9話:依頼(①)
9・依頼
「……わかっていたよ」
僕の言葉に、彼が少しだけ静止する。しかしゆっくりと微笑むと、もう一度「黙っててごめんね」と言った。佐伯の真っ黒な瞳には、Lの世界の住人の証である「光のチップ」が浮いている。ここが「世界の交差点」だから、Rの世界の姿をした僕と、Lの世界の佐伯が同時に存在することができるのだろう。
佐伯は「サインイン」を済ませている。
佐伯は「世界の交差」システムの関係者なのだ。
……そんなことはわかっていた。そもそも、佐伯が「あの声」の発言者だった時点で決まっていたようなものだったのだ。
――だから、いるんだって、『不審者』が。
その声は、創作部に関わることを諦めかけていた僕がRの世界でマスターを探すきっかけとなった。またその声は、Lの世界の世界で仁と出会うきっかけともなった。
僕が訪れたLの世界の学校では、僕やひょう以外の生徒はすべて「モブ」だった。目がなく、何かを話しているようだがなんと発声しているのかわからない、僕の世界の賑やかしとしての舞台装置たち。そんな有象無象の中で、唯一はっきり聞き取ることができたのが「あの声」――佐伯の声だった。
また、一学期から座席が前後だったにもかかわらず、二学期から佐伯が妙に僕に構うようになったのだって僕が「世界の交差」に関わるようになったから――夏休みに、僕が「世界の交差」に関わったことを佐伯が知っていたからに他ならないのではないか。佐伯が牧田先輩のことを知っていたのも、「ミキ先輩」と親しげに呼び、彼女に好意があることを知らせてきたのも、佐伯が「世界の交差」繫がりで牧田先輩と関わりがあったからなのだろう。僕と牧田先輩が一緒にいるところを見ていたのだって、佐伯は牧田先輩が「広報」として新入部員の勧誘をしている姿を、それとして認識することができたからだろう。
すべての考察や仮定は、ある一つの事実へと収束する。僕はまた、駄目押しのように、牧田先輩や尚人先輩――創作部の先輩たちの言葉を思い返していた。
――二学期に入ったら言おうと思っていたんだけど、「創作部」にはまだ――。
――創作部でちゃんと「意味を持つ」役職は、すべての取りまとめの「部長」、部員を増やすために勧誘活動をする「広報」、活動記録をまとめる「書記」の三つ。
――いるよ。今は教えられないけれど……。いつか会えると思う。
僕は、いつの間にか固く握っていたこぶしをゆっくりとほどく。そして深呼吸をした。そうだ、こんなのはわかりきっていたことだ。僕にとっては、今更驚くようなことじゃない。
「……ずいぶんと、わかりやすいヒントの出し方だったね」
僕は、ありったけの皮肉を込めてそう言う。馬鹿にするような顔を作って佐伯のことを見下すと、佐伯の方は真剣な顔になる。
「きみに気づいてもらえなくちゃ、意味なかったから。僕から直接『創作部の書記は僕なんだよ』って言ったら、きみは、すごく嫌な思いをするんじゃないかと思って」
「嫌な思い?」
なんだそれ。予想外の言葉に聞き返すと、佐伯は真剣な顔を崩さずに頷く。それが、第一祭の実行委員として教壇に上り、クラスメートたちに対して何かを訴えかける時の佐伯の顔のようで、僕は思わず身構える。僕はあの顔が嫌いなんだ。
「きみは、他人に心を読まれるのが嫌いなんだよね」
佐伯はそう言って、僕の方に手を差し伸べる。なんだ、と思った時にはすでに、佐伯の手には一冊のノートがあった。
その表紙は、まるで今僕たちを包んでいる暗闇をそのまま切り取ったかのような漆黒に塗り潰されていた。佐伯はそれを胸元に引き寄せ、慣れた手つきで表紙をめくる。すると、風もないのに中の白いページがパラララッとめくれ、その度に佐伯の瞳の光のチップが瞬いた。
白いページには何かが書き込まれている。が、佐伯との間には距離があるため、その細かい文字を読むことはできない。めくれていくページの中、佐伯はあるページに片手を置いて押さえつける。そして真面目な表情のまま、その口を開いた。
「夏休みの一日目、きみはミキ先輩の導きにより『サインイン』を行い、『世界の交差』を起こした。きみは『世界の交差点』でマスターと出会い、そこで『世界の交差』を起こすために必要な、きみの願いを口に出して言うことを強要された。もともとマスターに不信感を覚えていたきみは、そこでマスターにきみの心を読まれたことにより、さらに不信感を募らせた。きみはマスターに反発し、そして創作部の歴史の中でも前代未聞の口論に発展した。そしてきみはこう言った。『二人して僕の気持ちを読めるからって、それが何になるって言うんだよ。人の心を読めることなんて意味もない、読めるからって優れているわけでもないのに』、『僕は人からわかったふりをされるのが嫌いなんだ』って――」
「佐伯‼」
僕は思わず叫んでいた。ノートを見つめていた佐伯は顔を上げると、「ごめんね」と言って再び目線をノートに落とす。
僕は冷静になるように努めた。ペースを乱されちゃだめだ。しかしそんな僕の目の前で落ち着き払っている佐伯を見ていると苛立ちがこみ上げてくる。腸が煮えくり返りそうだ。
「創作部『書記』の仕事は、部員の活動記録をつけること。つまり、『サインイン』をした部員たちが『世界の交差点』でマスターにどのような望みを言い、どのような世界への転移を望み、どのような姿になったのかを記録している。また、その人が訪れた世界で、どのような行動をとったのかも記録している。きみのよくするゲームで例えるならば、僕は『世界の交差』のセーブ機能なんだ。部員たちの代わりに、冒険の記録をつけていると言ってもいいかもしれない」
「……そうなんだ」
やっとのことで絞り出した相槌に、佐伯は何の悪気もなく頷く。そして、落ち着きなく頭の後ろを掻きながら、ぽつぽつと語り始めた。
「僕は書記だから、きみが『ここ』で、人に心を読まれるのが嫌だと言ったことを知っている。……だから『書記』として、きみの『世界の交差点』の言動のすべてや『Lの世界』での行動を見てきた僕の存在は……気持ち悪いんじゃないかと思ったんだ」
佐伯は不安そうにこちらを見上げる。
「だから、きみのためにも、ちょっとずつヒントを置くようにしていたんだ。いきなり僕が、『僕も創作部の部員なんだよ』なんて言っても、きみはびっくりするでしょ? いろいろと考えてみて……『きみがきみのペースで』僕のことを知るためには、これが一番いいんじゃないか、と思って」
そうやって自分の考えを喋る佐伯は、先ほどまでよりも、普段の佐伯の姿に近かった。僕がこの二週間、クラスで見てきた佐伯。お節介で、人のことを考えているように見えて一人で突っ走りがちな佐伯は、今、この瞬間にも僕を苛立させ、神経を逆撫でしていることに気づいているのだろうか。
口を開くと低俗な悪態をついてしまいそうで、堪える。こんなやつに僕が本気になって腹を立てる理由がどこにあるだろうか? 構う必要はないし、とことん無視すればいい。本当に嫌いで不快なやつとは関わらないというのも一つの手だ。じゃないと僕はこの夏休みの二の舞を演じることになってしまう。僕の、マスターたちの物語への不必要な介入はマスターへの不必要な反発と対抗心から始まってしまった。
「きみの介入は、マスターにとって『不必要』ではなかったよ」
心臓が跳ねる。佐伯を見れば、彼は俯いたままでノートに目を落としていた。
「きみがしてくれたことは、マスター、と言うよりうたぎ兄ちゃんや、礼治さんにとって必要なことだったと思う。きみがいなくちゃ動かなかった『物語』なんだから。もっと、誇りに思っていいと思うよ」
「ちょっと待って」
僕は佐伯を止める。喋らないでほしかった。頭が混乱して、血が上るのを感じる。そうか、「書記」だから、リアルタイムで僕の考えが読めるのか。思考を停止したほうがいいとわかっているのに、同時に頭の中に疑問が浮かび上がってくるのを抑えられない。抑えられないのは腹立たしさもだ。その場に座り込みたくなるのを我慢して佐伯を睨むと、佐伯は心の底から僕を慰めるように、穏やかな顔で微笑んだ。
「僕とうたぎさんは、従兄弟なんだ」
「……え」
「僕が書記なのは、それもあるんだ。きっと、マスターはきみにお礼を言わなかったよね? だから、僕が言うよ。『僕たち』は、きみに救われた。ありがとう」
佐伯はそう言い、右手を軽く上げる。その手には黒いペンが握られていた。ノートの表紙と同じ、この空間を満たしている暗闇をそのまま切り取ったかのような黒に染め上げられている。
「きっときみのことだから、どうして僕がきみの心を読むことができるのか……その仕組みが気になるはずだよね。ええと、そのためにも、まずは『書記』に与えられている力について説明させてほしいんだ。そしたら、僕の頼み事がどういうことか、もっとわかりやすくなるはずだから」
佐伯は僕の返事を待たず、手元のノートのページをめくり、ペンを走らせ始める。その動きを目で追おうとした瞬間のことだった。
ぐわん、と視界がぶれる。
「う……っ」
思わず大きめの声が出る。揺れているのは視界だろうか、それとも脳か。目の前が白み、呼吸が乱れるのは呼吸の仕方が思い出せないからだ。
何らかの力が働き僕からピントを合わせる力を奪ったせいで、僕の理論と定義によって整えられた思考の区画が曖昧にさせられている。
そしてそのスープのようになった思考と自意識にうねりを打ちながら流れ込んでくるのは「情報」だ。ペン先が紙を引っ掻く時の音が頭の内側から聞こえてくるような感じに皮膚が粟立つ。情報が、感覚が、イメージが、景色が、次々に蘇っては組み上がり、浮き上がったかと思うと定着して、かさを増して、鮮やかに色づいて、そしてはっきりとした輪郭を伴って――。
そして不意に、まるで「最初から知っていたかのように」、その記憶は現れた。
「僕」が書記になったのは、僕が中学二年生に進級する春――ミキ先輩が高校生になり、「創作部」を結成する春のことだった。
きみがすでに暴いたように、この時、「古壱うたぎ」と「マスター」の精神は入れ替わっていた。そういえば、きみは、僕たちの生きている現実世界のことを「Rの世界」と呼ぶんだったね。それにならって言うのであれば、Rの世界に存在する「古壱うたぎ」は肉体こそうたぎさんのものだったけれど、中に入っているのは概念のような存在で、うたぎさんではなかった。
実はね、ミキ先輩はもちろんのこと、うたぎさんと従兄弟だった僕でさえも二人が別の存在であることには気づかなかったんだ。僕が「書記」になる春、本当に久しぶりに「彼」と会ってからきみが真実を突き止めるまでの数年間、僕はずっと勘違いをしていたんだね。
中学一年生と中学二年生の間の、春休みのことだった。その日、僕は家の居間にいた。適当なテレビでも見ていたんじゃないかな。両親は外出中で、友達とも予定が合わなかったのか、僕は一人で留守番をしていた。
固定電話が鳴った。両親の代わりに電話に出ることは当たり前だったから、僕はテレビの音量を下げて、受話器を取った。「はい、佐伯です」って、本当に軽い気持ちで取ったんだ。
そしたら、「彼」が出た。
「……もしもし」
最初、僕はそれが誰なのかわからなかった。ものすごく低くて暗い、沈んだ声だった。でも同時に、何となく聞き覚えのある声だったから、僕は誰ですかと訊くのも失礼な気がして困ってしまった。
「『うたぎ』だ。久しぶり。元気にしていたか?」
彼が名乗ると、僕はすっかり安心した。なぁんだ、うたぎさんだったのか。うたぎさんには僕が本当に小さい頃にはたまに遊んでもらっていたけど、歳が離れているのもあって、その頃には顔を合わせることなんてなくなっていた。実際のところは、うたぎさんが「世界の交差」を起こしてマスターの精神がうたぎさんの体に入り込んだから、うたぎさんとしての人付き合いをするのをやめてしまったからだと思うけど。
「久しぶり。つみきだよ、元気にしてたよ。うたぎ兄ちゃんは……どうしたの? もしかして風邪とか?」
うたぎさんには昔のような、はつらつとした感じがなかった。だから僕は訊いていた。
「うーん、風邪じゃないんだが。ちょっと、いろいろあったんだ」
「そうなの? ……大丈夫?」
僕は心配に思って、そう訊いた。そうすると、電話の向こうの彼が「そうだ」と思いついたような声で言った。
「つみき、もしよかったら、話を聞いてくれないか。お前に話したら、少しは気が紛れるかもしれないんだが……」
「え、僕でいいの?」
僕の言葉に、彼が頷く気配がした。
「お前のこと、頼りにしているから。聞いてくれたら助かるよ」
僕はすぐに指定された場所に向かった。僕は何としてでもうたぎさんの力になりたかった。小さい頃からいっぱい遊んでくれたからっていうのもあるけど、何より、うたぎさんよりずっと年下の僕を、うたぎさんが頼ってくれたのが本当に嬉しかったんだ。
だけど、僕を呼びだしたのはうたぎさんじゃなくて、マスターだった。彼が本当にしたかったことは、僕に彼の悩みを相談することなんかじゃなくて、僕に「世界の交差」の記録係をするよう依頼することだった。
僕は、当時の彼の家にも行って、ゼロの次の「器」となる機械人形も見ている。彼が成し遂げたい夢のことを悍ましいとも思ったけれど、僕は、彼のことを手伝うことにした。それが、僕にとっての「運命」だと思ったから。
……と、急に意識がはっきりする。
「僕」は――「鏡味巴」で、そして、ここは「世界の交差点」だ。
「今の、」
この空間には佐伯しかいない。あとはすべて、暗闇だ。なのに、僕はこの一瞬だけ、どこか別の場所にいるかのような錯覚をした。知らない家のソファに座り、リモコンを操作して、受話器を取った。従兄弟の彼と話し、彼のことを心配して、彼から頼られたことを心から嬉しいと思った。彼の力になりたいと渇望した――かつての「佐伯つみき」として。
「『書記』は、今みたいなこともできるんだよ」
佐伯は淡々と言う。
「今、したのは『書き換え』だね。僕はマスターからもらったこのノートとペンで、人の記憶や物の記録――つまり歴史を書き換えたりすることができる。物の場合は、対象は問わない。人の場合は、『サインイン』を済ませた人――『世界の交差点』に来たことがある人が対象になる。例えば、きみとかね」
佐伯は僕の方を向いて、うっすらと笑った。その、感情の抜け落ちたような笑みに、ぞっとする。どこかで見たことのある微笑みに記憶の糸をたぐると、その先には「ゼロ」がいた。
急に理解する。佐伯が使っているそのノートとペンは、「世界の交差点」――つまりこの空間そのものである「
「このノートに書かれたことが『現実』となり、積み重なった記録が『事実』となる」
佐伯は片手で、持っていたノートをこちらに掲げる。不思議なことに、僕はそこに書かれた文字をすべて読むことができた。というかそこに何が書かれているかを瞬時に察することができた。なぜなら、そこに書かれた文字はすべて、今しがた僕の頭の中に流れてきた情報と一言一句違わなかったからだ。僕はノートに羅列された文字を読むというより、映像としてそれを知覚する。どこか几帳面な印象を与える、読みやすくて整った文字は僕のよく知る佐伯の筆跡だった。
「このノートに『五年ほど前から、鏡味巴の家の隣にはマスターの家があった』って書けば、『五年ほど前から、鏡味巴の家の隣にはマスターの家があった』ことになる。『鏡味巴はクラスでの打ち合わせの後、多目的教室にやってきて「世界の交差」を起こす』って書けば、『鏡味巴はクラスでの打ち合わせの後、多目的教室にやってきて「世界の交差」を起こす』」
「……」
「また、僕はこのノートを持っている間だけ『サインイン』を済ませた人――『書き換え』が可能な人の、今考えていることを読むことができる。このノートに、文字として浮かび上がっているように見えるんだ。記録として残すかどうかは別としてね」
だから佐伯はかつてゼロがしたように、僕の思考を読むことができるのか。佐伯は手元のノートに視線を落とし、そして顔を上げる。
「そうだよ。このノートを持っている間だけは、僕はマスター――いや、ゼロがすることの一部を行うことができるんだ。僕はずっと、この能力はマスターのものだと思っていたけどね。だからそういう意味では、僕はきみのおかげで僕に与えられた力と役割の両方を、本当の意味で知ることができたと思うよ」
佐伯は目を細める。佐伯は淀みなく喋った。その言葉は確かに聞こえていて、言葉として認識することはできる。が、その言葉の意味や内容はちっとも頭に入ってこない。脳味噌が熱く、息がしづらい。何も考えたくない。
「……佐伯は、その力で、僕の考えていることを読むことができるんだね」
僕が言うと、佐伯は顔を少しだけ引き締め、頷く。
「うん、そうだよ」
「僕が、『人に心を読まれること』や、『人にわかったふりをされること』がとっても嫌いだって、きみは知っていたんだよね」
佐伯の顔が強張る。
「うん。だから、きみに本当のことを話すのは、とっても迷ったんだ。でも、きみはこれからも『世界の交差』に関わることを選んだ。だから――」
「きみは僕に真実を告げた。そうなんでしょ」
僕の言葉に、佐伯はためらいながら頷いた。なんて言えばいいんだろう。どうやったら、ちゃんと伝わるんだろう。
「今、まさに、きみは『わかったふり』をしているよね。……そのことについては、どう思ってるの? 僕に嫌がられるって思わなかった?」
あまりに佐伯が黙っているから、質問をすることにする。先ほどまでは穏やかに話していた佐伯が明らかに動揺する。
「でも……これは、結局きみが知ることだったから。僕は書記だから、どうしてもきみの考えていることがわかってしまう。そのことを、知ってほしかったんだ」
ため息が出る。でも、言葉は続ける。
「じゃあそれは置いておくとして。僕は君の力? 役割? だっけ。について、理解した」
足を少し広げ、片手を佐伯に差し伸べた。少し離れた所にいる佐伯は、戸惑っているようだ。
「だけど、僕は君のことをまだ気持ち悪いと思っているよ。別に、僕は君のそういった所業を『許す』なんて言ってないよね。それなのにどうして、君はまだ僕の気持ちをそのノートで読んで、『わかったふり』をして話を進めようとするの?」
指の先にいる佐伯が、顔色を変える。その、明らかに混乱している様子を見て、気を紛らわすしかなかった。僕の息も上がっている。
「それは……僕がこのノートを渡されているから、しょうがないっていうか……。ていうか、僕のことを知ってくれたんだよね? わかってくれたんだよね? 僕、説明が下手だったかな……?」
「君にしちゃまとまっていたと思うよ」
こいつの発言の一つ一つが、頭を掻き毟りたくなるほど不快だ。時間を割けば割くほど不愉快なやつっているんだな。
「……なんで君が、自分の身の上話をひけらかすことで僕に同情してもらえると思っているのか、ちっとも理解できない」
「……え」
「君は、僕のことを『利用』しようとしてる」
佐伯の言い訳なんか聞きたくないから、一気に喋る。
「君は僕に、君たちの『運命を変えてほしい』って言った。だけど、君は今、自分が『運命』を変える力を持つということを説明してくれたよね。そのノートで、僕の運命にも干渉したみたいだし。……そんな君が『運命を変えてほしい』って依頼をしてきたということは、何か、君やそのノートじゃ関与できない『運命』があって、その『運命』を変えるために、僕の力を借りたい……と言ったところじゃないかな」
「っ、そうなんだよ……!」
佐伯が目の色を変え、足を踏み出す。僕は差し伸べた手を起こして、佐伯に手のひらを見せた。こっちに来るな。しかし、自分のためにも笑みは作る。
「君は僕に一目置いてくれてるんだよね。僕が、君や牧田先輩の辿り着くことがなかった真実に、辿り着くことができたから。『使える』って思ったんだろ? だから、距離を縮めてきたんだ。近づいて、仲良くなって、僕のことを『使用』することができるように」
「何言ってるの、鏡味」
「結局そういうことなんでしょ」
認めなよ、と言うと佐伯は固まってしまう。本当に、わかりやすくて嫌になる。単純すぎて不快になる。もう少し、ごまかせよ。どうして自分の態度がこっちを傷つけるって気づかないんだろう。なんで被害者ぶってるんだろう。なんで理解してもらえると思ってるんだろう。なんでその理解の先に、あんたなんかに対する同情が生まれると思っているんだろう。どうして同情されるのを待っているのだろう。
気持ち悪い。こいつの態度が、思考回路が、全部気持ち悪い。怒りと不快感で頭が沸騰し、血管が切れてしまうんじゃないだろうか。しかもなんで僕はこんなやつのためにわざわざ言葉を選んで、その順番を考えてやっているんだろうか。あいつは僕に何の気遣いもしないのに、なんで僕がこんなやつに気を遣ってるんだよ。なんで僕がこんな気持ち悪いやつのために、いちいちわかりやすく嚙み砕いてやらなきゃいけないんだよ。
「……やっぱり否定しないんだね」
僕の言葉に、佐伯が遅れて「違う」と言う。
「きみのこと、『道具』だなんて思っていないよ。ただ、お願いをしたかっただけなんだ。だからきみのことを呼んだんだ!」
「君は僕のLの世界での過ごし方も見ているはずなのに、何にもわかっていないんだね」
言いたくなかったことが、口をついて出てくる。言葉にした瞬間に鳥肌が立った。
「それって、『結花ひょう』との会話のこと……? それは、僕はちゃんと記録を――」
「喋らないで」
僕はその場に座り込む。めまいが酷くなってきた。佐伯が僕の名前を呼び、こちらに来る気配がする。
「来るな!」
しかしよく聞こえない。佐伯の声も、僕自身の声も。体のてっぺんに一気に血が集まったせいで、手や足の先が震え、氷のように冷えている。自分で自分の体を抱いてもあたたかくはならない。
「あんたの『依頼』は、受けない」
「え……」
「帰らせて、早く」
僕の声に呼応するように、暗闇がぐにゃりと歪む気配がする。
早く帰りたい。これは僕の「願い」だ。「世界の交差」のエネルギーは強い望みであり、想像力である。僕は強く願った。早く、目を覚ましたい。あんなやつと二人きりでいたくない。もう何も話したくない。じゃないと――。
「待ってよ、」
佐伯の声に、少しだけ顔を上げる。やはり少し離れたところに、佐伯が立っている。その手の中のノートは今さら閉じられていた。表紙の黒が、佐伯の瞳みたいに真っ黒だ。
佐伯の顔には疑問と、困惑が浮かんでいる。僕が言った言葉が理解できない、そんな様子だった。切実な眼差しで、僕を責めるみたいに見つめている。
「鏡味、僕は『きみ』に頼みたいんだよ! だから、話だけでも聞いてほしいんだ。お願い」
佐伯は悲痛な声で、しかし顔は笑おうとしながら言った。口角は上がっているが、大きな瞳と短い眉は笑っていない。なぜか泣き出しそうな顔をしながら、しゃがみ込んだ僕に向かって歩を進める。佐伯が歩くたびにコツン、とローファーの底が鳴るが、僕の地面は震えなかった。
「……噓つき」
佐伯と、暗闇の動きが止まる。僕は息を吸い、そして吐いた。
「本当に僕がいいと思ってくれてるのなら、もっと僕のこと、心配したら」
膝を抱えたまま、佐伯の顔を見上げる。気分の悪さは少し落ち着いたが、血管が弛緩したせいか視界も思考もぼんやりとしている。なんか、急にどうでもよくなってきた。
佐伯の顔からは、あらゆる表情が消えていた。笑顔も、切実さも、僕がリクエストした心配もない。
「……噓、って?」
一周遅れで、佐伯が反応する。どうやら思考回路がショートしたせいで、パフォーマンスを忘れてしまっているらしい。表情にも声色にも感情が乗っていなかった。
「僕はちゃんと、きみに僕のことを知ってもらいたかったんだよ。それを、どうして」
「あー、もういい。僕はあんたのことなんかちっとも知りたくない」
立ち上がると、ぐらっと体が傾く。空間自体が歪んだまま静止しているから、まっすぐ立てているのかわからない。
「ちっとも理解したくないよ。理由は……僕が話さなくても、そのノートを開けば、君はすぐわかっちゃうんでしょ? だったらもういいよね。勝手に読まれるのなら……勝手な解釈をされるくらいだったら、僕が言うよ」
僕は指で、佐伯と僕との間に線を引く。
「僕は……あんたが嫌いなんだ。ずっと嫌いだった。お節介なところも、デリカシーがないところも、思い込みが激しいところも。他人に対して献身的に見せかけて自己中心的だし、考えるのは遅いし、はっきり言って馬鹿な方だし、なのに自分で何でも決めようとするところが……全部気持ち悪くて最悪だなって思っていたよ。本当に、見ていてイライラするよ。あんたの言動の、一つ一つが、気に障って気色悪いんだからさ!」
僕は再び、頭に血が上ってくるのを感じる。もう、佐伯の顔なんて見ていなかった。馬鹿な佐伯のことだ、僕が勢いよくまくし立てている言葉をちっとも吞み込めないし理解できないだろう。それでも僕が叫ぶのをやめないのは、僕がすっきりしたいからだ。なんで僕ばっかり我慢しなくちゃいけないんだよ。なんでこいつのくだらなくて要領を得ない話をうんうんって聞いてやらなきゃいけないんだよ!
「中学のころから『世界の交差』に関わってるとか、能力とか役割とか、ほんと、どうでもいいよ! 要は、あんたは自分のことを『特別』だって思ってるんだろ。自分は『他の人とは違う』って思ってるんだろ! 第一祭の準備だって、あんたはいつも『最後は自分がなんとかするから』って言って、クラスのやつらを引かせてた。僕も、どうしてあんたみたいなへらへらしたやつがそんな傲慢な考えをするんだろうと思っていたよ。でもそうだよね、あんたは『特別』な力を与えられていて、『普通』な僕たちのことなんか、僕たちの世界のことなんかどうにだってできるんだもんね!」
溜め込んだ言葉を乱暴に言葉にすると頭の裏の方がじわっとして、不思議と気持ちがよくて、なのに胸がきりきり痛む。
「それじゃ飽き足らず、今度は『平凡』な僕に干渉して、あんたの願いを叶えさせようって言うんだろ。まったく、あんたらしいよね! あんたは『特別』だからその願いも尊重されるべきで『平凡』な僕はいくら『使用』してもいいって思ってるんだ。僕の存在を、時間を、あんたのために消費させるつもり満々だろ! 僕のこと、何だと思ってるんだよ‼」
「鏡味、僕は――」
ピシ、と空間が歪む音がする。顔を上げれば、佐伯が――いや、創作部書記の彩記が、僕のことを見つめていた。
彩記は、「傷ついた」という顔をしていた。
あと、その表情は――僕に対する「同情」か?
「――黙れ‼」
大声で叫べば、パァンと、何かが割れる音がした。
「鏡味!」
歪んだ暗闇にひびが入る。僕の踏みしめていた足場も音を立てて崩れていく。体がふわりと浮き、彩記が僕に向かって走ってくるのがわかる。
「鏡味、気をつけて!」
「来るな‼」
ガラガラと暗闇が崩壊する音に吸い込まれないよう、声を張り上げれば彩記の動作が一瞬止まる。そして目が合った。
「……来ないで。わかるでしょ? これは『拒絶』だよ。『あんたと一緒にいたくない』っていう、僕の」
僕が笑ってやると、彩記は悲痛そうに顔を歪め、足を止める。
馬鹿だなあ。なんでそこで足を止めるんだよ。あのノートがなければ、こいつは僕の気持ちなんてちっともわからないんだ。それに、わかろうともしない。……「平凡」な僕のことや、僕の気持ちなんてこいつにとってはどうでもいいんだ。こいつは、「特別」な自分にしか興味がない。
「……あんたと話していると、情けない気持ちになる」
そう言葉にすると、きりきりとした痛みの代わりに、締めつけられるようにぎゅっと胸が痛んだ。僕はこの痛みの正体を知っている。これは、この夏休みに僕が感じた、存在に対する不安だ。――どうして僕って、こんなに「普通」なんだろう。「特別」なやつらからしたら取るに足りない、代替可能な存在なんだろう。
「僕のことをどうしたいのか……何をさせたいのかは知らないけど、もう、諦めて。僕を都合のいい『道具』にするために関わろうとしているのなら、二度と僕に関わらないで」
「……僕は」
彩記がおもむろに口を開く。僕は、ゆっくりと視線を合わせた。
「僕は、きみを『道具』にするつもりはないよ。きみと……『友達』になりたいって、そう思っているだけなのに……」
彩記の口から「友達」なんて言葉が出てきたことに、そしてその表情が苦しそうで、なお僕を責めるような目線をしていたことに――僕はある種の絶望を覚えた。
「ごめんけど、無理。僕は君の『道具』にも、『友達』にもなれない」
「じゃあ、どうしたら」
彩記は――どこか力が抜けたような佐伯は、胸に手を当てると、下を向いて呟いた。
「僕は、どうしたらよかったんだろう……」
「……知らないよ」
暗闇の中に落ちていく僕は、固く瞼を閉ざしてしまった佐伯の様子を、他人事として眺める。わからずやの佐伯がノートなしでは僕の気持ちを理解できないように、僕もどうして佐伯が苦しそうな顔をしているのかわからない。しかしわかろうとも思わなかった。わざわざわかってやる必要なんかない。
僕たちは、根本的に「合わない」んだ。わかり合おうとすればするほど虚しい気持ちになる。
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