第四章 8

 僕は非通知で警察に連絡を入れて、警察が到着する前に彼女と一緒にアパートを出る。そして、お互いがお互い何も言わず、無言のまま月夜の晩の空の下を歩いて行く。

 途中、僕は首だけを回転させて、ギシギシと音の鳴る古アパートを見る。あのアパートにはもうすぐ警察が訪れて、あのスポーツバッグの中にある腐敗の進行した死体が発見され、それはすぐに勅使河原西中の三年生のものであるということがわかるだろう。そしてそれは、すぐにでも森江宏樹の両親に連絡がいくだろう。息子の生存と帰宅を心待ちにしていた彼の両親は、それこそ死ぬほど嘆き悲しむだろう。

 そんな様子を想像すると、僕の心に少しだけ、ほんの少しちくりという針を刺すような痛みが走った。

 最初僕の前を歩いていたはずの和泉はいつの間にか僕の隣に並んでいて、僕は彼女の歩幅を追い抜いた。追い抜いたまま僕たちは少しだけ歩いて、距離が開いてくると彼女はずいっと僕のパーカーの裾をひっぱった。なんだよ、といって僕は振り向こうと足を止めると、紺色のコートを着た彼女の腕が僕の体に絡みついてきた。彼女は僕の胸の前でぎゅっ、ときつく腕を交差させると、そのまま背中に顔をすりつけてきた。なんだ突然。

 僕はしがみつく彼女を振り払うこともできず、歩き出すこともままならず、間抜けな表情を浮かべたままその場で立ち止まり彼女の名前を呼んでみる。

「和泉さん」

 僕の言葉に、彼女はただぐりぐりと頭を動かすだけであり、言葉らしいものは発しない。

「歩けないんだけど」

 ノーコメント。

「頭で背中ぐりぐりされるの、結構痛いよ」

 どうでもいいよとばかりにぐりぐりと僕の背中をえぐる彼女。どうしようもないな。千尋みたいだ。

「どうしたのさ」

「……」

「こわかった?」

「……」

「なにか言ってよ」

 僕は、ぐりぐりと動かし続ける彼女の頭を押さえるようにして、黒くてつやつやとした頭を撫でる。これはいつも、泣いてぐずった千尋にやることだ。熱があるとき、母さんに怒られたとき。味方を探して僕の腰にしがみついてきた小さな妹は、こうやって頭を撫でると簡単に泣きやんだ。

 二回、三回頭を撫でると、彼女は下を向いたままぼんやりとこういった。

「……あのね、セイジ」

「うん」

「来てくれて、ありがとう」

「……どういたしまして」

 彼女はそう言って、僕にしがみついたまま離れなかった。

 僕は俯く彼女から目を逸らし、蒼い青い天を見上げる。

 黄色いはずのお月さまは、雲に隠れてどこかへ消えた。


 犯人はすぐに逮捕された。

 地元に住みつく青年含む少年達。十八~二十一歳の男五人。森江の入れられていたスポーツバッグの持ち主と、部屋に散らばっていた食べ物や飲み物、部屋中に付けられていた沢山の指紋から犯人はあっさりと特定された。もっとも、少年たちは普段からあの廃アパートに頻繁に出入りをしていたようで、地域住民の証言もあり、事件はスピード解決を見せるような形になった。

 森江宏樹が殺された理由。

 少年たちはあの日の夜、塾の仲間と別れて帰宅をしようとした森江宏樹を捕まえて、金を出せと要求した。が、それを否定した森江に腹を立て、逆上し、西野コンクリート工場に連れて行ってそこで蹴ったり殴ったりと暴行を加えた。途中からプロレスごっこという名の暴行行為が始まって、工場の裏に置いてあるドラム缶に突っ込んだりしているうちに森江宏樹は死んでしまった。それに焦った少年達は、普段たまり場と称した廃アパートに森江の遺体を突っ込んで放置したのだ。普段、滅多なことでは誰も出入りしないような場所だ。ここなら暫くの間は誰にも見つからないだろうと睨んだのだという。

 かわいそうに森江宏樹。さすがに僕も痛ましくなり、葬儀の席では周囲に連れられて思わず目元が熱くなった。

 さて、ここで沸き起こるのがいくつかの疑問。

 あの日、僕を西野コンクリート工場まで導いたあの白くて曖昧な光の玉は、やはり森江宏樹の魂だったのかということだ。さほど親しくもなかったはずの森江が、僕のところへ? まさか、とか思うのだが。それ以外に考えようもないので、やはりあれは森江宏樹の魂だったのだろうか。ふぅむ。それこそミステリアス。アンビリーバボーもいいところだ。

 しかし、例えそうだとしても、こんな非現実的なこと、他の誰にも言えやしない。

 次に、コンクリート工場の前でがちゃがちゃと施錠をいじる僕の肩を叩いた、殺人少女和泉紗枝。彼女は、僕があの場所にいたことをひどく驚いて不可思議に思っていた様子だったが、そう言う彼女こそどうしてあんな誰も近寄らないような場所にいたんだ? 

 その日、僕の背中にしがみついたままの彼女はとてもそんなことを聞けるような雰囲気ではないので放っておいたのだが、後日、いつもの顔に戻った和泉紗枝にそれらのことを問いただすと、彼女はいくらか恥ずかしそうにこう言った。

「私ね。二年の時、森江くんに告白されたことがあるの」

 いや、それは別にどうでもいいけど。そうじゃなくて。

 僕が怪訝な顔でそう言うと、彼女は小さく小首を傾けた。

「あそこ、たくさん猫が溜まってたの見たでしょ?」

 彼女の言い分によると、こういうことだ。

 あの廃アパートの前は学校から彼女の家までの通学路の途中にあり、そこに集まる猫たちに時々餌をやったり頭を撫でたり、可愛がっていたらしい。

 そして先日、いつものように給食の残りのパンをちぎってやろうと屈みこむと、一匹の猫が何かもごもごと口に加え、動かしていたのだという。何を食べているのだろうと覗いてみると、その猫は爪の生えた人間の指を食べていたのだ。


 僕はその光景とバッグの中の森江の表情が重なって、げんなりと顔を歪ませた。やめてくれよ、まじで。

 そしてこれ、最後の疑問。

 あのアパートを後にするとき、彼女はなぜ急に、僕の背中にしがみついてきたのだろうということだ。

 また後日、『ラ・ブール』でミルクティーを飲む彼女にそれを問うと、彼女はまたいくらか恥ずかしそうにこう言った。

「急にね、しがみつきたくなったの。人間てね、不安定になると、人肌が恋しくなるんだよ」

 人肌が恋しいって、殺人少女がなにを言う。

 僕は思わずそう言いそうになったのだが、あの時の弱弱しい彼女の顔と、細い肩を思い出してしまい、それらの感情は心の奥にしまうことに決めた。


 そして最後。彼女が言った、あのゲームの結果について。

 僕は正直どうでもよかったのだが、第一図書室でノートを開く彼女は「私の勝ちだね」といって、くるくると器用にペンを回転させた。

 勝者の条件。敗者の条件。この優等生の皮を被った不良優等生は、なんだか妙な注文をしてきそうだ。僕はげんなりと顔を歪ませて、身構える。

 どうしようかなー。なにがいいかなーとか楽しげに髪を揺らし、鼻歌交じりにペンを回す。どうでもいいけど、とりあえずあんまり無茶な要求だけはやめてほしい。考えが読めないんだ。この子は。

 ふんふんふーんなどと見えない花をまき散らしていた和泉紗枝は、ふと思いついたように鞄からあの棒のついた丸っこい飴を取り出して、僕の口に突っ込んだ。いきなり舌先に感じる甘味に、僕は目を見開いて彼女を見る。和泉紗枝も、目の前で飴玉の包みを開いて口の中に転がしていた。

「……なに?」

「イチゴ味。おんなじだよ」

「いや、そうじゃなくて」

 僕の言葉に、彼女は笑う。あの、にんまりとした笑いじゃなくて、もっと上品な、でも優等生の笑いとは違う、そんな笑い。

 彼女は頬袋だけを膨らませると、ふふふと何かを期待するようにしてこういった。

「今回は、これで許してあげるよ」

「だから、なに?」

 何も分かっていない僕の問いに、彼女は「なんでもないよ」といってくすりと目を細めた。

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