そんな気がしてきた。ひょっとしたらこちらの強い決意を感じ取り勝負を避けたのか? 相手の罠を利用してより巧妙な罠に掛ける。かなりの巧者の作戦だ。

 

 一筋縄ではいかないのね……。

 

 大きな溜息を吐いた珠代は「気にしないでお仕事頑張って下さい。お先に失礼します」と鉾本にメールを返し店を出ることにした。もちろん会計は自分で払った。こんな所でつまらない借りを作りたくない。変な意地があった。


 それから一体どこをどう歩いたのか、気が付いた時、珠代はもうラブマジシャンが入っているビルの前に立っていた。そういえば尾行を巻くための後方確認はしただろうか? 自分でも気付かないうちにすっかり頭に血が上っていた。鉾本の担当になってから調子が狂いっぱなしだった。


「……こんなんじゃ駄目だ、しっかりしろ、しっかりしろ」

 

 珠代はエレベーターの中で反省しながらぶつぶつ自分に言い聞かせた。


 オフィスに入り自分の席に荷物を置くといつものようにボズへの報告へ向かった。ところが部屋の前まで来ると女性の泣き声のようなものが聞こえるのに気が付いた。一瞬、珠代は躊躇った。しかしボズが無用な遠慮を嫌うタイプであることを知っていたので思い切ってドアを開けてみた。


「おいおい、少し冷静に……、おっ、たまちゃん! いい所に来てくれたよ。困ってたんだ」

 

 珠代の顔を見るなりボズがそう言ってきた。彼の机の前には俯いた女性。ひっくひっくと声が漏れていた。泣いているのは明らかだった。


「どうしたんですか? あれっ、ピカちゃん? どうしたの?」

 

 珠代がそう声を掛けると彼女は顔を上げ振り返った。まだ幼さの残るその顔は涙で化粧が流れぐちゃぐちゃになっていた。


「た、珠代せんぱーい!」

 

 そう言って彼女は突然抱きついて来た。泣きじゃくる彼女をなだめながら珠代は思い出した。


 そう言えばあの頃もよくこんな風に彼女をなだめたっけ……。

 

 「ピカちゃん」こと増岡光は三年前にこのラブマジシャンに入ってきた。そしてその時、教育係を任せられたのが珠代だったのだ。


 それまでただただ必死に自分の実戦任務をこなすだけだった珠代は初めて新人への指導という仕事を任せられた。それからも何人かの指導を受け持ってきたが、あの時、互いに「先生と生徒」という立場の違う新人同士だったこともあり、後輩たちの中でも光とは一番仲が良かった。


「ボズ、何があったんですか?」

 

 光が泣いてばかりいるため珠代は所長に聞いた。


「……ピカの担当していたターゲットの恋人がね、騒ぎを起こして病院に運ばれた」


 「えっ」と言ったまま珠代は絶句した。抱き締めた腕の中の光がピクリと反応した。


「男がピカに対して本気になり過ぎたらしい。ピカとのデートが彼女にばれて喧嘩になってしまったようなんだが、その時、男が彼女にかなりひどいことを言ったみたいなんだ。はっきりはしないが『おまえなんか元々愛してない』みたい感じのセリフを口走ったらしいな。彼女は泣きながら帰ってしまって、そして……」


「それでその彼女の容態は?」


「幸いにも家族が早く発見したおかげで一命は取り留めた。しかし大騒ぎだよ。依頼人がさっきものすごい剣幕で押しかけてきてね。自分が彼女と男を別れさせろって頼んだことなど棚にあげて暴言の嵐さ。ピカもずっとこんな状態で参ったよ」

 

 心底疲れたといった表情で所長は溜息を吐いた。珠代が初めて見る顔だった。


「珠代先輩……」

 

 胸の中の光が搾り出すようにそう言った。


「なに? ピカ」


「私、会社辞めます」


「えっ、ちょっと、待って……」


「私、最近仕事がうまくいってなくて焦ってたんです。それでつい強引にターゲットを誘ってしまって……。もっと時間を掛けて相手の彼女の様子を確認しながら進めていればこんなことにはならなかったんです。先輩にはあんなに丁寧に指導して頂いたのに私にはやっぱり才能がなかったんだと思います」


「そんなことないよ。全部が全部いつもうまくいくなんてことないんだから」


「先輩、私、天狗になっていたんです。人の恋人を奪う仕事をしておきながら、奪われる人間にも責任はある、きっと心のどこかでそう思っていたんだと思います」

 

 その言葉に珠代はどきっとした。自分に言われたような気がしたからだ。


「今回、私、すごくショックを受けました。受け止められないくらいのショックです。それで、私、自分に覚悟が足りなかったってことに気がついたんです。人の人生を狂わせるかも知れない仕事に就いている、それをわかっているつもりになっていただけで実は全然わかってなかったんです」

 

 すっと光が珠代から離れた。まだ涙は浮かんでいたがその眼はまっすぐだった。


「珠代先輩、ありがとうございました。あなたから学んだこと、一生忘れません」

 

 珠代にそう言った後、彼女はくるりと振り返り、ボズに向かって深々と礼をした。そのまま部屋を出て行った彼女に珠代は何の言葉も掛けられなかった。


「……ボズ、どうするおつもりなんですか?」


「あの様子だと決意は固そうだな。少し休ませて様子は見るが、最悪、事務職の方に移ってもらうかもしれん。それだって実戦部隊を陰で支える重要な仕事だ。彼女のこれまでの経験も生かせるし」


「……そうですか」


「ラブデュエルのシステムが開発されてから数十年経つわけだが、こういうトラブルはどうしても起こってしまうものだ。恋愛感情を点数化することで互いが冷静に嘘偽りのない関係を深められる、それがこのシステムの売り文句なんだが、なかなかそうもいかないのが人間というわけだな」


「……はい」

 

 ボズの言葉が今の珠代には痛いほどわかっていた。


「ああ、そうだ、それでお前さんの戦況は?」


「あっ、はい。今日は二人で会う約束をしていたんですが逃げられたみたいです。すいません」


「そうか……。一応聞いておくが、君は引くつもりないんだろう?」


「えっ」


「相性というものがあって、それが相手に好意を与える時にかなり重要な要素なのは君も知っているだろう? いくら君ほどの腕利きでもどうしても合わない相手は存在する。勇気ある撤退は決して恥ずかしいことじゃない」


「もう少しだけ任せてもらえませんか?」


「君ならそう言うんじゃないかと思っていたよ。ただし依頼人の都合もある。ギリギリまで待つが強制的にチェンジということもあると覚悟だけはしておいてくれ」


「ありがとうございます」

 

 その短い言葉にありったけの感謝を込め、珠代は深々と礼をした。ボズは何も言わず大きく頷いてくれた。

 

 部屋を出るともう光の姿は見当たらなかった。


 人の人生を狂わせながら自分の人生も変わっていく。


 そんな仕事をしていることを改めて珠代は確認することになった。

 

 自分は鉾本の何を変え、それで自分の何が変わるのだろう?

 

 何が起ころうと光の分まで戦おう、そう珠代は心に決めた。






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