第7話 涙
二学期の初日は、まだギラギラと夏の日差しが輝く、朝から暑い日だった。うんざりした気分で教室へ入ると、すぐに優衣は香織に呼ばれた。
「おはよー、優衣。ねぇ、ちょっと来て」
言われるまま、香織のもとへ向かう。その周りにはいつものように、香織と仲の良い女の子たちが集まっている。
「ほら、見てよ、あれ」
香織の指先を目で追いかける。そこにはランドセルを背負ったままの男の子が、ぼんやりと突っ立っていた。
「裕也……」
思わずつぶやいた優衣の耳元で、香織がささやく。
「めずらしいよね、あいつが朝から学校来るなんて」
優衣は黙って裕也の姿を見つめる。
「だけどせっかく来たのに、かわいそう」
そう言った香織がくすっと笑う。
立ちつくす裕也の前に机がなかった。裕也の机だけがそこから外されていた。
――ひどい。誰かが裕也の机を隠したんだ。
すると裕也は、ランドセルを床の上に投げ捨て、後ろの席に集まっている男子のところへ真っ直ぐ向かった。
「おい。俺の机、どこやったんだよ」
裕也の目の前には翔が座っていた。翔は裕也を見上げながら、他の男子と一緒に、にやにや笑っている。
「俺の机、どこだよ!」
翔の指先が窓の外を指す。グラウンドに面した三階の教室のベランダに、机がぽつんと出されていた。
「だってお前、学校来ないじゃん。机あっても邪魔だから、外に出してやったんだよ」
おかしそうに笑い出す男子と一緒に、香織もくすくすと笑っている。優衣はその笑い声を背中に聞き、ぎゅっと両手を握りしめた。
――こんなことして、いいわけない。
そう思うのに、言葉が喉元で引っかかって出てこない。
裕也は黙って窓の外を見ていた。けれど次の瞬間、いきおいよく翔に近づき、その胸元を乱暴につかんだ。
女の子の悲鳴が「きゃあ」っと響く。それと同時に、優衣は駆け出していた。
「だめっ!」
いまにも殴りかかりそうな裕也の前に出て、振りあがった右腕をぎゅっとつかむ。
「七瀬……」
裕也の唇がかすかに動いた。優衣は震える手で裕也の腕を握りしめる。
「殴ったりしたら……だめ」
優衣に握られた裕也の腕が、ゆっくりと下に降りる。翔がそれを見て、にやりと笑ってつぶやいた。
「やっぱりお前ら、つきあってるんだ?」
優衣はあわてて手を離す。そんな優衣をかばうように、香織の声が聞こえる。
「違うよ。優衣は裕也のこと、嫌いって言ったもの」
胸がズキンと痛んで、優衣はうつむいた。
「裕也みたいにすぐ暴力ふるうやつ、優衣は嫌いって言ったよねぇ?」
香織の声が教室中に響く。優衣がゆっくり顔を上げると、黙って立っている裕也と目が合った。
「裕也……あたしは……」
だけどその続きが出てこない。裕也のことを『嫌い』と言ったのは本当だ。そんな優衣の前で、裕也がいつものようにかすかに笑った。
「裕也?」
優衣の体を裕也が押しのける。そして翔の机を持ち上げると、それをベランダまで運んだ。
「お前っ……なにするんだよ!」
翔があわてて駆けつけた瞬間、机はベランダのフェンスを越え、グラウンドへ向かって真っ逆さまに落ちていった。
「うそだろー」
「裕也が翔の机投げたー!」
「せんせー! 早くせんせー呼んでー」
ざわめく教室の中、優衣は裕也のもとへ駆け寄った。
「俺は平気だから」
そうつぶやいた裕也が、ゆっくりと振り返る。
「嫌われても、ひとりでも、俺は全然平気だから」
呆然と立ちつくす優衣の前で、裕也が小さく笑う。そんな裕也の向こうに、青い空が見える。
『鳥になれたらいいのになぁ……』
あの日聞いた裕也の声が、なぜか優衣の耳にもう一度聞こえた。
「裕也、また校長室に呼ばれたって」
「もう先生たち激怒だよ。下に誰もいなかったからよかったけどさぁ」
「ほんとサイテー。あいつ何考えてるんだろ」
帰りの支度をしながら、優衣はクラスメイトの声を聞く。裕也が翔の机を、三階から投げ落とした事件は、あっという間に他のクラスまで伝わっていた。
「ねえ、優衣?」
突然名前を呼ばれビクンとする。すぐそばに香織が立っている。
「あんたさっき、裕也のこと止めたよね? 裕也の腕つかんでさぁ」
「あれは……」
振り返ると、女の子たちがみんな優衣のことを見ていた。その中に、亜紀の姿もある。優衣は亜紀から視線をはずすと、うつむいたまま小さな声で答えた。
「あれは……あのままじゃ、翔が殴られちゃうから……」
香織が口元をゆるませ、優衣の腕に自分の腕をからませた。
「そうだよねぇ、優衣は翔のこと、かばってくれたんだよねぇ」
曖昧にうなずいた優衣の腕を、香織が引っ張る。
「優衣、一緒に帰ろう」
「……うん」
「今日うちに遊びにおいでよ。ね?」
香織に連れられ、女の子たちのグループと一緒に教室を出る。
みんなのおしゃべりを聞きながら、優衣は裕也のことを思っていた。
『嫌われても、ひとりでも、俺は全然平気だから』
――あたしは……嫌われるのも、ひとりぼっちも嫌だ。
だけどみんなと帰っても、全く楽しいと思えない自分に、優衣はとっくに気づいていた。
「授業を始める前に、みなさんにお知らせがあります」
あの二学期最初の日から、裕也はまた学校へ来なくなった。そして一週間が経った頃、担任教師が黒板の前で言った。
「三浦裕也くんが、おうちの都合でお引越ししました。学校も別の小学校へ転校しました」
教室中がざわめきだす。優衣は信じられない思いで、窓際の席を見る。
だけどやっぱりそこに裕也の姿はなく……誰にも座ってもらえないままの机と椅子が、朝の日差しにただ照らされていた。
「裕也って、一学期に翔のこと殴ったじゃん?」
休み時間、クラスの女の子たちを集めて、香織が親から聞いたという話を自慢げに話し出す。優衣もみんなに混じって、そんな香織の話を黙って聞いていた。
「でさ、翔のお父さんってPTAの会長じゃない? かなり怒ってたところを先生たちが何とか収めてたみたいなんだけど、そこであの机事件でしょ。翔のお父さんもブチ切れて、裕也の家に怒鳴り込んでいったんだって。『お宅は息子にどういう教育をしてるんだ』って」
香織がちらりと優衣の顔を見て、そしてまた続ける。
「けど裕也のお父さんも、めっちゃ怖そうなヤバい人だからさ。謝りもしないで、ケンカになったらしいよ。結局『ふざけんな、こんな学校こっちから出てってやる!』って、裕也のほうが出て行くことになったんだって」
「うわ、マジでー?」
「こっわー」
女の子たちが騒ぎ出す。優衣はさりげなくそんな輪から抜けた。
「優衣? どこ行くの?」
教室から出て行く優衣の背中に、亜紀が声をかける。
「ごめん、ちょっとトイレ」
優衣は亜紀にそう告げて、廊下を駆け出した。トイレへ駆け込み、個室のドアを閉め鍵をかける。その瞬間、こらえていた涙がぽろぽろとあふれ出した。
「う……え……ええん……」
雨に濡れた黒いランドセル、ふたりで歩いた夕焼けの道、シロに頬ずりしたときの裕也の笑顔、鳥になりたいと思った真夏の空……。
優衣の胸に、裕也との思い出があとからあとからこみ上げてくる。
「ごめん、裕也……嘘ついてごめんねぇ……」
『嫌い』なんかじゃない。『嫌い』なんかじゃないよ。
――裕也と、もっと一緒にいたかった。
そう思ったら、優衣の目からまた涙があふれてきた。
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