第六章 4

 千尋の保育園は、僕の家から自転車で三十分ほどの場所にある。車で行けば十分から十五分、歩いて行くと一時間程度かかってしまう。

 千尋の保育園に行かないか、と提案をしたのは僕だ。

 大した理由は特にない。予想通り、母がクリスマス会に全く行く気がなかったことと、千尋が和泉に会いたいと言っていたこと。だから僕は、午前中で授業が終わるその日の午後、学生服のまま和泉紗枝のことを誘ったのだ。

 和泉は驚いたように瞬きをして、それから「いいよ」と言ってにこりと笑った。

「制服のまんまでいいの」

 セーラー服のスカートの両端をつまんでみせる和泉紗枝に、僕は一言「いいよ」と答えた。

 適当な場所でバスを捕まえて乗り込み、二十分ほど揺られて目的のその場所に到着する。

『社会福祉法人 愛の光協会』

 西洋の建物を彷彿させるような外観と、その端に建てられた小さな白い教会。規則的に並んだ高い木々の向こう側には老人ホームと福祉センターが見える。

 この場所へ来るのは初めてなのであろう、和泉紗枝は僕の後ろに数歩下がり、子供のようにきょろきょろとあたりを見回した。

「ここって保育園? なんかの福祉団体じゃないの?」

 和泉紗枝のその言葉に僕は、「そうだよ」と答える。それから教会の隣にあるピンクの屋根の建物を指さして、

「あれが保育園の建物。午前中はあっちの教会で礼拝だとかやってたみたいだけど、この時間だともう、お遊戯館に移ってると思う」

「お遊戯館?」

「平たく言えば体育館」

 僕は青い屋根の建物を指さして、そちらの方向へ踵を返す。 

 ふと目を向けると、和泉紗枝が白い教会の扉の前で佇んでいて、「興味あるの?」と聞いてみる。

 和泉は白い扉に目を向けたままふるふると首を左右に振るが、それでも一向に動く気配は見えない。

 僕は彼女に正面を向け、「入ってみる?」と聞いてみる。すると彼女は、顔半分をマフラーに隠したまま「やめておく」と呟いた。

「わたし、神様に歓迎される権利ないから」

 僕はそういった彼女の言葉の意味が読めずに首を傾げる。それから、長い睫毛を伏せたまんまの彼女に「そんなことないよ」と声をかけた。

 私立ならではの広い遊戯館は赤や青の鮮やかな色彩で飾られて、その部屋の一角を様々な飾りで眩しいくらいに彩られたツリーが占領していた。舞台の上では金色の詩集の施された白い服を身にまとった園児たちは並び、間延びをした幼児特有の声色で賛美歌を歌っていた。

 中年の女の先生が子供のペースに合わせ、ひどくゆっくりとオルガンを弾いている。目の前では、厚く化粧を施して小奇麗な格好をした母親たちがぱちぱちとフラッシュをたいたりビデオカメラを回したりと忙しそうに細々と動いていた。

 他の子どもと同じように大きく声を張り上げていたはずの千尋は、他の母親たちより大分遅れてきた僕の姿を見つけてぱっと瞳を輝かせた。僕は反応を示すよりも先に、和泉紗枝が見惚れるようなアルカイックスマイルを浮かべて白い服を着た妹に手を振った。



 いけるものすべて おそれてしずまり

 よのおもいすてて みめぐみをおもえ

 かみのみこは うまれたもう

 ひとのすがたにて

 しゅのしゅにいませど マリアよりうまれ

 うまぶねのなかに うぶごえをあげて

 そのみからだ あたえたもう

 つみびとのために……

 


 残念ながら僕は、他の母親のようにカメラやビデオを持ってきているわけでもない。お遊戯館の一番後ろ、壁に寄りかかったままたいして意味のわからぬような賛美歌を聞き流し、間延びした声色を張る妹の様子を眺めている。ふと気がついて横を見ると、和泉紗枝が食い入るようにしてそれらの様子を見つめていた。


 賛美歌が終わり劇をして、イエスキリストの誕生のスライド映画を見て、それからどこからか赤い服と帽子をかぶったサンタクロース(おそらくここの園長)が現れて、園児たちにプレゼントを配り始めた。そのあと、園児と保護者によるお茶会が行われるといわれたのだが、僕らはそれを断って外にでる。

 ヒーターが取り付けられてほかほかと暖かかった室内とは異なって、十二月の外の風は氷のようにひんやりとしていた。人の熱と暖房で逆上せてしまった僕にはそれが逆に心地よくて気持ちよくて、マフラーも手袋も全部教会の階段の上に置き体外温度を下げる。僕の隣で膝を抱える和泉紗枝はマフラーも手袋もつけたままで、白い階段の上に座り込みなにやら歌を口ずさんでいる。最初、それがなんなのかよくわからずに聞いていたのだが、ふいに先ほど園児たちの歌っていた賛美歌だということに気がついた。

「和泉さんて、その歌知ってるの?」 

 僕の言葉に彼女は、知らないよと首を振った。

「今日、初めて聞いたの」

 僕は彼女の整った横顔をじっと見つめ、問いかける。

「初めて聞いたのに歌えるの?」

 うん、と彼女は短く頷いた。まったく、天才というのは留まるところを知らないのか。間抜けな表情を作る僕を尻目に、彼女は長い睫毛を伏せたままタイトルの知らないその歌を形の良い唇で紡ぎ始めた。

「主の主に居ませど マリアより産まれ 馬船の中に 産声を上げて その身体 与えたもう 罪人のために……」

 彼女の歌は、先ほど千尋達が歌ったものより大分ペースが速かったし口調もしっかりとしていた。僕はその歌をBGMにして上がった熱を下げていく。乾いた風がひゅーひゅーと首のあたりをかすめていった。

「ねぇ、セイジもこの保育園に通っていたの?」

 そろそろ熱も冷めてきて、いい加減肌をさらしているのが寒くなってきたとき、和泉紗枝は僕に疑問を投げかけた。

 ぐるぐるとマフラーを巻きつけながら「ちがうよ」と僕は言う。

「俺は家の近く。波戸場幼稚園て、ここよりずっと小さいところ」

「千尋ちゃんは違うんだね」 

 彼女の問いに僕は「うん」と答え、巻きつけたマフラーを後ろで結んだ。

「俺の時、母さんは働いてなかったから」

「そうなの?」

「そうだよ」

 ひゅっ――と強い風が彼女の髪をサラリと揺らした。寒そうに身ぶるいをして、赤いマフラーを鼻の下まで持ってくる。

「セイジのお母さん、今日来なかったね」

 仕事忙しいんだね、という彼女の言葉に僕は「どうかな」という曖昧な返事を返す。和泉は不思議そうな視線を投げるが、僕はそれに気がつかないふりをする。彼女は乱れた髪を手ぐしで直し、ごしごしと両手を擦り合わせた。

「セイジはさ、千尋ちゃんのこと、ほんとに大事なんだね」

 嫉妬しちゃうよ、と呟く彼女に、妹だからね、と僕は言った。

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