「真夜中に観るクレイマー、クレイマー」

 毎年、ある時期になると特定の作品を見返したくなることがある。

 それは本だったり、漫画だったり、映画だったりする。

 今年、それは『クレイマー、クレイマー』だった。1979年公開のアカデミー賞作品賞とゴールデングローブ賞を受賞したらしい映画。

 この映画を見るたびに思い出すのは、ずっと昔に暮らしていた実家の光景だった。


 家からいなくなってしまった父親と、父親がいたはずのガランとした部屋、それから部屋のガラス窓から差し込む鮮やかなオレンジの夕暮れの光と、夕暮れに暖められたフローリングのほのかな熱。

 まだその頃、私は小学生で、十歳になったばかりかそれくらいの歳で、離れていった父親に着いていきたい気持ちが強く、それでも父親に言われ母親の元に残った。それが母さんのためだから、と。だからだろうか。父性に満ちた映画を見ると、反射的に恋焦がれるような思いがあるのは。

 映画『クレイマー、クレイマー』ではフレンチトーストを作るシーンがある。序盤も序盤、息子とふたりきりで暮らし始めるようになった父親が、それまでやったこともない家事に取り掛かり、うまくできず、けれども息子のために甲斐甲斐しく世話を焼くシーンだ。

 私も父親にご飯を作ってもらったことがある。たくさんあるはずだ。

 でも思い出せるのは、作ってもらった父親に「まずい」と言ったコーンバターのことだけ。普段は家に総菜のコロッケなどが並ぶ家庭で育った私には、家庭の味、おふくろの味と呼ばれる慣用句がピンとこない。だって、私の家庭の味は、全国どこかのスーパーに行ったら買える似たり寄ったりの味だから。

 だけど、そのコーンバターは違った。冗談ぬきにまずかった。今の私が食べるとおいしく感じるのかもしれないけれど、当時の私は野菜が嫌いで、にんじんのグラッセみたいな甘ったるい味付けの野菜が特にだめだった。口に入れた瞬間に頭のなかと喉の奥がグルグル渦を巻くような感じがして、どうにも食べることができなかったのだ。

 普段、料理をしない父親が腹を空かせた子どものために料理を作る。昔にバーテンダーをしていたという父だから、それなりに料理も作れたはずだ。だけど、作ってくれたコーンバターを食べるなり「まずい」と言って手を付けようとしない我が子。

「……そうか」

 その時、父はただ一言そう言った。

 思い返してみると、とてもひどいことをしたと思う。しかしその時の私には、父親の作った料理がまずいということしか頭になく、それ以降、父に料理を作ってもらったことはない。それが父に作ってもらった最後の手料理だった。

 だからだろうか。映画の中で、息子のために料理を作ろうとして失敗するダスティン・ホフマンの姿を見て、わけもなく泣きそうになってしまうのは。


 そのコーンバター事件からしばらくして、私は「お父さんとお母さん、どっちと一緒に暮らしたい?」という人生の中でもトップクラスの難問を突き付けられた。この質問を突き付けられてまず思ったのは、どうやったらこの決定的破局を回避することができるだろうか、ということだった。次に思ったのは、いやそれ我が子に突き付けていい質問じゃねーでしょ、って思った。思ったし、泣いた。めちゃくちゃ泣いた。でも私が泣いて嫌だって駄々をこねてもいつか終わりは来るんだろうって予感はしてたし、永遠に先延ばしできる問題でもない。だから私は父親を選んだ。

 そしたら母親と暮らすことになった。なんでだよ。選択させた意味ないじゃん。


 それ以降、私たちの家から父親は姿を消し、父親の部屋だった三階南向きの部屋は荷物をまるっと運び出されてなんにもないガランドウになったし、私は意味もなくその部屋で昼寝するようになった。

 南向きの部屋は、冬の窓から差し込む陽気を浴びながらうたた寝するのにちょうどよく、太陽に暖められたその部屋のフローリングで眠ると、いつもよりよく眠れた。冬の夜は、空の星明かりがきれいに見えるので、毛布をクローゼットから引っ張り出して、くるまりながら眠った。クローゼットから引っ張り出した毛布からは、かすかに父の匂いがした。

 今になって思い返すと、ふだん料理をしない父親が私に手料理を作ってくれたのは、何かを察していたからだろうか。終わりが来ることを分かっていて、それとなく私に何かを遺そうとしてくれていたのかもしれない。

 ……これもすべて、感傷的な私の勝手な思い込みかもしれないけれど。


 父がいなくなるという人生にとっての結構な重大事件が起こっても、それからしばらくすると、なんだかんだ慣れるもので、父親のいない生活に順応した私は、家に誰もいないことの多い鍵っ子となった。学校に通い、家に帰ると友達と遊び、夕方ごろに帰宅し、誰もいないリビングでスーパーの総菜と母親の炊いていった白ご飯をモソモソと食べ、母親が帰って来るよりも早く風呂に入り、母親が帰ってきたときに「おかえり」と言い、テレビを見て、午後九時には寝る生活を送った。

 時々は父親と会ったりもして、それでも日常はひとりだった。ひとりでご飯を食べ、ひとりで風呂に入り、母親のいない夜を何度か過ごし、それにも慣れ、時々は父の部屋だったがらんどうの部屋で眠り、夢を見る。やがて中学に進み、勉強し、夜更かしをして真夜中の月の白さと輝きを知り、高校に無事合格し、また勉強し、恋も少しはして、そして就職して、今は働き疲れた金曜日の夜に映画を見る生活を送っている。


 最近は宅配も便利になったもので、ファミリーレストランの食事をデリバリーで自宅にも運んできてくれる。適当に頼んだ料理を映画を見ながら食べ、食べきれなかった分は次の日の朝ごはんにしたりするような適当な生活。

 その時、たまにコーンバターを注文する。そして食べる。食べるたびに思う。

「なんだよ……。父さんの作ったコーンバター、悪くなかったんじゃん」

 そう言いながら、胸の中にじくりとした鈍痛が起こるのを、私は忘れない。


 記憶の中にある美化された味、と言われたら否定はできない。

 でも、あの日。キッチンに立つ父親の後ろ姿を見て感じた温かさ。

 キッチンに充満する甘いコーンの匂いと濃厚なバターの香り。

 まずいと言ったときの、言葉に詰まったような、傷ついたような父の雰囲気。

 きっと、コーンバターを食べるたびに起こり続けるんだろう。

 この、甘い痛みは。


 ここ数年、私は実家に帰るのを避けていた。

 ちょうどいいし、今度、家に帰ったら父に一度だけ頼んでみよう。

 私のお願いを、父は聞いてくれるだろうか。

 もう一度だけ、私に料理を作ってくれるだろうか。


 作ってくれたなら、今度は言う。

 大人になった私なら、今度はきっと、おいしいって思えるから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

真夜中に読む カツラギ @HM_bookmark

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ