第六章 9

 それはそれほど大したことではなかった。

 その後、ジャージ姿のまま保健室のベッドの上で三時間ぶっ通しで寝続けた僕は、額を撫でる誰かの掌で目を覚ます。和泉紗枝。

 和泉は僕の目がぱっちりと開いたことに気がつくと、僕の頭の上に載せていた掌をゆっくりどかしてにこりと微笑を浮かべた。

「おはようセイジ」

 おはよう、と僕はぼんやり返す。

「今五時間目が終わったところ。調子はどう? 六時間目もさぼっちゃえば?」

 彼女の声に、首だけ小さく動かして同意する。それから周囲を見渡して、状況を確認する。歯磨きのポスター。薬品棚。アルコールの匂い。清潔感のありすぎる壁。エイズのポスター。

 一通り眺め、確認して、それから白い机の上で入室記録を書き込んでいる彼女に視線を移す。先生はいないらしい。授業中は一つに束ねられていたはずの彼女の髪は、もういつものようにさらさらと規則的に流れていたし彼女の羽織っているものもジャージではなくセーラー服だった。 

「睡眠不足だって。セイジ、ちゃんと寝てないでしょ?」

 彼女の言葉に僕は視線で返事を返す。和泉紗枝は目元だけで苦笑して、それをまた記録に書き込んでいく。

 確か前にもこういうことが一度あった。数か月前。十月の半ばか、終わり頃。僕と和泉が親交を結んだあの時だ。

「でもねー、セイジ。夜走るのもいいけどね。ちゃんと睡眠もとらなきゃいけないんだよ」

 そこで彼女はボールペンの先をしまい、すべての欄を埋めたノートの表紙を閉じる。

 僕は彼女がだらりと垂れた髪をかき上げる仕草を見届けて、口を開いた。

「……昨日」

「うん」

「『父さんの家』に電話をかけた」

 彼女の表情が少し変わる。

「どうだった?」

 僕は顔の角度を変えて、彼女から白い天井に目を向ける。

「知らない女の人が出て、あと小さな子供の声が聞こえた」

「……そっか」

 彼女はそれだけ呟いて体をずらし、長い髪の毛をさらりと揺らした。

 僕は天井を見上げたまま、彼女に問いかける。

「和泉さんは、どうして父親を殺したの?」

 僕は天井を向いたまま。彼女の表情の変化はわからない。彼女は先ほどと同じような口調で「なんで」と問いかけ直す。僕は「なんでも」と言った。

 和泉は黒い瞳を清潔なシーツの波に泳がせて、それから考え込むような仕草を取り、こう答えた。

「殺したかったから」

 これは前にも一度聞いた――

 簡単で簡潔で、そしてあまりにもわかりやすい。模範的な答えだ。

 僕はまた問いかける。

「迷わなかった?」

 ここでまた空白。かちこちかちこちという時計の針が動く音を聞き流す。それから彼女は「迷ったよ」と言った。

「迷わないわけないじゃない。人、殺すんだから」

 僕は顔をずらし彼女の表情を確認し、またまっすぐに天井を見る。時計が動いて時間が過ぎる。

「セイジは、殺したいの?」

 わからない、と僕は言う。和泉はまた、考え込むようにして唇を結ぶ。

「それはまた、千尋ちゃんのため?」

 千尋のため?

 僕は少し考える。

「……違うと思う」

「ほんと?」

「うん」

 これは本心だ――嘘ではない。これは多分、千尋のためではない。

 彼女は感情の読み取りにくい表情のまま睫毛を伏せて、こういった。

「わたしねぇ、初めてセイジに会ったとき、このヒト本当は、人殺したことあるんじゃないかって思ったの」

 僕は天井を向いたまま眉をよせ、「なんで」と聞き返す。彼女はどこか困ったように腕を組み、首を傾げた。

「あまりにもセイジが普通だったから。わたしでさえどきどきして、手足がガクガク震えてたのに」

 そんなのわかんなかったよ、と僕は言う。和泉は困ったように少し笑った。

 それからまた、確認をするかのようにしてこう言った。

「セイジは、どうしたい?」

 僕は寝転んだまま彼女の顔を見て、それから天を見て呟いた。

 どうしようか、と。


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