第6章 太陰三山
第91話 小春 二
「見えてきた。あれが御山だ」
ピーヨロロと、一羽の鳶が青い空の下を滑るように飛んでゆく。鳶が、ゆっくりと翼を動かして向かう先にそびえるのは、周囲の山より一回り高い緑青色の山。葵はその山を指差した。
「あれが、葵の故郷なのね」
葵の指先に目を向けながら、沙羅が感慨深そうに言った。その隣で、九尾が興味なさそうにフンと鼻を鳴らす。
「またこの地に来ることになるとわね」
京介が眩い太陽の光に目を眇めつつ、御山を見上げて呟いた。
「京介は御山に行ったことがあるの?」
沙羅が尋ねると、京介は「いいや」と首を横に振って否定した。
「山に入ってはいないよ。僕が行ったのは、麓の村までさ」
「へえ」
「京介とは、その村で会ったんだ」
京介の言葉に葵は一言付け加える。
「そこで紫紺のことを知って、京介と旅をすることになった」
「そうだったのね」
葵は、当時のことを思い出していた。
紫紺の襲撃により、御山の天狗の里は壊滅的な被害を受けた。そして葵は、頭領から紫紺のことを探るよう密命を受けて、一人御山を下りた。そして、その先で小春と出会い、京介と会ったのだ。まだあれから半年も経っていないはずだが、随分と前の出来事のように思えて仕方がない。それはきっと、御山を下りてからいろんなことがありすぎたからだろう。様々な人やあやかしとの出会いが。
葵は、自分のそばに寄り添うようにして立つ、京介、白虎丸、沙羅、九尾の姿をふと見つめた。彼らは、大切な旅の仲間だ。共にいろんな苦難を乗り越えてきた、大切な仲間。寝食を共にし、今や家族と云っても差し支えないくらいの存在になってきている。葵にとって、家族は御山の天狗たちなのに、他にもそう呼べる存在ができたことが、なんだか不思議だった。
「……葵、さっきから何おいら達のこと見てんだよ」
京介の肩に乗っていた白虎丸が、目敏く葵の視線を捉えて意地悪そうに声をかけてきた。その声に、他の三人もなんだといった風な顔で葵の方を見てくる。
「はあ?なんでもねえよ。うるさい」
家族みたいなものだな、なんて思いながら見つめていたなんて言えるわけがない。葵は恥ずかしそうにそっぽを向いた。それから、「ほら、立ち止まってないで、とっとと行くぞ」と声をあげて、先に立って歩き出す。
「あ、待ってよ」
沙羅が声を上げて葵に駆け足気味についてくる。京介と九尾は後ろからのんびりと。
一行がしばらく道を歩き森を抜ける、と麓の村が見えてきた。おそらく、御山を降りて初めて葵が足を踏み入れた村だ。あの時は青々とした田園が広がっていたが、今は収穫の時期が近づいてきているのか、頭を垂れる稲の穂先にはほのかに黄色味を帯びてきた種籾がたわわに実っている。
「ここはなんという村?」
沙羅が、視界を彩る稲穂に目をやりながら何気なしに葵に尋ねた。だが、尋ねられた方の葵は答えに窮す。だって知らないのだから。
「村の名前……?そういえばなんていうのか考えたこともなかった」
「本当に何も知らないのな。天狗共の世間知らずさが目に見えるようだ」
「なっ……」
クククと九尾が意地の悪い笑い声をあげる。葵は抗議の声をあげよとするも、事実天狗は、他のあやかしから自分の山に閉じ籠って世間知らずだなどとの誹りを受けているのは知っているので、何も言い返せない。というか、御山を出てから自分がどれほどこの国のことを知らなかったのかを突きつけられた今となっては余計に何も言えない。
悔しげに口を閉じる葵を見て、沙羅が「ごめんなさいね……」と申し訳なさそうに謝った。沙羅の質問に悪気がないのは明白なので、彼女自身は何も悪くないのだが。
「葵の代わりに僕が答えようか」
京介がクスクス笑いながら口を挟んだ。なるほど確かに京介なら知っているだろう。少しでも御山周辺の地理を覚えようと、葵は京介の言葉に耳を傾ける。
「ここは千歳村という名の村。御山の、人間たちの呼び名と同じ名前だね。皐月領の南部に位置する村だよ」
「皐月領……。御山もその領内にあるのか?」
「うん、そうだよ。御山は、人間の世界では皐月領の千歳山ってことだね。」
葵にとって、今まで御山は御山であり、その御山を守るのが山神様で、統治するのは他ならぬ頭領だった。御山も、人間たちが定めた領内にある山なのだという認識はしたことがなかった。赤ん坊の頃からずっと育ってきた御山。今でも大好きな故郷であることに変わりはないが、随分と小さな世界だったのだと不思議な感覚になる。
「皐月領……。母上の縁戚の方がいるところだわ……」
顎に手を当て、沙羅が何やら呟いた。
「知り合いがいるのか?」と葵は尋ねたが、沙羅は「知り合いというわけじゃないわ。会ったことはないもの」と首を横に振る。
その時、「あーっ!!」とちょっとびっくりするような大声が聞こえてきて、葵は思わず飛び上がった。
「え、何!?」
沙羅も驚いた様子で周囲をキョロキョロしている。
「天狗さん!!」
田んぼのあぜ道を、十三、四歳ほどの少女が凄まじい速度でこちらに向かって駆けてくるのが葵の視界に入った。農作業中だったのか、赤色の小袖の裾を足まで手繰り上げており、白い太ももがあらわになっている。
「小春…!?」
見覚えのある少女の姿に、葵は思わず声をあげた。御山を下りて葵が知り合った初めての人間だ。
小春は突進するような勢いで迫ってくると、葵に抱きついた。
「のわっ」
強烈な出迎えに姿勢を崩しかけたものの、葵はなんとか地面に踏みとどまる。
「天狗さんなのよね!本物?本物?」
相変わらず明るく元気な性格は健在のようだ。葵の体から離れた小春は、目をキラキラさせながら葵を見上げてくる。葵は、小春の視線の高さに合うように少し腰をかがめてそれに答えてやった。
「ああ、俺だよ。ちょっと帰ってきたんだ。旅の目的は……まだ果たせてないんだけどな」
「あら、そうなの。でも大丈夫よ。天狗さんなら、旅の目的はちゃんと果たせるはずよ」
屈託のない彼女の笑みを見るに、葵ならできると本気で小春は思っているようだ。なんだかそれに元気付けられて、葵は「ああ」と頷いてみせた。
それから、小春は葵の周囲にいる京介たちに目を向けた。
「えっと、あなたは、都から来ていた人ね。天狗さんと一緒に、弥彦をあやかしから助けてくれたんだっけ」
小春に話しかけられ、京介も彼女のことを思い出したのか「ああ、君は」と声をあげた。
「葵に随分と懐いていた、村の女の子だね」
「ええ、小春っていうの。ところで、あなたの肩にいる猫ちゃん?すごくかわいい。変わった模様をしているのね」
思いっきり小春に猫と勘違いされて、白虎丸はとんでもない渋面を作った。だが何も言わない。多分喋って驚かせないように気を使っているのだろう。
「えっと、この二人は?」
小春が沙羅と九尾の姿を見上げて尋ねた。
葵は小春に二人を紹介してやる。
「彼女は沙羅。こっちは九尾。旅の途中に会って、以来一緒に行動してるんだ」
「へえ。天狗さんの仲間かあ」
「初めまして、小春ちゃん」
沙羅は腰をかがめて、小春に微笑みかけた。小春も笑いかえす。
「こちらこそ初めまして。……お姉ちゃん、美人ねえ」
「え!?」
沙羅は自分の頰に両手を当てた。
「な、お、美人だなんてそんなっ。お世辞がお上手ね小春ちゃんは」
「お世辞?嘘じゃないよ」
小春はキョトンとした。
「お姉ちゃん、すごく美人よ。この辺じゃあ、まず拝めない顔ね」
ね、の言葉と同時に、小春は得意げに片目を閉じる。
「お姉ちゃんは美人だって、私が請け合うわ。あーあ。私もお姉ちゃんみたいな美人さんになりたいなあ」
「美人?こいつが?」
九尾がしかめ面をして、沙羅の顔を覗き込む。
「な、何よ。そんなに人の顔を覗き込まないで」
九尾はイマイチわかっていないようだが、小春の見立て通り、沙羅はなかなかに美人じゃないかと、葵も密かに思っていた。深窓の姫君のような優雅で淑やかな美しさはないが、彼女からは野山に咲く山桜のような、生命力と意志の強さを示すような力強い美しさがある。
「あなたがきゅうびさんね。きゅうび……、変わった名前ね」
小春は、首を傾げながら今度は九尾の方に興味を示した。
「人間が勝手につけた名だ」
「人間?まるで自分が人間じゃないみたいな言い方をするのね」
小春がそう言うと、九尾は「人間じゃないからな」とあっさり暴露した。九尾のその言葉に、小春は驚いた様子で目を丸くする。そんな小春の顔を面白そうに見て、九尾は意地悪そうに口角を上げる。
「九つの尾を持つ狐の物の怪。それが俺だ」
「物の怪……、あやかし……?」
小春はしばし九尾の発言を咀嚼してからハッと目を見開いて、自分より身長の高い九尾の顔を見上げた。
「それ……、すごい、すごーい!」
途端に目をキラキラとさせ始めた小春の熱量に、九尾は面食らった顔で後ずさった。
「狐?あなた狐のあやかしなの?うわーすごい。え、本当なのよね、嘘じゃないわよね」
後半の問いは半分葵に向けたものだった。小春に視線を投げかけられ、葵は「嘘じゃねえよ」と答えてやる。
「そいつの正体はでっかい狐のあやかしだ。空飛んだりできる」
「え!空飛べるの?」
「あと火を出したりとか」
「なにそれ!?見たい」
小春は期待の膨らんだ目で九尾を熱心に見つめ出す。九尾は迷惑そうに眉をひそめて、「見せん」とバッサリ切り捨てた。
「ええええ!なんで。減るモンじゃないでしょう?」
「うるさい」
「はあ!?」
それから、九尾は小春に目もくれずにスタスタと先に歩き出してしまった。
「私怒らせちゃった?しつこすぎたかな」
九尾の後ろ姿を見つめながら、小春がしょんぼりした声でぼやいた。それを聞いた沙羅が、「違うと思うよ」と彼女に声をかける。
「九尾はね、自分はあやかしだぞって言って、あなたを怖がらせようとしたのよ。でも、予想に反して小春ちゃんが全然怖がってくれなくて、むしろ嬉しそうにしたのが気に食わなかったのよ」
「そうなの?私を怖がらせたかったの?」
「ええ、多分」
「それで拗ねたのか。以外と子供っぽい奴だな」
一向に立ち止まる気配を見せない九尾の背中を見やり、葵は呆れてぼやいた。その隣で京介が困ったように首を傾げる。
「どうする?あれ多分言っても九尾は止まらないだろうし」
「追いかけるか」
やれやれとため息を吐いて、葵は言った。それから小春の方を振り返る。
「ごめんな。あんま長居できなくて。俺たちは今から御山へ行かなくちゃならないんだ」
葵の言葉に、小春は「そっか」と素直に頷いた。
「じゃあ、元気でね。天狗さん。私も仕事の方に戻るわ」
葵たちに手を振ると、小春は元来た道をまるで小鹿のように駆けていった。
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