「真夜中に飲むブラックニッカ」

 凍える冬休みの夜に、大学へこっそりウィスキーを持ち込んだことがある。

 吐く息が白くなるような、冷え込んだ藍色の夜。フェンスひとつ隔てて公道と接するような、大学敷地内の小道を歩いていた。公道なんてたいそうな言葉を使っているけれど、周囲一キロは田畑しかないようなところに立っている大学だったから、野鳥の声は聞こえても、日が暮れれば人の姿なんてまず見ない。

 昼の時間のほとんどを過ごす講義棟。

 ずっと明かりのついている不夜城の研究棟。

 そうした立派な建物が夜の静けさに沈黙しているのを尻目に、周囲と大学の境界を引くように屹立する林のそばの小道を歩く。目指していたのはサークル棟。学生だった僕たちが、余った時間をつぎ込んで、雑談と趣味と一縷の城根知に興じていた夢の城だった。

 どうだ、陸の孤島みたいだろ――サークルの部室の窓から見える、まだ作物の育っていない茶色い一面の畑を僕に見せて、そう笑っていた先輩を思い出す。

 その先輩のことを思い出した。

 だからその日、僕は、少しだけお酒が飲みたかった。



 赤く塗られた小道を歩いて、緑化運動の名のもとに公園らしい体裁を整えた木々の隙間を抜けて、ぽつぽつ点在している街灯の横をすり抜けていく。

 すると、遠目に灯の消えたサークル棟が見えた。僕のいた大学にはサークル棟がたった一棟しかなくて、文化系のサークルが4つも入ればいっぱいになるような、そんな貧弱な建物だった。一階のロビー脇に据え付けられた消防用設備の真っ赤なランプが妖しく光を放っている。

 ロビーの扉に手をかけて思いっきり引っ張ってみると、施錠されていなかったのか、至極あっさりと開いた。そのまま非常灯だけが光る、暗いサークル棟の入り口を歩き、階段を上っていく。

 リノリウムのテラテラした光が月の光を反射している。見上げると、菱形模様の網入りガラスから透けた景色が、月明かりで淡い青色に照らされていた。

 踊り場を上り切って、折り返し、二階にあるサークルの部室扉の前に立つ。

 安いクリーム色のペンキで塗られた扉が、やけに重々しく見えた。



 扉を開くと、中には誰もいなかった。

 かすかに漂うカップ焼きそばのソースの香りが、その日だれかが居たことを示している。

 壁に沿うよう配置された文机には、付けペンと漫画用の原稿用紙とコピックが並び。

 スチールラックには、日に焼けたたくさんの漫画と、ニュータイプを始めとしたアニメ専門雑誌、それから二十年以上前から保存されてきたアニメのビデオテープ。

 部室の電気をつけないまま、僕は部屋の中央に置かれた腰掛け用の椅子に座る。ブラウン管テレビの電源を入れ、ビデオデッキに入っていたビデオテープを再生する。真っ暗な部屋の壁が不自然に鮮やかな画面の発光に照らされる。

 八十年代の、当時にしてはオシャレなポップスを使用したオープニングが流れる。やや滲みのある画面を眺める。

 このビデオデッキも、僕が卒業した後には廃棄されてしまうと聞いた。過去のアニメを録画した段ボールいっぱいに詰められたビデオテープも、もう見る人がいないからだという。

 始まった本編の映像を流し見しながら、僕はそれまでサークルで過ごしていた数年を思い返していた。


 サークルに入部した僕は、誰かが言い出した「同人ゲーム制作」という魅力的なワードに一も二もなくノリと勢いで参加してシナリオを書き、原稿が進まず苦しみ、ひーこら言ってなんとかゲームを完成させた。コミックマーケットで頒布できた数は十数枚だった。何か月も描けて、手に取ってくれたのはたった十数人。けれど、プレイした人から「泣けた」という感想をもらえたことを、後日知る。

 次の年。初の同人誌を作ろうと言い出したはいいが作り方すら知らない僕に、手取り足取り先輩が教えてくれた。吐きそうになりながら、それでも完走して冊子を作り上げ、頒布した。

 こんな形で、僕たちは昼にチンプンカンプンな数式に頭を悩ませ、授業が終わると部室へダッシュし、夕暮れを過ぎて真夜中になるまで、創作活動に打ち込んでいた。

出来は端から見ても褒められたもんじゃなかったかもしれない。でも誰かが言った「泣けた」というたった一言の感想。それだけで、僕は走り続けられた。

 そして先輩が卒業し、僕は四年生になった。就職先も決まり、残っていた単位も獲得し、残るモラトリアムを消化するだけ。サークルも後輩がメインとなって、それを眺めるだけのポジションに移りつつある、そんな状態になっていた。



 ふと気づくと、いつのまにかビデオの再生は終わっていて、テレビは耳障りなノイズを鳴らしながら砂嵐を映していた。部室にあるブラウン管のテレビでは、地上デジタル放送になって以後、テレビ番組を映せないのだ。

 サンドノイズを鳴らすテレビをそのままにして、僕はこれまで描いてきた絵やシナリオや、作った冊子を手にとっては眺め、棚に戻していった。

そうして、ひとしきり満足して、テレビの電源を切った。



 部室から出ると、冷え込みはなお一層強くなったように感じた。思わず革ジャンの襟元を合わせる。

 結局、ウィスキーの片手瓶の封は切らないままだった。

 徒歩十分ほどの下宿に帰ろうと帰り道を歩き始めると、僕がやってきた道は、想像していた以上に明るく照らされていた。大学のメインストリーム、研究棟から講義棟、そして正門まで通じる道の流れに沿って、街灯は整然と配置されている。

 背後を振り返ってみると、サークル棟の付近にはポツンと一本だけが街灯があった。それは、大学の正門付近に置かれている電話ボックスを思わせる光景だった。明かりをつけて、来るはずもない利用者を待ち続ける、朽ちていくだけのガラスの箱。

あと数か月もすれば、僕も部外者になる。サークルには新しい部員が入り、どんどん新陳代謝が進んでいく。

 僕も、先輩も、忘れ去られていく。

 その事を考えると、少しだけ胸が苦しくなった。

 光に向かって歩きながら、僕はふと思い立って、ブラックニッカの瓶を街灯に透かして見た。

 街灯に照らされて、琥珀色の液体が、たぷんと揺れる。

 ゆらゆらと光を揺らし蕩かせた、砂糖の甘いカラメルみたいな色。その鮮やかで美しい色をよく覚えている。

 アルコールの飲み方、無茶をしない分量、そうしたことも先輩が教えてくれたんだった。

 その先輩も、今はもういない。

 ――訃報を知ったのは、昨日のことだった。



  突然のことだったらしい。病気だったか、事故だったか、よくわからない。

  僕より上の、先輩と同年代のメンバーまでにしか詳細は知らされなかったそうだ。それが僕に伝えられたのは、先輩がいなくなってから数か月後のこと。

 だから、僕は先輩がいなくなった理由をよく知らない。

 ただ、知っているのは。

 数十日間ずっとオフラインだった先輩のアカウントが、もう決してオンラインにならないこと。ゲーム制作で使っていた、僕たちがゴールに向けて全力で走っていた時期の、胸に燃え滾る感情をぶつけ合ってやり取りしていたそのログが、絶対に更新されなくなったこと。

 それだけは、なぜだか感覚として知っていた。

 

 

 初年度。僕がゲーム制作をしていた時、先輩の家で合宿をしたことがあった。

 僕も他のメンバーも、顔を突き合わせた状態でキーボードを叩き、イラストを描き、一昼夜ずっと何かを作り続けた。夜になると先輩がご飯を作ってくれて、レタスの入ったチャーハンを僕はそこで初めて食べて、美味しさに驚いた。疲れ果てたメンバーが別の部屋の床で寝はじめ、一人、また一人といなくなり、僕もキーボードを叩きながら意識を無くした。

 夢を見ていると、ふと暖かさを感じた。

 目が覚めると太陽はすっかり昇っていた。

 無理な体勢で寝たせいで固まってしまった体をほぐそうと伸びをすると、肩から何か滑り落ちるのを感じた。ろくに開かない目で床に落ちたそれをよく睨んでみると、僕が羽織った覚えのないブランケットがそこにあった。



 赤い小道を歩きながら、僕はポケットからハンディサイズのブラックニッカの瓶を取り出す。

 そして封を切り、月に照らした。

 何もかも、いつか失う。手に入れたものも、誰かからもらった言葉も、返したい感謝の気持ちも、すべて。すべて、琥珀色の酒と有給の時間が押し流していく。

ブラックニッカの瓶を傾け、口の中に思いっきり流し込む。気化するアルコールの広がる感覚、喉の焼けるような痛み、口に残る苦さと風味。味なんてわからない。

 ただ酔えればよかった。

 ウィスキーを飲んだ今の僕なら、口から火が吐けそうだった。

 空を見上げると、無数の白い点が瞬いていた。

 田舎の夜空は、真夜中に輝きを散りばめて、人に夢を見せる。

 僕の生まれた町は、それなりに人が多くて、街灯も多くて、だから、真夜中になったって空いっぱいの星なんて見えなかった。生まれた町が嫌いだった。家からとにかく出たかった。だから、大学は生家から離れた地方を選んだ。

 そうして、大学に入って、先輩と出会って、一緒に何かを作って、人から感想をもらって。

 そして永遠に別れて。

 もう一度、ウィスキーを飲み下す。熱い液体が喉を焼きながら、胃に滑り落ちていく感覚。

 いつか死ぬというんだったら、生きる意味なんてどこにあるんだろう?

 でも、いつか無くすとしても、そこに残るものは確かにある。絶対にあるんだ。

だから、自分の命の火が消えてしまう前に、何かを作って、他人のともし火をより熱く、明るくする。



 ゲームを完成させた後に、僕は知る。

 僕がシナリオに苦しんでいる間、ペアを組んでいた先輩が、僕の不始末を黙って全部背負って、謝って回ってくれていたことを。

 だけど、僕がどんな思いを持ったって、誓いを立てたって、それを聞いてくれる先輩はもういない。

 月が冴える藍色の夜、満天の星空の下、野鳥のさえずりだけが聞こえる、日付を超えた真夜中の大学。その敷地内の薄暗がりのなかで、ウィスキーに喉を焼きながら、くらくらする頭で、僕は考えた。

 だからこそ、ここに立って、この夜に立って、僕はやっていくしかない。


 月光の下、言いようのない虚しさと、さびしさと、感謝と怒りとがない交ぜになった感情をない交ぜにしたまま、ブラックニッカの瓶が空になるまで、僕は月に吼えた。

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