第五章 7

 その日の放課後、僕は河内麻利と共に河川敷を訪れる。

 最初は無愛想なマスターの経営する、例の古い喫茶店に行こうかと思った。でも、あの場所は和泉の『居場所』だし、もし和泉紗枝がそこにいた場合洒落にならないと判断をしたからだ。

 話がある、と言ったのは河内麻利だ。その、にやりという笑いからおそらく昼間の話の続きだろう。断る理由も特にない。彼女の言葉に頷いて、それから机の横にかけてある鞄を手に取り僕へ向けられる好奇の目を振り切って教室を出る。下駄箱を出て校門を出て少し行ったコンビニのところに、紺のコートに白いマフラーを羽織った河内麻利が佇んでいた。「和泉さんはどうしたんだ」と僕が聞くと、河内麻利は「先に帰ったよ」と答えた。

 学校を出て南の方向に三十分ほど歩いたその場所に、「白犬川」と呼ばれる濁りきった黒い川と、緑色の絨毯のひかれた堤防が広がっている。その堤防の上には近所にある駅から一直線に線路が引かれていて、帰宅を急ぐ人々が乗る電車が通るそのたびに、僕らの鼓膜をがたがたと鳴らした。

「二か月くらい前だったかな」

 芝生の上に腰かけて、目の前を流れる川とそれに揺られる空き缶を眺めながら。河内麻利は呟いた。

「あの、三丁目の公園の前でね――紗枝と、紗枝が誰かのこと包丁で刺し殺すとこ、見ちゃったんだ。びっくりしちゃった。ううん、びっくりだとか、そういうものじゃないの。すごく怖くて、驚いて、足ががくがく震えちゃって、声も出なかった。怖くて怖くて、倒れそうになった」

 彼女は嘲笑するかのようにそう言って、視線だけで僕の顔色を伺い、話を続ける。

「わたし、見てたんだよ。紗枝が、紗枝のお父さん殺すところも。紗枝が、藤崎君と一緒にお父さんの死体運ぶところも。埋めるところは見てないけど――あの噴水の前が血塗れなところも、藤崎君がシャベル持って出てくるところも全部、見てたんだよ」

 河内麻利が、奇妙に歪んだ、張り付いたような笑みを僕に向けた。 僕は河内麻利の嘲笑を見て、右手で口元を押さえ考え込むような仕草を取る。それから、ひゅーひゅーとマフラーの隙間に入り込む風の冷たさを肌で感じ、言葉を発する。

「なんで」

「なに?」

「なんで、そんなとこ、みてたの?」

 僕の疑問に、河内麻利がくすりという笑いを浮かべた。これは単純で基本的な疑問だ――僕の記憶が正しければ、僕らがあの時和泉の父親の体を埋めたとき、時計の針は深夜の一時を過ぎていたはずだ。

「試験前だったから。わたし、徹夜で勉強してて。気晴らしにコンビニに行ったの.

その帰り」

 僕は彼女の説明に適当に頷いて、口元に当てていた掌を頬に当て、心の中でため息をつく。意外なところで足がついてしまった。まさか、こんな身近な所にあの夜の『目撃者』が存在するとは。

 僕は少しだけ考えて顔を上げ、芝生の上に座り込み川の中にぽちゃんぽちゃんと小石を投げ込む河内麻利に問いかける。

「警察には、通報しなかったんだね」

 うん、と彼女は頷いた。

「やっぱり怖かったし。信じたくないっていうのもあったし。でも、わたし、決めたんだ」

 河内麻利はそう言って、拾い上げた小石を握りしめた。

「紗枝も、よくやるよねー。学校じゃああんな、優等生面しちゃってさー。ほんと、信じられない」

 河内は立ち上がり、握った小石を流れる河川に放り込んだ。それから制服のスカートについた草だとか、ゴミだとかを振り払い、まっすぐな目で僕の顔を見据えた。

「藤崎君て、紗枝のこと好きなの?」

 僕は何も答えない。ただただ、意図の読めない彼女の顔をじっと見る。

「じゃあさ。わたしと付き合おうよ」

「……どういう意味?」

「そういう意味だよ」

 僕は、河内麻利の感情の読みにくい表情をじっと見て、それからこう問いかける。

「河内さんは、和泉さんと友達なんじゃないの?」

 僕の言葉に河内麻利は「そうだよ」と笑った。

「表面上はね。みんなそうだよそんなもの」

 河内麻利は足もとから大きめの小石を拾い上げ、コートで着ぶくれた腕を振り上げて河川の中に放りこんだ。ぽちゃん、という音を立てて小石が沈み、そこを中心に渦を作った。

「わたし、紗枝のことそんなに好きじゃないの。優等生とか言っちゃって。周りからちやほやされて、いい気になって。ぶりっこしてるだけじゃない。わたし」

 河内麻利はそこで大きく息を吸いこんで、吐き捨てた。

「あんなやつ、大嫌い。いなくなっちゃえばいいのに」

 僕らの間を断ち切るように、上の線路を電車が走った。地響きにもよく似た震動が僕らの鼓膜を激しく揺らし、影を作る。

 ガタンガタンガタン。ガタンガタンガタン……

 それらの音を肌で感じ、全身に響かせて、僕らの間の沈黙を切ったのは目の前にいる女の子だった。

「藤崎くんてさ、知ってるの?」

 嘲笑うかのような彼女の笑みに、「なにを」と聞き返す、僕。「決まってるでしょ」と彼女は言った。

「紗枝の事情」

 さも当たり前のように口に出す河内麻利に、僕は首を振った。

「知らない」

 僕の言葉に河内はまた、馬鹿にしたように口の端を歪めた。

「紗枝、言ってないんだ。藤崎くんに」

 彼女はもう一度小石を拾い上げ、手の中で数回ぽんぽんと放り投げ、川の中に投げ込んだ。

「藤崎くんてさ。性的虐待って知ってる?」

 僕はまた、何も言わない。頷かないし、首も振らない。

 河内麻利は無表情とも言えるような顔で僕の反応を確認し、視線を逸らした。

「紗枝のお父さんとお母さんて、紗枝が幼稚園の時に離婚してね。それからずっとお母さんと一緒に住んでたらしいの。でも、そのお母さんが亡くなって。それで、お父さんと住み始めたらしいんだけど。その、お父さんて人が問題なんだって。子供を子供とみられない? っていうの?『子供』じゃなくて『一人の女』として見ちゃったんだって」

 河内麻利は河川に向けていたはずの視線を僕に向け、「どういうことがわかる? わかるでしょ?」と口元だけで軽く笑った。

「だから。だからね。紗枝なんかやめて、わたしと付き合おうよ」

「……警察に、突き出すんじゃなかったの?」

「突き出すよ。紗枝だけね。藤崎くんは、何も知らないっていえばいいんだよ。だから、わたしと付き合おうよ」

 僕らの間を、夕刻の電車が走り抜ける。電車の作り出す乾いた風と震動が、短めに切り揃えられた彼女の髪をひらひらと揺らした。

 僕は、なにかしらの期待を込めた彼女の瞳から視線を逸らし、捩れたマフラーの位置を直し、手のひらを額に当てて考え込むような姿勢を取る。僕は考える。実際、特に何も考えるようなことはなかったのかもしれないが――考え込むような素振りを取る。

 そのままの状態で立ち止まり、距離を置き、僕は一つの結論を出す。



「少し、考えさせて」

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