第42話


 そして、誰もいなくなった。




 俺の放課後を一言で表現するとそんな感じだった。

 少し前まで定員一杯だった理科準備室は俺しか訪れない。コーヒーの香りだけが漂う空間。平和で、静かで、――もの寂しい。


 俺はコーヒーを流すと理科準備室を出た。


 雨の日の廊下は薄暗く湿っぽい。梅雨が近いのだろう。曇天が重く垂れ下がった中庭にはアジサイが咲き誇っている。



「桜木ハルって偽名よね? 本名は何て言うのかしら?」



 不意に囁くような声がした。


 首を回すと、俺と同じように窓の外を眺める姫条がいた。廊下は何人もの生徒が通り過ぎていく。姫条の声に反応して、ちら、とこっちを見た生徒がいたが、何も言うことなく遠ざかっていった。


「おまえに明かす個人情報はないな」

「そういえば、記憶がないって言っていたわね。あなたの未練って、記憶を取り戻すことなのかしら?」

「知らねえよ。知ってても、おまえには言わないけどな」


 言いながら俺は、違うと思っていた。

 俺の未練は記憶を回復させることじゃない。じゃあ、何かと問われたら答えられないが、それじゃないという確信めいたものがある。


 おそらく、記憶を失ったことで俺は自分の未練も忘れてしまっているのだ。


 俺の魂をこの世に留めた強い願いとは、何だったのか――?




「……おかしいわね」




 姫条が思案げに言った。


「マユリみたいに普通、幽霊は未練を叶えてあげると言えば協力的になるものよ。だって彼らは未練を叶えたいがために現世に残っているのだから。順番が逆になることはない」

「そうかもな。だけど、俺は――」


 消えたくない。


 そう言おうとして気が付いた。ほんの少し前、幽霊になりたてだった頃と真逆のことを思っていることに。


 マユリがいて、雲林院先生がいて、陽來がいて、姫条がいて、まるで、本当に学校生活を送っているような気分だった。こんな生活が続くのも悪くないと思い始めていたのだ。



 キミは肉体が欲しくないの?



 誘うような声が甦った。考えちゃいけない。それを考え始めたら、出口のない迷路で苦しむのはわかっているから。



 俯いた俺の視界の端で、姫条が息をつくのが見えた。


「……あなたには知ってもらった方がよさそうね。私たちのもう一つの仕事を」

「もう一つの仕事?」


 姫条は「ついてきなさい」と言うと、廊下を歩き始める。俺は流れる黒髪を見つめること数瞬、素直にその背中を追った。

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