夕暮れのシャッターチャンス【音羽雅】
男性に絡まれるのは慣れている。
ライター、テレビマン、ナンパ男は日常茶飯事。時には同性から声がかかることもある。それが音羽雅という女だ。
「ねえ、この後ヒマ? 良かったら遊ばない?」
「悪いんすけど、友達と約束があるんで」
「そうなの? 俺も混ぜてよ。ここで会ったのもなにかの縁でしょ? 将来同期になるかもしれないんだし」
ただ、まさか就活中に、企業の説明会でまでこの手の輩と縁があるとは、百戦錬磨の音羽雅と言えども想定外だった。
会社の玄関前。手鏡で最終チェックを済ませ、意を決して一歩踏み出そうというところだった。出鼻をくじかれるとはまさにこのこと。
夜を羽ばたく蝶も、フォーマルな場では当然スーツ。変に遊ばずブラックで、しかし蠱惑的な体のラインは出るように。奥の手のために、普通は見えないところに至るまで抜かりはない。
丁寧に磨き上げて来た愛用の武器が、こんな形で裏目に出るとは。
「いや、その友達、めちゃくちゃ人見知りするんで、飛び入りはさすがにちょっと」
「へー、いいじゃん。俺、奥ゆかしい子も好きだよ」
あんたも××できれば誰でもいいタイプか、と心の中で悪態をつきつつ、どうしたものかと思案する。普段なら適当に振るなり上手くおだてて巻き上げるなりするところだが、今日は着慣れないスーツだ。可能な限りトラブルは避けたい。
ああ、まったく、ストレスは肌に悪いのに。
「会社の前で、随分楽しそうだな?」
背後から響くドスの効いた声に、音羽雅は胸を撫で下ろした。
道を譲るようにして振り向くと、背の高い男性の姿。180はあるだろうか。パッと見細身な印象だが、スーツ越しに引き締まった筋肉を感じた。数多の男性を相手取ってきた音羽雅ゆえ、その慧眼も並大抵のものではない。
そしてその男の眼は、人間に向けられているとは思えないくらい冷えきっていた。
「い、いやあ、ハハハ……すいません、会場向かいます」
「必要ない」
蛇に睨まれた蛙とは、こういうことを言うんだな。音羽雅はそう思った。
「え、あ……そ、それって」
「お前のような人間は、うちの会社には必要ないと言ってるんだ」
「すっ、すんませんしたーっ!!」
脱兎のごとく、とはこういうことを言うんだな。音羽雅はそう思った。
「助かりました。ありがとうございます、先輩」
感謝の気持ちは本当だ。ただし、音羽雅は常に気を抜かない。即ち、恩返しの口実ができた、ということ。武器の手入れを欠かさないのは、いついかなる時でも振るえるようにするため。
「すぐに止めなくて悪かった。判断材料が欲しくてな。手を上げるようなら警察も考えたが……まだ先輩じゃないだろう、俺は」
「いーじゃないっすか、細かいことは。てかなんで謝るんすか? こちらこそ、お手数おかけしました」
お堅い印象は変わらずクールな振る舞い。理性的ながら、端々に気遣いが見える。見た目ほど怖くはなさそうだ。恩着せがましく見返りを求めるタイプがたまにいるが、そういうこともない。
「ふふ、かっこよかったっすね、先輩?」
「褒めても内定は出んぞ。俺は人事には関わってないからな」
「もう、そういうんじゃないっすよ。脳みそが股間についてるような男ばっか見すぎて、嫌になってたんすよね」
「……結構はっきり言うんだな」
「みんなには内緒っすよ?」
かっこよかった、これは本当。そういうんじゃない、というのは半分嘘。とはいえ、真面目そうな彼が色仕掛けに乗ってくるとはあまり考えていない。
ただ、ちょっとした可能性と、個人的な好みの問題。未来に向けての投資だ。好意は正直に伝えたほうが、なにかといい。
「先輩、この後時間あります? 人生の先輩に、折り入って相談があるんすけど」
「人事には関わってないと言ったろ?」
「違いますって、もー。先輩みたいなちゃんとした社会人と、もうちょっとお話したいだけっす」
「友達との約束は……まあ、方弁だよな」
「話が早くて助かります。スマートなひとは好きっすよ」
「午後なら空いてる」
「お、じゃあ決まりっすね。そこのコンビニ前で待ち合わせましょ」
間違いは、多分起きない。ただ、ゼロではないし、起きればいいなと音羽雅は思っている。
見ないようにしているのは、理性で本能に抗う動きだから。
男の理性を上手に削ぐのが、音羽雅の本職だったから。
説明会はつつがなく終わった。二人は音羽雅の選んだカフェでお茶することにした。
トイレで身だしなみをチェック。ついでに、シャツのボタンを3つ外す。ちょっと露骨な気もするが、まあ大丈夫だろう。
「おい、なんでボタン外してるんだ」
「だって、スーツだと胸元が苦しいんすもん」
「……目のやり場に困るんだが」
「見ていいのにー。先輩にだけ、特別っすよ? 朝のお礼っす。それに、あたし先輩のこと好きっすから」
「そういう話しかしないなら帰るぞ」
「ふふ、すいません。先輩みたいに誠実な人、珍しくってつい。脈アリかも、って勘違いした男、みんなエロいことばっか考えてるんすもん」
「……美人は美人で大変だな」
「お、褒めてくれます? ありがとうございます。顔とカラダには自信あるんすよ」
「だから」
「あ、すいません、つい。真面目な話もしますから」
音羽雅は、胸元にこぼしたミルクティーを拭いてもらうイベントはナシだな、と普通に口をつけた。やりすぎると本当に帰ってしまいそうだ。
「和気あいあいとしてて、いい会社っすよね、ここ」
「ちょっと緩すぎるけどな。もう少し仕事に本腰を入れてくれれば助かるんだが」
「えー? 楽してお賃金貰えるのが一番じゃないっすか? あ、そうだ、お茶出しとお手洗いは業務時間にカウントされます?」
「給料分は働けよ。ほんとに仕事する気あるのか?」
「まーまー、カタいこと言わないで。それに、先輩は人事には関わってないんでしょ? ちょっとくらい砕けた話してもいいじゃないっすか」
「……確かに、まあ。そういう考え方もあるかもしれないが」
「いやー、有能が隠しきれないっすねー。困ったもんっす」
「あのなあ……はぁ。確かに、うちの会社には合ってるかもな」
ため息をつき、彼はアイスティーを1口。
「周りも上も、能力が低いわけじゃないんだが。どいつもこいつも、冴えた頭で考えるのは、上手にサボることばかり。どうしてあんなにやる気がないんだろうな」
彼――霧島涼介は、冷たい愚痴を吐き出した。
わかっている。わかってはいるんだ。
その冷めた言葉が、自分に向けられたものでないことは。
「どーせあたしはお水の女っすよ」
けれど、なんだか。自分の選択を、生き方を、真っ向から否定されているような気がしてしまって。
「すまん。そんなつもりじゃ」
「べっつにー。真面目な先輩には縁のないお仕事っしょ?」
彼の真面目さ、正義感の強さを知っているからこそ、彼に少なからず好意を抱いているからこそ、彼の口からそういう言葉が出てきたことが、なんだか無性に悔しくて。
「態度デカくても、タバコ臭くても、デリカシー無くても、金を落とすなら客は客。財布の中身が一緒なら、紳士だろうがクズだろうが、一律でサービスしてやんなきゃいけない。それがあたしらの仕事だから」
どうしても。彼にだけは、理解してほしくて。
「そういうの、もう、疲れたんすよ」
――はっと我に返る頃には、全てを曝け出してしまっていた。
「……あー。先輩、今の、聞いてました?」
「そりゃあ、まあ」
「…………だーっ! クソが! なーんで初対面の先輩にこんなつまんねー話してんでしょーね! はああ、もー、わざわざ時間かけて好感度落とすような真似して、なにやってんだ、あたしのバカ!」
「おい、落ち着けって」
「もういいや、先輩、ホテル行きましょ! 全部忘れさせてあげますから! 今日一日のお礼! ねっ!」
「落ち着けっての。ったく、手のかかる後輩だな。……すみません」
彼は近くの店員に声をかけた。少し前からこちらの様子を見て見ぬ振りしていた店員は、急に呼ばれてたいそう驚いた様子だった。
「デラックスイチゴマウンテンひとつ」
「……か、かしこまりました」
復唱するのも忘れて、居心地悪そうにそそくさとその場を去る。常連の音羽雅でも初めて見るうろたえ方だ。
「よくまあこの流れで注文いきましたね。それもめちゃくちゃボリュームあるやつ」
「奢りだ。好きなだけ食え」
「はい?」
音羽雅は目を瞬いた。
「内定、もうどこかから出てるのか?」
続く言葉も、同様に理解できなかった。
「……は? え? 正気っすか?」
「おい。砕けすぎだろ、いくらなんでも」
「いや、っていうか、人事と関係ないって話は?」
「直接の関わりはない。けど、まあ、なんとかなるだろ。自分で言うのもなんだが、業績いいからな、俺。客観的に見て、信頼されてる……と、思う、たぶん」
「急に自信無くさないでくださいよ」
「すまん。まあ、内定がダメでも、相談くらいならいつでも乗ってやる」
アイスティーを一口。行き場を失っていた視線は、今はまっすぐ音羽雅の瞳へ注がれている。
男に見られるのも、慣れている――はずなのに。
「頑張ったやつには、頑張ったぶんだけいいことがあるべきだ。けど、世界はそういう作りにはできてないから、誰かがバランスを取らなきゃいけない。……らしい。まあ、先輩の受け売りなんだが」
しまった、と。手遅れになってから、思う。
恋愛は惚れた方が負けだ。その道で腕を磨いてきて、数多の男を惚れさせてきて、よく知っているはずなのに。
「簡単に埋まるもんじゃないだろうが、足しにしてくれ」
あんなに冷たいことを、突き放すようなことを言っておいて、今度は全部わかってるみたいに。
住んでる世界が違うんだって、諦めかけたところだったのに。
こんなの、いくらなんでも、ずるい。
「――はー、ダメダメっすね。先輩、モテないでしょ?」
「は!? な、なんだ急に」
「看板商品選んどけば喜ぶと思ってるあたりが浅いすっよね」
「なっ……そんな言い方はないだろう!?」
「あたしの紹介したお店っすよ? ド定番の看板商品なんて飽きるほど食べてるに決まってるっしょ? 今日は栗の気分なんすよねー。頼んでもらっていいっすか? イチゴの山は先輩一人でどうぞ」
「ぐ、むう……確かに、勝手に頼んだのは俺が悪いが……」
「女の子へのプレゼントは一緒に選んだ方がいいっすよ。間違いがないんで。もしよかったら、この後あたしオススメのお店、寄っていきません?」
「……ホテルじゃないだろうな?」
「まっさかー。先輩のエッチ」
「あのなあ……30分で足りるか?」
「もち。そんじゃ、早いとこ平らげてくださいねー」
本気で惚れたと悟られるのは、まだ怖い。
同時に、もし告白でもしてみたら、どう反応してくれるのか、興味はある。
まだ、その時じゃない。軽い女だと思わせるのは得意だけれど、彼は本命だから。
数分後。
イチゴの赤とホイップの白が折り重なった前衛芸術を前に、霧島涼介は戦慄していた。
「音羽。腹、減ってないか?」
「あたしカロリー管理してるんでー。痩せるときは胸からっていうでしょ? お胸とお尻以外に余分な贅肉つけたくないんすよ。いやー、お手伝いできなくて残念っす」
「……やるしかない、か」
「あ、ちょっとストップ」
音羽雅が黄色のスマホを取り出すと、アゲハチョウのアクリルストラップがひらりと揺れる。
サッと構え、パシャリと1枚。慣れた手つきで画面に収めた。
「撮れたか?」
「うん、いい感じ。食べていいっすよ」
「よし……」
巨大ないちごパフェと決死の格闘を繰り広げている間、音羽雅はずっと、霧島涼介の顔を目に焼き付けていた。
一人がこんなに寂しく感じるのは初めてだ。
いつもなら、社交辞令だのサービスだの、気遣うことがなくなってせいせいしていたのに。
「お姉さんかわいいね。暇? 一人?」
男性に絡まれるのは慣れている。
一人の男に夢中になるのは、初めてだ。
黄色のスマホをサッと取り出す。アゲハチョウとライオンのアクリルストラップがひらりと揺れる。
慣れた手つきで画面を叩き、真剣な顔で巨大いちごパフェに対峙する男の写真を見せた。
「悪いっすけど、彼氏いるんで」
音羽雅は、誰もを魅了する笑みで、ここにはいない人に向けて、はにかんだ。
今日のことは、きっと一生忘れないだろう。
忘れたくても、忘れられないだろう。
もしこの時、霧島涼介には付き合いたての彼女がいると、知っていたとしても――きっと、自分は同じ選択をしただろう。
「先輩。この写真、待ち受けにしていいっすか?」
「ん? ……おお、懐かしいな。まだ持ってたのか」
「バックアップもしっかり取ってますよ。現像もしました。2枚」
「っていうか、これ、パフェじゃなくて俺がメインになってるじゃないか」
「そーっすよ? 今更気づいたんすか? 何度も食べてるなら、写真なんて持ってるに決まってるでしょ?」
「言われてみれば……」
「なになに? なんの話ー? ……うわ、なにこれ! おいしそー!! え、リョウくんいつ行ったのこれ!? ずるい!!」
「次の休みにでも行きますか? 今度は3人で」
「だな」
「いいの? よくわかんないけど、2人の思い出なんでしょ?」
「なに遠慮してるんだ? らしくない」
「あの日の先輩、めちゃくちゃかっこよかったっすからねー。そういう話、たくさんしてあげますよ。美晴さんが嫉妬するくらい」
「わーい、楽しみー! あと嫉妬は既にパフェでしてる!!」
「欲に正直っすね、美晴さん」
「まったくだ。次の休みに予約入れとくからな」
「はーい!」
「お願いしまーす。……あ、そうだ」
擦れてしまった紐はすげ替え、レモンイエローの本体は最新機種。アゲハチョウとライオンは、あの時のまま。
「カフェのあと、ちょっと寄りたいお店があるんすけど、いいっすか?」
もう間もなく、イルカのアクリルストラップが仲間入りする予定だ。
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