イナリィズ!

織倉未然

第1話 かくして少女は稲妻になる

1-1 A is for Amnesia

 わたし達は、点だ。星のように。


 目瞬きせずにずっと見ていれば、きっと線にもなるだろう。北極星を中心にぐるぐると、円を描くことだってできるかもしれない。

 しかしこれはわたしの言葉ではない。誰かがそっと囁いた言葉。耳に聞こえたものでなければ、どこかで読んだ言葉だろう。わたしが閃いた観念でないのは確かだ。何者かに、何らかの手段で、そう吹き込まれた。おそらく地球と呼ばれる惑星の、いつかのどこかにいた誰かから、時空を越えて。

 どうしてこのイメージが頭から離れないんだろう。

 

 わたしの外側にいる者から「あなたはあの星を中心に回って見えるんですよ」と囁かれたところで、わたしには何のことかわからないだろう。なぜなら、その星を中心にした覚えなどわたしにはなく、ただここでぽつりと佇むだけだから。

 一方で、突然生じた覚えがないのも事実だ。そういう考え方はちょっと理解に苦しむ。時に対してシャッターを開き、そのままホールド、しばらく待てば、きっと軌跡が目に見える。そう信じたかった。

 今は点にしか見えない星にしたって、自然の摂理に則って、見えない軌道をやって来たのだと。そこにはある種の物語があり、あの星の光は歴史が結晶化したものなのだと。北極星ほどわかりやすい中心でなくても良い。もっと別の何かと、宇宙的なダンスを試みて、その結果が現在おかれた地点なのだと。

 まるで落ちてきた星のようなことを言っている。あるいはその通りかもしれない。人知れずここに辿り着き、見えない軌跡を手繰り寄せるようにして、わたしはずっと明るい空を見上げていた。太陽は真上にあり、仮想の軌跡は夏の日差しに溶かされ、陽炎に流されてしまっていた。

 どうにも夏のようだった。

 星の姿も塗りつぶすような、真っ青の空が広がっていた。雲ひとつなく、自信いっぱいで、張り詰めんばかりの群青に、鯨の鳴きそうな空だった。

 わたしは目を閉じる。瞼を下ろして、シャッターを切る。見えない糸を断ち切るように強く、しっかりと。

 再び目を開けたとき、空は変わらず深い青で、わたしを見つめ返していた。ここが今のわたしの限界だった。手を伸ばしてみても、到底全てを覆うことはできなかった。何にも届かず、ただ日に焼かれるだけだった。刺すような暑さ。そしてその痛みが、わたしに、自分がここにいることを、この惑星の上で生きるしかないことを告げていた。

 仕方がないので、拳を握った。そのまま下ろして、ベンチの背もたれに寄りかかっているのもやめて、姿勢を少し正す。左手に持ったままの身分証に目を落とした。覚えのある限り、これを見たのは三度目。おそらくもっと何度も見ているだろうが、記憶にない。

 そう、「記憶にない」――これが問題だった。


 カードをくるりと回して、左手の親指を当てる。指紋で本人認証を取ることはもうわかっていた。カードの表面が透けて、個人情報が浮かび上がる。顔写真もある。見覚えはあるが、馴染みはない。それが自分の顔だということも、わかっている。携帯端末のカメラで確認したのだから間違いない。名前も書いてある。

「フラヌイ・ヒトミ」

 口に出しても実感に遠い。空に泳ぐ鯨の歌のように遠く聞こえる。名前を告げるその文字列と、顔写真と、指紋の一致は、それぞれ独立して互いに離れた点に思われた。星座が思い浮かばないのだ。そこにわたし自身が当たらなかった。

 わたしには思い出せなかった。だから星に逃げたのだ、と今になって思い至る。それだけ離れれば、この三つの点も全部重なって、ひとつの点に見えるのではないかと、あるいは軌跡を辿れば同じポイントにつながるのではないか、とそう考えた。目瞬きさえしなければ――散りばめられた星の回る中心が見えるように。

 今のところ、全ての試みは失敗に終わっている。星座の名前を言われても、それがそうだとわからないように、これらの事実がわたしを示すのだということが、ピンとこなかった。

 だからわたしはこう述べる。


 フラヌイ・ヒトミは記憶喪失である。


 そしてこの名前が、わたしと彼女の接点だった。


 それがこの虚空voidの呼び方になった。


・・・♪・・・


 空は落ちて来そうなほど濃厚な青色をしていて、雲ひとつなかった。日差しは強く、石畳に照り返す光が、体中を焼いていた。汗が次から次へと湧いてくる。まるで海の中を泳いでいるように息苦しい。

 それでも、彼女の呼吸は落ち着いていた。一度謎が解けてしまえば、遅かれ早かれ、それを受け入れる他ない。慌てたところで記憶が戻ってくるとも思えなかったし、そもそも慌て続けることもできそうになかった。脳みそが茹で上がってしまう前に、まずは日陰に移動した方が良いだろう。自分のアイデンティティを悩むには、今日の日差しは強すぎる。

「わたしの名前、わたしの名前……」

 映画俳優の名前が思い出せないようなものだ、と彼女は考えた。そういうことなら、今までもきっとあっただろう。まさか全ての映画俳優を覚えていたということもなかろうし、忘れること自体は誰にでもある。

「名前のない俳優がいたとも思えないし」

 であれば、それは調べればわかることなのだ。彼女は結論づけて、自分を勇気づける。自分の名前にしても、調べる手立てはあるはずだ。

 幸運なことに、彼女には持ち物があった。小さめのショルダーバッグとスーツケース、ポケットにはパスケースもある。可能性は十分にあった。

 当然服も着ているわけだが、薄手のパーカーとジーンズからは自分の名前を見つけることはできなかった。ただ軽装を好み、あまりファッションに興味はないということは推測できただけだ。

 そう、推測。推理をしていくことになる。

 自分が何者で、どこから来て、どこへ行くのか。

 スーツケースを転がしているということは、この街を出ようとしたところか、それともこの街にやってきたばかりといったところだろう。どちらかはわからないが、開ければ何かわかるかもしれない。

 しかしその前に――彼女は空を見上げる。目がくらむ――移動しよう。

 駅前の広場を横切る。ちょっとした庭園のようになっていて、中央には噴水がある。その周りにはデッキチェアが置かれていて、体を焼いている人たちがいる。彼らはそれが自然であるかのように、寝そべっている。

 思うほど気温が高いってわけじゃないのかも、と彼女は思った。わたしが暑さに慣れていないだけで……ってことは、寒いところから来たのかな。少なくとも、この街の人間ではないみたい。彼女は、自分が彼らと同じように、日焼けしようとしているところを想像してみた。ああやって水着を着て、光合成をしているところ――多分それはわたしじゃない。

 でも、本当に?

 わたしには記憶がない。だったら、それは白紙だということではないだろうか。どんな自分になれるということでは。この街の日向ぼっこ好きなひと達と同じように、デッキチェアに寝そべってみるのだ。

 そういう自分を作っていくこと。

 風が吹いて、噴水の水が飛んでくる。ささやかだが生き返る思いがした。そういう生き方もアリかもしれないな、と一瞬だけ考えた。水滴の蒸発する一瞬の間だけ。


 噴水をぐるりと回ったところに、アイスの屋台を発見した。砂漠を彷徨う白熊の気分だった彼女は、ほうほうのていでそこにたどり着く。息も絶え絶えに、強い炭酸水とヌガーチョコレートのアイスを頼む。彼女はこの選択をほとんど無意識に行ったわけだが、支払いを済ませたあとで、果たして自分の好みと合致しているのだろうか、と思った。しかし、この点についても深く検討することはできなかった。今はそれどころではない。

 屋台の前には、いくつかパラソルが差してある。その下に彼女は座って、震える手でペットボトルを開ける。溢れるのも気にせず、勢いよく流し込む。強い炭酸が舌を焼き、頭蓋骨の中で溶けていた意識を蹴り飛ばす。生きていることを実感した。

「そんなに美味そうにサイダーを飲む子なんて初めてみたよ」と店主が笑う。

「死ぬかと思ったんです」

「そんなに暑いかね。お嬢ちゃん、この街ははじめて?」

「そう思います」

 言いながら、彼女はヌガーチョコレートのアイスにスプーンを立てる。硬いはずだが、すでに若干溶けている。受け取ったときは硬かった。気温がそれほど高いか、それとも彼女自身の体温が高いか。あるいは、その両方かもしれない。

 構うもんか、いただきますの心境だった。

 夏のアイスがひとを魅了するのは、単に冷たいからではないのだな、と彼女は思った。冷たさは表紙パッケージであり、そこに凝縮されたある種の物語が、溶け出して、昇華するところにこそ本質がある。暑さを忘れさせるほど濃密な、非日常的な感覚。それが舌から脳を直に射す。

 冷たさの魔法が溶けて、まず口内に広がったのはカカオの苦味と香りだった。これは煙幕のようでもあり、蠱惑的な夜の帳のようでもあった。あるいは門番、それとも案内人。その暗く神秘的な影が去ったかと思えば、次に開けるのは異国情緒あふれる糖度の高い空間だ。ピスタチオと蜂蜜、そしてキャラメルの甘さが、混じりあって蕩けている。密度の濃い、纏わりつくような甘さが彼女を酔わせにくる。

 二口、三口と咥えていくたびに、それぞれの要素は混じり合っていく。順は不同に、配置も無作為ランダムに。同じ映画を早回しで見ているような気分になる。はじめに出来上がっていた構造は融解し、それが諸要素の印象を強化することになる。化学変化も起こる。

 もはやここまで来ると、自分が何を食べているのかわからなくなってくる。カカオ、ピスタチオ、蜂蜜とキャラメル――そういったフレーバーがあったことは思い出せる。でもそれは本当に独立していたか? 最後には全てが溶け合ってしまった。

 彼女はもう一口を求めて、カップの底をスプーンですくった。もう何も残っていなかった。そこでようやく、自分がアイスを食べ終わってしまったのだと気づいた。

 しばらく、自分がどこにいるのかわからなかった。

「ごちそうさまでした」と彼女は言った。

「美味しかったかい?」

「ええ、とても……」

「この街の名産だよ。名産って言うとちょっと違うかもしれんがね」と店主は言った。「僕がここでこういう店を出しているのにはちゃんと理由があるんだ。こういう日にはよく売れるってだけじゃなくて、この街はそういう街だ、って――看板みたいな意味もあってね」

 彼女は炭酸水を飲んだ。そのホップで今の体験を再起動しようとしたからだった。

「”そういう街”、ですか?」

「この街は不思議なことが起こる街なんだ」と彼は言って、ガラスケースの上に両腕を重ねる。鼻筋の立った男性。目の大きさといい、彼女はラクダを連想する。「色んなモチーフが野放しになっていて、混じりあっている。溶けたアイスみたいに、おとぎ話みたいな出来事がぐちゃぐちゃになっているんだ」

 彼女にはそれが具体的にどういうことなのか、よくわからなかった。

「抽象的すぎるか」と彼は誰にともなく言う。

「いえ、でも」彼女は飲み終わったペットボトルの蓋をキリッとしめる。「面白そうだな、とは思います」

 そう言うと、ラクダの店主は得たりというように笑った。

「それは良かった」彼はペットボトルをもう一本投げて寄越す。「それはついで。この街のことを気に入ってくれると嬉しい。良い街だよ」

「ありがとうございます」

 彼の言っていることはいまいちわからなかったが、ああいうアイスを食べた後では前向きに捉えられそうな気がしていた。

 今の彼女には何もわからない。自分が何者かも定かでない。だから、今の彼女には全てが不思議なものとして見えている。判断の基準になる経験がほとんど欠けているのであれば、彼女は白紙だ。なんだって書き込むことができる、まっさらなノートのようなもの。

 目にするものは大抵が謎である。

 いつだって初めてというのは不安なものだ。それは変わらない。けれども、新鮮だということは、それだけで輝かしいものだ。いいんじゃないかそれで、と彼女は思うことにした。

 謎にしても、ひとつひとつ解いていくほかない。

 まずは身の回りから確かめよう、と彼女は思った。

 ショルダーバッグにスーツケース、パスケースに携帯端末。着の身着のままというわけでもないのだし、何かしらヒントも見つかるだろう。


・・・♪・・・

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