第六章 7
それは多分、ちょっとしたことだったのだと思う。
父さんは元々多忙な人で、まだこの家にいる時から、三日間会社に泊まり込みだとか一ヶ月間休みなしだとかそういうこともごく普通に当たり前の出来事で、だから僕も、日常的に父と母のいない環境に慣れることができた。父がいなくとも大丈夫だったし、母が日中いないことにも耐えることができた。
耐えることができなかったのは僕の母だ。
父がいなくなったことで結果的に夫婦のバランスが崩れ、それが原因で母は父以外の誰かとの間に「千尋」という存在を作り出す。果たしてそれが、父が家の外にもう一つの家庭を作り出すのが先だったのか、母さんのお腹の中に千尋ができるのが先だったのか。そんなこと、僕にはわからない。
でも、千尋はそんなこと知るわけないし、千尋は父のことを「本当の父」だと思っている。でも父はおそらく、その真相を知っている。
『セイジは、悲しいの?』
彼女の問いに、僕は「よくわからない」という曖昧な答えを返す。
彼女はその、黒い水晶玉の奥に星の光にもよく似た奇妙な輝きを湛えてこういった。
『寂しいんだね。セイジはきっと』
彼女の言葉に僕は何も言わない。肯定しないし否定もできない。実際問題よくわからないのだ。
『ねぇ、セイジ、セイジは一体どうしたい?』
どうしたい?
僕は、温度の通っていないような冷たいベッドの上に寝転んで、スマートフォンの画面を開く。着信記録。和泉紗枝、母さん、なぜか石井健太、和泉紗枝――
僕はそれらの名前を読み飛ばし、画面を閉じて、灰色の携帯を放り投げる。転げたスマホはカツン、という音を立てて床に落ちた。
玄関の脇にある固定電話は、正直あまり鳴ることがない。というのも、僕も母さんもスマートフォンを利用していて、僕の知り合いも母さんの同僚も大抵の場合スマホにかけてくるからだ。
その、ほとんど声を出さない電話の下には黒い表紙のアドレス帳が埃をかぶった状態で置いてあり、ところどころ破れているしクレヨンで落書きだって施してある。ひどいものだ。僕はそれを手にとって表紙を捲る。白いはずのページも時が過ぎてところどころ黄ばんでいる。
そこに書かれているもの。祖母の住所。電話番号。両親どちらかの友人の名前。昔住んでいたところの住所。母の学校の連絡先。僕にとってはまったく需要のないような数字の羅列の一番最後に、おそらく僕が探していたであろうという電話番号を見つける。03-xxx-xxx。名前も何も書いていない。誰のものかもわからない。でも僕は直感的にそれが何なのかすぐにわかる。おそらく、これは父の家庭の電話番号だ。僕の心臓が静かに跳ねる。
受話器を取ってボタンを押す。ぴ、ぽ、ぱ、ぽ……この受話器を最後に使ったのはいつだっただろう。電話の奥から、トゥルルル……トゥルルル……という機械音が聞こえてくる。僕はその呼び出し音に誰かが応答するのを待つ。
トゥルルル……
トゥルルル……
ブッ――
呼び出し音が途切れ、電話の奥から若い女性の声が聞こえる。
『ハイ、もしもし藤崎ですけどー』
その声を聞いて、僕の心臓がまた跳ね上がり――それから、静かに動き出す。
「あー……えーと……ふ……吉野、っていいますが」
僕は、電話の主が同じ姓を名乗ったことに動揺し、咄嗟に母の旧姓を名乗る。それから、「と……俊樹さん、いますか」と言葉を発する。父のことを名で呼ぶのは初めてだ。それから電話の向こうの人物が『はいはい。小々お待ちくださーい』といって電話から少し離れる。保留は押していないので、周囲の声が全て聞こえてくる。賑やかしい、恐らくはテレビの音とニャーニャーという猫の声。そして、子供と先ほどの女性の声。
(子供?)
『パパー。早く早くー』
『こら、アミチャン。パパはお電話しなくちゃいけないのよ』
僕は瞬間的に受話器を置いて、通話を切った。
僕はわかる。瞬間的に今までわからなかったことを理解する。
「……っ……ざけんなっ……」
僕の押し殺した叫びは、廊下の隅に響いて消えた。
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