別府精一(警察官)【9】

「いや、俺も」と言いかける八房を制す。周囲の状況を顎で示し、犠牲者たちに注意を促してやった。一瞬だけ下唇を嚙んだ八房は、大きく一度うなずくと、また倒れた女性の許へひざまずいて声をかけ始めた。その様子を横目に、別府は駅ビルの入口へと急いだ。

 非番の日にこんなことをする必要はない。非番の日に管轄外のことをしてはいけない。それは警察官としての自分の声だ。初めて制帽をかぶった日から毎日積み重ねてきた知識と経験が、落ち着いた口調でそう繰り返していた。

 だがいま別府を衝き動かしていたのは警察官になろうとした自分――もっとずっと昔の自分――であり、彼は自分におとなしく待っていることを許さなかった。誰かが間違いなく襲われている。助けるのに手帳や拳銃や管轄が関係あるはずはない。むしろ非番だからこそ、どこにいようがどこに行こうが構わないのだ。広場を半分ほど横切ったとき、店内から、聞き違えようもなく銃声が聞こえた。既にそのときには全力疾走になっていた。

 入口を抜け、タイル張りの廊下でたたらを踏む。入って右手の廊下のほうで、暴徒が警察官と揉みあっているのが見えた。制服姿の警官が数人がかりで、誰かを廊下に組み伏せている。近くまで行かないとよくわからないが、別府は、拘束されているのが学生服の子供のように見えて当惑した。ひと塊になった彼らの手前で、へたり込んだ若い警察官が同僚に抱えられている。怪我をしているようだった。

 騒然とした乱闘の場から、エレベーターへと目を向ける。中で鮮血が飛び散っていたエレベーターの乗り口は、しかしもはや閉じられており、それに上昇しているようだった。階数表示が「3」から「4」へと切り替わる。そのとき、エレベーターの扉から続く血痕に別府は気づいた。血がしたたる跡が、一階の廊下を点々と汚し、暴徒が制圧されているそばを通り、救急車が突っ込んだ店のところまで続いている。

 それでは、車で突っ込んだ犯人が、怪我をしながら廊下を渡り、エレベーターに乗り込んで、中の人を襲った?

 確信はないが、そんな推測が成り立つ。単独犯ではない。あそこで取り押さえられている以外にも、何者かが被害を広げている。別府は目をあげ、もう一度エレベーターの階数を確認した。「5」でしばらく停止している。では5階でおりたのか。隣のエレベーターは待たず、近くのエスカレーターで五階まで駆け登ることにした。途中で非常ベルを鳴らし、全店に警戒させることも忘れなかった。

 だが、突然でたたみかけるような衝撃の連続で自分でも忘れかけていたものの、彼はいま二日酔いの状態だった。意識は明晰でも、肉体のほうがもう保たないと悲鳴をあげている。三階、四階と駈けあがるうちに息があがり、胸と腹が痛み、膝が震えだした。五階の床に達したときにはほとんど呼吸困難に陥り、涙で視界が滲むほどだった。

 両頬を叩き、なんとかエレベーターのほうへと向かう。だがそこまで辿り着くまえに、横手から聞こえてきた大きな悲鳴に足を止めた。複数、もしかしたら数十人にもなる悲鳴。こっちか、と顔を向けた先から、どっと人波が溢れ出した。みな動揺しきっており、揉み合い、押し合いながら一目散に走り出てくる。

 あそこはスポーツクラブだ。では犯人はここへ入り、何かしでかしているらしい。別府は人々が逃げ出す許へと急いだ。

 フロアに駆けこんだ別府にまず見えたのは、大柄な男。身長が二メートル近くはあるだろうか。筋骨隆々でボディビルダーでもしているのかというほど図体がデカい。彼は別府に背中を向けていた。スポーツクラブのロゴが入ったシャツを着ているが、それではここのスタッフだろうか。だがそのシャツは大量の血に染まり、一見して普通でないことがわかる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

…オブ・ザ・デッド @xerd004DW

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ