第四章 7
彼女と一緒に廃工場の敷地を出て、もう一度月の照らす町中を歩く。
先ほどあの白い光に誘導されてきたときは、光のペースに合わせて走りっぱなしであったのだが、彼女は僕よりもずっと歩くのが遅かったので、いつもよりもずっとずっとゆっくりな足取りで彼女の背後をついていく。
「どこに行くんだよ」
彼女は僕に背を向けたまま、振り向くこともせずにこう言った。
「どこがいい?」
「……ここっていったらそこへ連れてってくれるわけ?」
「まさか。つれてかないよ」
彼女は肩越しにそう笑った。
なんとも不思議な感覚だった。
僕はもう、何か月もこうやって、夜の街を駆け抜けて、走り抜けてきたつもりなのだが、誰かと一緒に、しかも同級生の女の子とこんな風に街の中を歩くのなんて、本当に初めての経験だ。しかもそれが、ただの同級生とか血の繋がりのある誰かとかではなくて、まさかの殺人少女和泉紗枝。石井がこの様子を見たら、さぞかし嫉妬しうらやましがるのだろう。それくらい、傍から見ても、僕から見ても、月夜に照らされた彼女は綺麗に見えた。
彼女と一緒に歩く夜の道は、ひどく穏やかに静かに感じられた。彼女と一緒に歩いていると、誰ひとりとして僕らとすれ違うことはなかったし(こんな時間ともなれば当たり前といったら当たり前なのだろうが)車の音も、自転車の光も通り過ぎることはなかった。まるで、この街全体が彼女に対して敬意を払っているような、そのような気分にさえなった。月が彼女を歓迎し、夜に蠢くすべての物が彼女に対してひれ伏している。夜の住人。それくらい、彼女は夜の世界に溶け込んでいたんだ。
(魔女、みたいだ)
正直な感想だった。今の僕にとっては。
実際彼女の髪は月の光に反射して、それこそ幻想的なくらいにきらきらと光輝いていたし、彼女が来ている紺色のコートだって絵本の中で悪い魔女の来ているあの黒いワンピースに見えた。あの、校庭の端にある竹箒こそ持っていないが。そのまんま、月夜の空に飛び立ってでもいってしまいそうだ。
彼女は一体、僕をどこへ連れて行くつもりなのだろう。サバト? まさか、ハロウィンでもあるまいし。
そんなことをぼんやりと考えながら、僕の先をおっとりと歩く和泉の細い背中を眺める。細い。コートの上からでもわかるくらいに細くて、華奢だ。時折、寒そうに手と手をすり合わせたり肩を上げたり下ろしたりと体を動かしている。
「和泉さん」
「なにー? もう少し待ってよぉ」
「寒くない?」
僕の言葉に、彼女は「ちょっと寒い」と呟いた。だろうな。もう、季節は十一月なんだ。僕でも少し肌寒いのに、彼女が寒くないはずがない。
僕はウィンドブレーカーの上を脱いで、彼女の頭にかぶせてみる。突然目の前が真っ暗になったことに驚いて、彼女が「わっ」という声を上げる。
「なに?」
「貸してあげる。俺、今そんなに寒くないから」
「え、でも」
「へーき。俺よりも多分、和泉さんの方が先に風邪ひくと思う」
これは本当だ。僕はまだこの下にパーカーを着こんでいるし、先ほどの人魂との追いかけっこでまだ体がほこほこしている。
「え、いいよ。悪いよ」
そう言ってウィンドブレーカーを突き返してきた彼女が次の瞬間盛大なくしゃみをして、僕はそれで彼女の頭を抱え込んだ。
それからまたもう少しだけ歩いて、どこかの小学校の前を通り過ぎて、とある古いアパートの前までやってくる。今にも崩れて消えてしまいそうな、もう本当におんぼろの、昭和のドラマだとか昔のアニメだとかに出てきそうな、二階建ての安アパート。先ほどの廃工場が立派なリアルホラーハウスならばこっちはみすぼらしいバラック小屋。コンクリートだけど。敷地の中では猫が数匹群れていて、月光の下で猫集会を開いていた。
「ここだよ」
そう言って誰のものかもわからないような私有地に足を踏み入れる彼女。僕は一瞬だけ足を竦ませて、彼女の背中を追っていく。僕たちの足音を聞いた野良猫は、ぎゃっとしっぽを震わせると一斉にどこかへ散っていった。
そのアパートは近くで見ると本当に古いものであり、大量のヒビの入ったその壁を色鮮やかなツタが辿っていた。おそらく原色は白だとかクリーム色なのだろうが、雨風に吹かれ変色し、奇妙な腐食した黄色に変貌していた。
前を行く彼女のあとを追い、腐食しかけた階段を歩く。僕は一歩進むたびにそれらの金属は今にも崩れそうなくらいにぎしぎしと軋んだ音を立て、いつ崩れてしまうのではないかと僕の心を煽った。
「和泉さん」
僕は彼女の名前を呼ぶ。階段の上で待っていた彼女は、
「大丈夫。ここ、もう何年も前に廃屋になって、誰も住んでないの」
そういう問題でもないけれど。
ゆっくりゆっくりと今にも崩れてなくなってしまいそうな階段を上がって、その先を行く彼女の背中を追いかけて、やってきたのは6つ並んだドアの内、一番左端の錆びた扉。新聞投函口は錆びついてぼろぼろで、誰が書いたのかもわからないような落書きがスプレーでしてあった。スラング。借金取りにでも書かれたのかと疑ってしまう。
彼女は、その錆びてどろっとしたドアノブに手をかけて、くいっと右に回した。あれ、鍵とか掛けられてんじゃないの? とか一瞬そういった疑問を抱くのだが、彼女があまりにもあっさりとその手を引いて、当たり前のようにして扉を開けたので、僕はそう言った疑問を口に出すまでもなくきょとんと睫毛を瞬かせる。
扉の音は重かった。
ぎしぃしゃぁぁぁ……という、黒板を引っ掻くような音にもよく似た、けれどそれよりもいくらか低い、金属同士の擦れる音。嫌な音だ――僕は一瞬眉をよせ、扉の向こう側にある、闇の世界に視線を寄せる。
部屋の中は真っ暗だった。シャッターだって閉め切られてしまっているから月の光だって入らずに、それこそ本当に闇の中だ。思い切り目を凝らす僕の横で、彼女はどこからか細身の懐中電灯を取り出すと、頭の部分をぽちっと押して部屋の中を人工の光で照らした。目の前がうっすらと明るくなる。畳の部屋だ。玄関の部分が少しだけ段になっていて、目の前にすぐ居間がある。足を踏み入れてすぐ横にある水場には塵も埃も沢山詰まり、汚れたガズコンロには鍋がひとつだけ転がっていた。
彼女が靴を履いたまま畳の上に乗り上がり、部屋の中をぐるぐると照らす。目立ったものはなにもない。浮浪者か不良か、誰かが適当に出入りしているのだろうか。煙草だとか飲みかけのペットボトルだとか、ポテトチップスの袋だとかがそれらの食べかすと一緒にばらばらと散らばっていた。目の慣れない場所で手すりを探すようにして壁に触ると、べっとりとした何かが手のひらに絡みついた。蜘蛛の巣だ。
彼女は、何かを探すようにして狭くて汚い部屋の中をぐるぐると見渡して、人工の光で手当たり次第にそこら辺を照らした。閉め切られた窓。シミのついた畳の上。中身のこぼれた缶コーヒー。障子の破れた押入れ。ぐるりと一通り部屋全体を見渡したあと、彼女は「あれか」と小さく呟いて、ネズミに食われた障子に歩み寄り、膝を曲げた。そこに手を掛けて、がたがたという音を立ててその戸を開く。
そこにあったのは、運動部が使うような、大きめのスポーツバックだった。
何が入っているのだろうか、そのブランドの名前の入った青いバッグは不可思議な形にぼこぼこと膨れていて、なんとも表現しがたいような奇妙な匂いを発していた。異臭。
ごみ山に放置されたようなそれに、僕はとっさに鼻を押さえる。
「それなに?」
口と鼻を押さえているために、声が微妙にくもぐったようになっているが、それでも彼女にはきちんと聞こえていたようだ。彼女はそのぼこぼこと膨れたバッグから目も逸らさずにこう言った。
「これ? セイジ、見たくないのなら見なくていいよ。夢に見ちゃうかもしれないから」
だからなんなんだ、と僕は言う。彼女はそのジッパーに手をかけると、そこから目も離さずにこう答えた。
「森江くん」
ジッパーを開けた、その先にあったもの。
それは、少しばかり奇妙に変貌を遂げた、森江宏樹の体だった。
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