9話:依頼(②)

 ◇


 キーンコーンカーンコーン……。

 キーンコーンカーンコーン……。


 チャイムの音に目を覚ます。そこは部室だった。黒板の上の時計を見れば現在八時二十五分。集合時間とされていた八時二十分の五分後――いつも八時三十分から始まる授業の予鈴とともに、僕は「世界の交差」から帰ってきたようだ。

 

 下校時刻のチャイムじゃないのは、佐伯がそのように「運命づけた」からだろう。


 はっとして席を立つ。慌てて部室を見渡すが、佐伯の姿はなかった。僕より早く起きたのだろうか、それとも別の場所で「世界の交差」を起こしたのだろうか。「運命ゼロ」の力の一部を使用することができるあいつのことだから、もっと特殊な条件で「世界の交差」を起こすことができるのかもしれない。しかし、そんなことはもうどうだってよかった。僕は机の上の鍵を引っ掴むと、多目的教室の後ろ側の扉を開いた。

 ぶわ、と風が吹きつけてくる。足元には僕が脱ぎ散らかしたローファーがある。僕はそれを突っかけ、外階段を駆け下りる。加速していく。


 佐伯は「特別」だった。そして、「普通」の僕のことを見下している。


 残りの数段は飛び降りた。そして校舎へと走る。早めにホームルームを終えたであろう生徒たちが、渡り廊下の辺りをうろうろし始めている。

 こんなことを考えたって意味はない、時間の無駄だと割り切ろうとしても、佐伯に対する暴言が止まらない。むかむかして気分が悪くなるのは僕だけなのに、いらつきも、悔しさも止まらなかった。それをわざわざ言葉に変換してしまうことも止まらない。走りながら、頭の中は佐伯への汚い怒りの言葉に侵食されていくようだった。

 僕は佐伯のことが嫌いだ。あいつは「僕」のことなんかどうでもよくて、「普通」のやつらと同等に扱う。いや、それは牧田先輩や尚人先輩だってそうだったけど、佐伯が明らかに二人と違っているのは、あいつは「普通」の人間たちに対して舐めた態度を取るところだ。

 あいつは「普通」の世界で何かが起きても、「特別」な力でなんとかすることができる。「普通」の人の言っていることなんかどうでもよくて、「特別」な世界に生きる人にしか関心を持つことができない。「普通」の人には理解できないかもしれないし、ショックを受けさせてしまうかもしれないことについては、「特別」をよくわかっている僕が優しく丁寧に教えてあげる。そんな傲慢さが、佐伯の言動には滲み出ていた。そして佐伯の論理はそういった「自分が『特別』である」という無意識の傲慢さの上に成り立っているため、時々致命的に破綻する。そして反感を買う――野々上や、僕のように佐伯のことを「普通」だと思っているやつらから。

 はっきり言って、佐伯は「普通」に過ごしていたら、他の「普通」のやつらと比べても劣っている方だと思う。成績だっていい方じゃないし、運動だって一般的なレベルだろ。元気に優しく振る舞っているけど実際は「普通」のやつらを見下してるから思わぬところで失言をするし、それを取り繕うことができるほどの弁論術も持っていなければ、自分が失言をしたという自覚も反省も学びもない。「普通」のやつらの顔を見て話さないからだろうな、と僕は思う。「世界の交差点」で、あいつが僕の目を見て話すときは、自分の要求を僕に押しつけるときだけだった。その要求が通るか通らないかだけ気にして、強く願えば叶うと信じて、一方的な期待を寄せた。……本当に気色が悪いし、佐伯のそういった根本的な思想すべて、行動の一つ一つに反吐が出る。


 しかし、そんな佐伯がわざわざ「普通」の僕に依頼したいことって何だったのだろう。


 八時三十分からのホームルームには少し遅れたが、他にも遅刻したクラスメートが何人かいたためそんなに目立たずに席に着くことができた。そしていつもより短めのホームルームを終えると、クラスメートたちは各自で体育館に移動する。

 渡り廊下を歩き、体育館に入って、自分のクラスのパイプ椅子に座ってからも僕は考え事をしていた。体育館のパイプ椅子はすでに半分以上が埋まっていて、開会までのわずかな時間さえ利口に待てないやつらが雑談に興じている。普段であればそいつらの野蛮さとうるささが不快でしょうがないはずだが、不思議と今日はどうでもいい。そう思っているうちに体育館の照明が落とされる。弁論大会が始まるようだ。


 佐伯には、自分では変えられない「運命」があるらしい。それは、佐伯やマスター、そして播磨の運命だと言っていたはずだ。


 三人には何らかの「運命」的な繫がりがあるのだろうか。「世界の交差」という着眼点から、三人の関係を整理しよう。

 まず、佐伯とマスター、もとい古壱うたぎには血縁関係がある。マスターは従兄弟である佐伯を利用するべくコンタクトを取った。そのため、彼らは現在「世界の交差」の管理人と、その手先である(と言ったら牧田先輩は怒りそうだが)創作部の書記という関係にある。この関係は佐伯が中学生の時から続いていた。

 しかし、播磨はどうだろう。播磨と佐伯は、小学生の頃から同じクラブに所属していて知り合いだったようだが、そこに「世界の交差」を通じた繫がりはあっただろうか。いや、これは完全に僕の勘だが、播磨自身は「世界の交差」の関係者ではない気がする。確かに播磨は俗に言う天才で、かつ親しみやすく他人に愛されるという絵に描いたような完璧超人だ。しかし牧田先輩や尚人先輩、そして佐伯とは少し毛色が違う感じがする。播磨は「普通」の世界、Rの世界というクソくだらない常識の世界で特別に優れた人間なだけで、彼が別の領域にある世界、つまりLの世界の存在を知り、頻繁に関わっている「特別」な人間かと言われたら違うと感じる。


 もしそんな播磨に、マスターや彩記と関わる出来事があったとするならば。


 その時、僕の目線がステージに「上げられる」。


 舞台袖から、ちょうど播磨が現れるところだった。僕の視線は彼に釘付けになる。播磨はステージ中央の演台まで行くと、ほんの少しだけ間を置く。そして一年生から三年生までの視線をすべて引き受けると、播磨はいつもの気さくそうな笑みを浮かべて、堂々とお辞儀をした。体育館に拍手の音が鳴り響く。

 播磨に何かがあったとしたら、この夏休みの間だったんじゃないだろうか。播磨のスピーチを聞きながら、僕は考えることを再開する。

 理由としては、今まさにそうなったように、僕が播磨に対して不思議な違和感を持つようになったのが二学期に入ってからだからだ。初めは単純に、彼が人目を集めやすいというか、そういうオーラを放っているから僕も気になるのだと思っていた。しかしこの抗いがたい力の働きは、きっと佐伯の「運命」のノートによるものなのだろう。おそらく佐伯はあのノートに「鏡味巴は播磨が近くにいる間、その様子に注目する」などの文言を書き込み、僕の行動を「書き換えて」いるに違いない。だから僕は自分の意志と反する行動をしてしまうことに対して「違和感」や「嫌な感じ」を覚えるのだと思う。

 佐伯が僕に接触してきたのも二学期からだし、播磨や佐伯に何かがあったのはこの夏休みの間だと結論づけてしまってよいと思う。となると、「何」があって佐伯が僕に対してこのような接触をしてきたのかが気になってくる。

 僕が思考している間、播磨はゆったりとした低い声で、時々身振り手振りを交えながら全校生徒に語りかけていた。誰もがその堂々とした演説に見惚れ、耳を傾け、心を奪われている間、僕は自分を支配する嫌な感じのせいでまったく話の内容に集中することができない。これも佐伯が仕組んだことなのだろうか。そう思うと癪だが、考えを巡らせることを邪魔されるのに比べたらまだマシかもしれない。

「播磨の運命を変えてほしい」と佐伯が依頼するということは――播磨は「サインイン」していないんじゃないだろうか。なぜなら佐伯は、サインインを済ませた人間の運命をゼロのノートで書き換えることができるのだから。

 でも、佐伯は播磨ではなく僕の運命を書き換えることによって状況を打開しようとしている。それは佐伯がゼロのノートによって、播磨の運命を書き換えることができないからだ。だとすれば――もし佐伯が自力で播磨の運命を変えようとするのであれば――佐伯は播磨に「サインイン」さえさせてしまえばいいんじゃないだろうか。サインインのやり方は、僕が初めて創作部を訪れたときに行った通りだ。創作部部室――多目的教室の黒板に、チョークで名前を書くだけでいい。

 もしそうであれば、佐伯が僕に頼みたかったことって播磨を創作部に勧誘することなのだろうか。いや、そうとは思えない。だって佐伯が頼みさえすれば、あの播磨は二つ返事で佐伯の言うことを聞くだろう。


 その時、体育館に再び拍手が鳴り響く。意識を引き戻すと、ちょうどスピーチが終わって播磨がお辞儀をするところだった。隣にいるやつも前の方に座っているやつも、男子も女子も先生も、みんなが播磨のスピーチに拍手を送っている。どいつもこいつも夢中になって、興奮しながら、壇上の男に視線を注いでいた。顔を上げた播磨はやはり堂々としていて、自信に満ちた笑顔で応じている。近くに座った女子が「かっこいい」と言うのが聞こえた。

 そう、播磨はきっと、誰の目から見ても完璧で、かっこいいやつだ。そんな播磨のどこに、「運命」を変える必要があると言うのだろうか。もしかしたらまた佐伯が勝手に突っ走っているだけかもしれない。お節介をしているだけかもしれない――と思ったその時、僕は播磨がある一点を見つめていることに気がついた。


 視線の先を辿るように振り返れば、佐伯がいた。

 佐伯は拍手をする手を止め、怯えたような表情をしている。


 もう一度ステージの上に向き直る。播磨は佐伯に向かって「笑いかけて」いた。こんなに大勢の人間がいるから気のせいかもしれないが、播磨は佐伯にだけ特別な笑顔を向けているように見えた。

 しかしそれはほんの一瞬のことで、播磨はもう一度礼をするとステージを去っていく。観客たちはまだ興奮覚めやらない様子で口々に感想を言ったり播磨のすごさを語り合ったりしていたが、佐伯はまだ青ざめたままで、誰もいなくなったステージを見つめていた。

 佐伯が播磨に対して怯えたような態度をとる理由。そして、佐伯のコントロール下にいないにもかかわらず、播磨が佐伯に対して特別な感情を向ける理由。

 きっと、それらは佐伯の依頼を受ければわかったかもしれないことだけど、僕には関係のないことだ。僕は佐伯からそれを聞くことを拒んだし、暇つぶしの材料として考察をすることはあっても、本当のことを知りたいとも思わない。だって、それって僕の物語にまったく関係のないことだし。

 今持っている情報を一通り整理し終えた僕は、満足してパイプ椅子に座り直した。播磨の次に登壇したのはうちのクラスの野々上だった。普段から真面目で論理的な考え方をする野々上のスピーチは面白く、話し方も軽妙で、想像よりもずっと盛り上がった。結局一年生のスピーチは、一位が播磨、二位が野々上となった。別に自分が賞をもらったわけでもないのに、僕は野々上の二位受賞に少しだけ満足した。クラスメートたちは、教室に戻ってから野々上のことを称えまくった。


 ◇


 第一祭の二日目は文化祭だ。今日も引き続き佐伯と関わらないようにしようと決めていた僕だったが、その必要はないようだ。

 僕たち一年E組は三年E組の教室を借りて、モザイクアートの展示をしている。今日は一年生のフロアである四階は封鎖するらしく、一年生の荷物、そして三年生の教室にあった机や椅子、教卓等はすべて一年生の廊下に移動させていた。弁論大会の後、一年生はクラス総出で運ばされたのだ。

 教室の展示の様子としては、教室の前黒板に特大サイズで作った学校の正門の、窓側の壁に後から作ったロボットのモザイクアートをそれぞれ貼っている。想像どおりいまいち統一感はないが、モザイクアートの貼られていない壁や隙間の余白を埋めるように切り絵や折り紙を飾っているため全体としてなんとなくにぎやかな雰囲気になっていた。これらの切り絵や輪飾り、モビール風に垂らされた花や動物は、昨日の放課後に残ったやつらで余った折り紙を使って制作されたらしい。きっと看板班の女子たちによるものだろう。

 後ろの壁と廊下側には、休憩のための椅子をいくつか並べている。「見に来てくれた人が座りながら、のんびり作品を鑑賞することができるように」という建前で置かれているが、本当のところは「見張り当番が楽できるように」というE組らしく小賢しいアイデアから設置された椅子である。教室には何人か見張り役の生徒が残り、来訪者が作品を破ったり持ち帰ったりしないように見張りをすることになったのだが、僕はその見張り番、もとい椅子の恩恵をしっかりと受けていた。並べられた椅子の一番端を陣取った僕は、文化祭の一般公開が始まり自分のシフトの時間が終わってからも、教室を出ずにぼーっと人間観察をしている。


 佐伯のシフトは十四時からと言っていた。

 シフトは今朝決めた。僕は何とかして佐伯とシフトをずらそうと思っていたが、めずらしく佐伯が「十四時からの一時間だけでいいかな」なんて宣言したものだから、僕が気を遣ってずらす必要はなくなってしまった。見張り番は部活等で忙しい人はやらなくてもいいことになり、僕は「やりたくない人はやらなくても大丈夫」という文言があるため佐伯は率先して引き受けると踏んでいた。しかし佐伯はなぜか十四時からの一時間だけを予約すると、「ごめんね、他の時間は用事があって……」と申し訳なさそうに言っていた。

 そのことを責めるやつはいないし、何より僕にとっては都合がいいので僕は佐伯の意見が通るところを静観していた。まあ、よく考えなくても文化祭なんだから、佐伯もいろいろ見て回りたいよねなどと納得した。自分にとって都合がいいことについて、わざわざ思考を巡らせる必要はないだろう。

 そういうわけで、僕は佐伯が教室にいるという十四時から一時間の間だけは外でぶらぶらして、それ以外の時間はずっと教室にいることにした。見に行きたい展示があるわけでもないし、かといってうろうろ歩き回るのも疲れるし。それより、ここで座って人間観察をしている方がずっと気楽で落ち着く。僕は自分の意志で、自分で選択してこの椅子に座っていた。


 一日目の弁論大会と違い、文化祭と体育祭が開催される二日間は学校全体が一般向けに開放されている。そのため、老若男女という四字熟語はこういう時に使えばいいのかと思うくらい、いろんな人が校舎や学校の敷地内を歩き回っていた。そしてその中のいくらかが、僕たちのクラスにも入ってくる。

 僕が見ている限りでは、小さい子にはロボットのモザイクアートやそこかしこに貼られた切り絵が、ある程度年齢が上がってくると正門のモザイクアートが受けているようだ。たまに小さい子どもが「これ、何のロボット?」なんて親に質問して困らせたり、おじいさんおばあさんたちが校門のモザイクアートの前で「懐かしいね」などと言いながら思い出話をしたりしているのを見ると、訪れてきた人たちが意外にも、ちゃんと展示を楽しんでいることに気がついて驚いた。もちろんさっと中を見て何も言わずに出て行く人の方が多数だけれど、自分たちが作ったモザイクアートの前で立ち止まって、何十分も話し込んでいる大人の姿を見ていると少し不思議な気持ちになる。校門なんてちっとも面白くないモチーフだと思っていたが、見る人によっては何か感じるものがあるのかもしれない。

 そういえば、ここは3年E組の教室だから、牧田先輩と尚人先輩の教室ってことだよな。

 僕は教室を見渡す。窓から見える景色が二階分低いだけで、一年生の教室と造りはほとんど変わらないはずなのに、なんだか別の場所のような感じがした。僕は牧田先輩や尚人先輩が、他のクラスメートたちと一緒にこの教室に入って、勉強をしたり、昼休みを過ごしたりしている姿を思い浮かべる。「懐かしいね」と、また別のグループの女性が言ったのが聞こえた。姿からして大学生とか、その少し年上くらいだろうか。彼女たちにとっては懐かしい過去であって、僕にとってはまだ先の未来のことで、牧田先輩や尚人先輩にとっては今まさにその中にいる、「高校三年生」という時間。それがこの教室という空間に、ここに通った人間の数だけ折り重なっているのだと思うと、頭の奥が鈍くなって心が遠くに行くような心地がする。

 ――私にとっても最後の学校行事だから。優勝とかじゃなくても、いい思い出になったらいいなって思うよ。

 はにかみながら話してくれた牧田先輩の言葉を、僕は思い返してみる。何度も思っていることだけど、僕は牧田先輩と出会えてよかったと思う。気障ったらしい彼女が時折見せる素直さに、僕は時々救われている。

 


「鏡味、交代」

 ぼやっとしていた僕に声をかけたのは浅野だった。その隣にいるのは黒住。二人とも両手に唐揚げだとかポテトとかが入った紙コップを持っている。まだ昼前なのに、ずいぶんと早い食料調達だ。

「交代なら別にいいよ」

「昼飯食べるだろ。ほら、食券渡すから」

「別にいいんだけど……」

 まあまあと言いながら、浅野が小さな紙切れを渡してくる。しょうがなしに受け取ると、「食券」は、紫色をした正方形の小さな画用紙だった。紫と言えばE組のチームカラーだから……とひっくり返してよく見ると、やっぱりそこには「3E」の文字が書いてある。さらに、「チャンチャラチャーハン」という謎の文字列、そして大口を開けて爆笑しているチャーハン(料理人ではない)のイラストが並んでいる。何だ、このふざけた券は。

「それを中庭のE組のテントに持って行くと、先輩たちが交換してくれるよ」

「だからいいよ。いらない。お金払うんでしょ」

 僕がそう言うと、黒住はいつもの抑揚のない声で、

「それがいらないんだよなー。ダンスのセンパイ、あ、3Eの先輩がね、『クラスの人らに配って来い!』って渡してくれたわけ。うちらはタダなんよ。オトクっしょ」

 とうっすら笑った。いつも黒住はイラついてるのか? みたいな顔をしており、感情が読み取りづらい。実はモザイクアート班の男子でそんな話になったことがあるのだが、浅野は「そういう顔なんだよなー」と言い、何やらわかったような顔をしていた。案の定、他の男子たちにからかわれていた。

「そうかもしれないけど……そもそも学生の作るよくわからないチャーハンとか、あんま食べたくないっていうか」

「鏡味って潔癖症なの?」

 浅野の隣で黒住がけらけらと笑っている。僕が突っ込もうとする前に、浅野が「なら問題ない」と僕を制した。

「それ、フツーの冷食のチャーハンだぞ」

「え、冷食なの?」

「そうそう、冷食のチャーハンを鉄板の上で焼いて、解凍~みたいな。だからうまい! 味は保証する」

「屋台ってそんなんでいいんだ……」

 椅子の上で脱力した僕の腕を、浅野が引っ張る。

「ほら、行った行った! 鏡味、放っておくと飯抜きそうだからな!」

 実際そうするか、お腹が空いたら夕方くらいにコンビニに行こうと思っていた。

「もっと食べないとぶっ倒れるよー。鏡味ってどこにも脂肪がなさそうだから」

 それは余計なお世話だろ。しかし文句を言う前に二人にまくし立てられる。

「気分転換に行って来いよ! せっかくの文化祭なんだからさぁ、ずっとこんなとこにいたら損だぜ!」

「テントは二列並んでるけど、校舎側だからー。あ、一時から体育館でダンス部のステージだから! 来ないとセンパイ命令で、その食券の代金、払ってもらうからねー」

 タッグを組んだ浅野と黒住に半ば追い出されるようにして僕は教室を追放された。振り返ればさっきまで僕が占領していた椅子に浅野が座って、黒住とポテトをつまみ合っている。

 もしかしたら二人に気遣ってもらったのかもしれないと思ったが、あれはただ落ち着いた場所で、一緒に昼食を取りたかっただけだな。まんまと居場所を奪われた僕は、騙されたような気持ちで中庭に向かう。



 なんとなく予想がついていたことだが、テントの並ぶ中庭にはとにかくたくさんの人がひしめき合っていた。まだ昼前だというのに……いや、昼前だからこそ人が多いのだろう。混雑する時間帯を避けてやってきたはずの人たちが、逆に大きな人の波を作ってしまっていた。僕もこの中を進むと思うとうんざりする。

 ちょうど太陽が真上に来ているため日差しが強い。今日は昨日よりも気温が上がって、夏に逆戻りしたかのような暑さになるとニュースで言っていた。それでも風が吹けば少しは涼しくなるはずだが、ここまで人が密集しているとそうとも言っていられない。ワイワイと騒ぎ立てながら蠢く人の群れを見ているだけで、体感気温が二度くらい上がりそうだ。

 いっそ浅野たちに食券を返そうかとも思ったが、僕は人混みの中に入っていく。まっすぐ歩くことは難しいが、人の動きに集中すれば、それなりに進んでいくことができた。僕は校舎側のテントにE組の文字を探す。

 せっかくだから、牧田先輩や尚人先輩が「最後の学校行事」に身を置いているところを見てみたいと思った。こんなクソめんどくさい、クソ不快な人混みの中にわざわざ飛び込んだ理由はそれしかない。多目的教室や、時には職員室などで「創作部」の先輩として、「特別」な存在として僕の前に現れる二人が、「普通」に高校生をしている姿を見てみたかった。それが、今の僕にとって一番よく効く薬に思えた。


 三年生は、教室展示を行う一年生や二年生とは違い、食べ物関係の模擬店をするそうだ。E組の先輩たちはチャーハンだそうだが、人混みから飛び出ている看板や客引きの生徒たちの声を聞く限り、フランクフルトやワッフル、アイスパフェなど食事系からデザート系まで幅広く売っているみたいだ。浅野や黒住が持っていたような、唐揚げやポテトもあるのだろう。

 牧田先輩や尚人先輩の姿を探しながら、僕は「交代ー」と誰かが叫ぶ声を聞く。そこで初めて、よく考えてみれば、牧田先輩や尚人先輩だってシフトがあるのだから僕が行ったところで二人ともいない可能性があることに気づいた。その場合、この食券はどうすればいいのだろう。二人がいたら話しかければそれで終わりだが知らない人ばかりだったら緊張する。っていうか僕が一年E組だってことがわからないんじゃないだろうか。僕はどうやって自分がE組であることを証明すればいいのだろう。だったらさっさとお金を払って買った方がいいんじゃないだろうか。でもそうしたら、僕の「普通」の牧田先輩や尚人先輩を見たいという目的は果たされないんじゃないだろうか……。

 そんなことを考えていると、背中に誰かがぶつかる。考えることに没頭していた僕は足がもつれて、その場に倒れそうになる。

「巴くん、」

 聞き馴染みのある声とともに、肩が掴まれる。

「え?」

 何とか踏ん張ることで、こけずに済んだ。体勢を整え直して振り向くと、見慣れた人の、全然見慣れない姿があった。

 そこには頭に赤色の三角巾を乗せ、同じ赤色のエプロンをつけた尚人先輩がいた。いつもの掃除道具の代わりにダンボールでできた大きめの看板を持っており、そこには紫色のペンで大きく、「E組 チャーハンやって〼」と書かれている。

 尚人先輩は額に汗を滲ませながら、心配そうな、同時に不思議がるような目で僕の様子を窺っている。しかし僕が倒れないことを確認すると、手を離して申し訳なさそうな顔で言った。

「大丈夫? えっと……引き留めて、ごめんね」

「あ……いや、助かりました」

 僕がそう言うと、尚人先輩はようやくホッとしたようだ。三角巾をつけた彼が安心したように少し笑うと、僕も少しホッとした。というか、よくこんな人混みの中で会えたもんだ。

 そういえばと、尚人先輩に握っていた食券を見せる。

「ちょうど探してたんです。これ、交換してもらえるって聞いて」

 紫色の券を手渡すと、彼は少し驚いたような顔をした。

「待ってて」

 尚人先輩はくるりと踵を返す。待ってて、ということはここにいればいいんだろうか。ただ人混みの中で突っ立っているのはさすがに邪魔だろうし、再び尚人先輩と合流できる自信もない。僕は人混みから飛び出しているダンボール製の看板と、彼の頭の後ろで結ばれた三角巾の赤いリボンを目印にして後を追う。

 久しぶりに会った尚人先輩だけど、その妙に家庭的な服装以外は、普段と変わらなくて安心した。看板を持っていたってことは客の呼び込みだろうか。人と人との隙間からE組のテントの様子を見ると、鉄板の向こうに三年生と思われる生徒たちが立っている。彼らはそれぞれ別の柄のエプロンと三角巾をつけているので、おそらく私物なのだろう。

 鉄板の後ろに回った尚人先輩が、少し背の高い男子に食券を手渡す。食券を受け取った男子は、それを女子に回しながら、尚人先輩と何か会話をしているようだ。あれが尚人先輩の仲のいい人だろうか、と見つめていると、不意に男子がこちらを向いたのでたじろいだ。

「巴くん」

 僕がまごまごしていると、尚人先輩が小走りでこちらにやってくる。先ほどの男子は自分の持ち場に戻ったようだ。尚人先輩は僕に、スプーンの刺さった紙コップを差し出す。

「はい」

「ああ……ありがとうございます」

 紙コップを受け取ると、じわりと温かい。紙コップの中には半分より少し多いくらいのチャーハンが入っている。その匂いを嗅いで、僕は浅野の言った通りこれが冷食のチャーハンだと確信した。家でよく食べているやつと同じ匂いがする。

「……牧田さんは、今は当番じゃないから、いないよ」

 尚人先輩がおもむろに口を開く。その顔はまた、少し申し訳なさそうだった。

「大丈夫ですよ。牧田先輩に用があって来たわけじゃないので」

「……そっか」

 尚人先輩は僕の言葉を聞き終わってから、ワンテンポほど遅れて相槌を打つ。その時間のずれが、彼の思考にかかる時間なのだろう。

「食券、買ってくれたんだね。ありがとう」

「……あ、いえ、これはクラスの人に貰ったんです」

「そうなの?」

 尚人先輩から驚いたような声が出る。僕がクラスの女子から貰って、でもその女子も三年の先輩から貰ったとかで……などと説明すれば、尚人先輩はちょっと顔をほころばせて、「そう」と言った。

「さっき、クラスの人に訊かれたんだ。『三木の後輩?』って」

 「三木」というのは尚人先輩の名字だ。偶然にも牧田先輩の下の名前と同じなので、聞くたびどきりとする。

「そうなんですね」

「うん。それで、『そうだよ』って答えた」

 尚人先輩が目を細める。

「『今日は暑いから、水を飲むように伝えたら』って、あの人が」

「……そうですか」

 僕と尚人先輩は二人でテントの方を見る。例の男子の先輩は、別のクラスメートと一緒に冷凍チャーハンの封を切っている。

「……『そうします』って、『ありがとうございます』って伝えてもらってもいいですか?」

「うん」

 尚人先輩は、どこか嬉しそうな声で応えた。

 この文化祭の浮かれた雰囲気がそうさせるのだろうか。ちょっと仲良くしただけのクラスメートや見ず知らずの先輩から気遣うような言葉をかけられただけで、僕は単純にも嬉しくなる――というか、息がしやすくなる。普段は大嫌いな、うるさくて汗臭い人混みの中にいてもそんなに苦しくなかった。人混みに飛び込む前から――あの食券を握らされた時から、もしかしたら僕は苦しくなかったのかもしれない。悩んでいたことや気にしていたことを、すっかり忘れてしまっていた。

「……あ、」

「どうしたの?」

 僕は、尚人先輩を黙って見上げる。彼は看板を持ったまま、不思議そうな顔で僕の言葉を待っていた。


「僕、『書記』に会いましたよ。先輩が『いつか会える』って言っていた」


 僕の言葉に、人混みの喧騒が、一瞬遠のいたような気がする。

 尚人先輩は、表情を変えずに頷いた。彼は薄く唇を開いて――何かを言いかけて、噤んで――そして、僕から目を逸らした。ため息を吐いて、どこか遠いところを見ているような眼差しで。


「よかったね……」


 ……「よかった」って、一体何が?

 僕がその意図を問おうとした時、唐突に、強く意識が引っ張られる。


 反射で振り返ると、人混みの隙間に見覚えのある二人組が見える。佐伯と播磨だ! 体を捻ってそちらに向かおうとすると、それを阻むように人の波が押し寄せる。鬱陶しい。僕の意識は佐伯と播磨に集中していた。僕は走り出そうとしている。

「巴くん?」

 尚人先輩の心配そうな声が下りてくる。さっきまで心地よかった彼のテンポが、急に遅く感じられた。僕は持っていたチャーハンの紙コップを尚人先輩に突き返す。

「すみません!」

 僕はもう一度人混みの中に飛び込む。尚人先輩に名前を呼ばれた気がしたが、今はそれより二人のことが気になっていた。いや、「気になるように運命づけられていた」。

 また佐伯の仕業だ! 僕は佐伯の仕掛けた「嫌な感じ」に突き動かされるように進む。昨日の会話で懲りたと思っていたのに、あいつはまだ僕に依頼を押しつけようとしているのか。

 せっかく収まっていた腹立たしさが脳内を一気に支配し僕を息苦しくさせる。僕の行き先と視界を塞ごうとする人間たちが全部邪魔に見える。

 ようやく人混みを抜けた時には彼らの姿はもう見えない。しかし確信があって目線を動かせば、体育館があった。僕は迷わずに向かう。

 体育館の中に入ると、ちょうどバンドが演奏をしていた。昨日の弁論大会とは異なりステージの上にはドラムセットやアンプが置かれ、そこにギターやベースを持った女子生徒たちがいた。雰囲気からして上級生だろう。ステージを囲むようにパイプ椅子が並べられており、観客たちは座ったり立ったりしながら声援を送っていた。聞いたことはあるが知っている曲ではない。

 もちろん、体育館にいるのは観客だけではない。明らかに興味のなさそうな中年男性が後ろの壁にもたれて寝ていたり、他校の生徒っぽいやつらが空いたスペースに腰を下ろして談笑していたりする。多少は演奏の音がうるさいが、屋根もあるしそんなに混雑していないし、休憩スペースとして適しているのかもしれない。そんなことを思いながら佐伯と播磨を探すが、ステージ周辺にも休憩所と化している後方にもその姿は見えなかった。

 僕の予感では、確かにここにいるはずだ。僕は気配を消しながら、そろりそろりと体育館の後ろの壁を伝うように歩いている――のも、僕の意思なのか、佐伯の命令なのかわからない。もし佐伯の命令、佐伯の意思でここにいるのならば、僕は佐伯を激しく嫌悪する。もう二度と関わるなって言ったのに、それでも運命の糸で絡め取ろうとしてくるあいつは最低だ。

 佐伯に対する恨み言が止まらないのと同時に――僕は佐伯の糸に導かれた先に待っているものが何なのか、知りたいと思ってしまっている。この「知りたい」と思う感覚すら佐伯が仕組んだものかもしれないのに、僕の心は佐伯の方に傾いている。佐伯が何を考えているのか知りたい。佐伯が僕に何を知らせたいのか知りたい。そうやって「選んで」――「選ばされて」進んだことを、僕は再び後悔するだろうか。

 さらに体育館の奥へと進むと、ひときわ強い「嫌な感じ」に引っ張られる。見れば、そこには体育館のもう一つの入口があった。

 体育館には僕が入ってきた入口とその反対側にある入口と、ここ、ステージから見て左奥にある裏口のような入口がある。普段授業や集会などで出入りするのは今入ってきた方の扉とその向かいにある扉で、防火扉のような、スライド式の重たい扉である。対して今僕が見ている裏口の扉はガラスのはめ込まれた両開きのドアだ。ここには靴を脱ぐための広いスペースや、靴箱、傘立て、ロッカー等が置かれておりまるで大きな玄関のようにも見える。方角的にあまり光が入らないのか、真昼だというのに薄暗くてカビっぽい匂いがする。透明なガラスの向こうには緑色のビニール紐と、「立入禁止」と書かれたプレートが見えていた。今日は文化祭だからかこの入口は封鎖しているらしい。

 僕はその玄関のようなスペースに、初めて足を踏み入れる。その瞬間、「嫌な感じ」が強烈な「悪い予感」へと変わった。

 視線が自然と右へと向かう。さらに薄暗い、奥まったそこには黒っぽい木製の扉があった。体育館の倉庫の一つだろうか、それとも部室か、更衣室だろうか。

 ステージでは新しい曲が始まっている。この曲も聞いたことがある。イントロが終わったらほぼ歌いっぱなしの曲だから、観客が動くことはないだろう。また、後ろで休んでいるやつらも動く気配はない。ガラス扉の向こうにも誰の気配もない。

 僕は扉に近づいた。すると、悪い予感がいっそう濃度を増した。頭の中で打ち鳴らされる警鐘のような直感が、僕に二人の存在を知らせていた。二人は絶対にこの中にいる。しかし、かつてこんなに密度の高くて重たい直感はあっただろうか。僕はもう、考え事ができない。いや、しなくてはいけない。支配されてはいけない。僕は自分で選んで――考えて――しなくちゃいけない。僕は自分の意志で――変えて――佐伯のことを知らなくちゃ――いけない。のは、本当に――? 僕は、播磨のことを知らなくちゃ――いや、僕が知りたいのは――求めているものは――。そんなことに、意味は――。僕が今、ここにいる意味って――?

 僕は――もう、ドアノブに手をかけていた。そして、それを引いていた。隙間から見える暗闇、埃が舞って、そこにいたのは――。




 気がついたら、走っていた。


 走りながら体を折って咳き込む。息が切れる。胸が、肺が苦しい。手のひらに食い込んでいる鍵の先端が痛い、けれどもっと強く握り込む。

 ローファーで外階段を駆け上り、一番上で脱ぎ捨てる。震える手で鍵を使うと扉の中に飛び込んだ。

 湿度の高い、こもった空気が粘っこくて気持ち悪い。僕は床の上に座り込んで息を吐き出した。いきなり座ったからか気分が悪い。ゲホッとむせると、熱に浮かされた頭がぐわんと揺れて目まいになった。

 近くの机の脚まで這って行き、そのまま目を瞑る。さっき見たすべてのことを忘れるように縮こまり、腕を抱き、膝に顔を埋めながら、乾いてカラカラになった唇を開く。

「、願いを――」

 ぴちゃっ……と手洗い場の蛇口から、水が落ちる音がした。

 その瞬間に、記憶がフラッシュバックする。

 雑多に物が置かれた部屋に、聞こえるはずのない水音。テンポを無視したリフレインに混じっているのは人間の息遣い。

 誰かが誰かを押さえつけている。体ごと押しつけて磨り潰しているのかと思ったら、潰されている側の誰かも体を擦りつけていた。

 ぴちゃっ、と水の音がした。そして、「誰か」が堪えきれなくなったように笑った。


 ――愛してるぞ、つみき。



「ッ、ひょう‼」

 腕を抱いて力の限り叫ぶ。もう、どうでもいい! 佐伯も自分も文化祭も何もかも、何がどうなったっていい!


「ひょう、『助けて』‼」


 瞬間、何かで殴られたような強烈な眠気に襲われる。耐えがたいほどの睡魔に体の芯が砕けて、崩れるように意識を失った。

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