10-3
そのようにして時間は過ぎていくのだけど、周囲の緊張のレベルは確実に上がっていた。
この日は同僚と二人での偵察飛行だ。小雨が降っていた。昼頃には止むらしいけれど、飛行機乗りにとって忌まわしい天候なのは間違いない。
戦場指定空域が他の空域とまるで違うところは、基本的には下に人間が住んでいないところだ。例外は拠点を強襲する場合のみ。あとはこういう、偵察飛行の遭遇戦か。企業間戦争に巻き込まれて出る年間死亡者数は、交通事故の死者数より少ない。というのが企業の報告。
他社の支配地域の近くを飛ぶため、低空を維持。
雨粒がキャノピィを逆さまに伝っていく。
油温と油圧をざっと一瞥。
戦闘会社が攻撃可能な拠点には、基地や司令施設(これらは民間施設に偽装することは禁じられている)、それが存在する空港。それに軍需工場、そして
支配地域といっても、別にはっきりと分かる境界線が引かれているわけじゃあない。だから侵犯は「気づいたらしてしまっている」ものだし、相手も「気づかなかったから許してほしい」という言い訳が通用する。こういうのはシビアにしすぎてもいいことは基本的にない。ファジィなほうがいいのだ。それは例えば、戦いをふっかけたい側にとっても。
緩やかだけど深い起伏の地形が続く。この辺りにすっかり民家はなく、道路もろくに整備されていない荒いものがちらちらと見えるだけだ。
木々の類がきれいに刈り取られているのは、土地柄なのか戦場指定区域だからなのか。かなり低空なのにその辺りの心配をしなくていいのは、精神的にはかなり楽だ。敵の索敵網に映らないように飛ぶにあたり、電線や森はかなり有効な障害物たり得るけれど、そういうのを普段は警戒しないといけない。
クーガーのエンジン音は快調。この会社には腕のいい整備士がいる。良い会社に雇われたな、とは思った。今のところ不満は特にない。あとは給料日に金がきちんと支払われることと、トラブルの時にどんな対応をするかが見極めどころだろう。
隣を飛ぶのはコイントスというコードネームの男だ。確かセントラル襲撃の時にも一緒に飛んだはず。訓練飛行で見た限りでは良い腕だ。こうして飛んでいても、風の影響をほとんど受けず、一定の高度を保つという技巧を難なくこなしている。かれから入電があったのは、僕が地図上の境界線を思い出そうとした矢先だった。
「もうすぐ戦場指定区域を抜ける。何か見たか?」
「対空砲の類は見あたらなかった。特に相手側の仕掛けはないと見ていいと思う」
「分かった。俺も同意見だ。向こう側を軽く流してから帰投する」
「了解」
偵察行動は戦場区域ではなくても許される。ただしそこで発生した戦闘は状況次第で補償の対象になったりするリスクがある。このあたりもやっぱりファジィで、何が何でも撃墜したい敵だったり、何が何でも庇いたいパイロットだったり、そういうファクタが絡んでいる場合には会社が動いてフォローする場合はたびたびある。たいして腕や実績のないパイロットがこれをやると、些細なことでも契約違反に該当する場合もある。
地図を見た限りでは、まだこの辺は民間の家は少ない。戦場の近くに住みたがる人間なんて少ないし、あったとしても自分の責任の元で暮らしている人々のみ。つまり戦闘が起きてもまだ問題のない地域。恐らく偵察飛行のプランを立てた段階で下調べが済んでいるのだろう。
わずかに高度を上げると、地図の通りに古い断層が見えてきた。あれは目印の一つで、うっかりとラインを踏み越えてしまわないために重宝する。郵便飛行における農家の屋根みたいなものだ。
ふと彼女のことを思い出したけど、それも一瞬。人工の建物が見えたので気持ちを引き締める。
「工場?」
「ああ。しょっちゅう所有権が代わっている」
「停止中だ」
「戦争中だしな」
短いやりとり。敵に傍受される危険を考えて、通信は最低限だ。自然と無駄口は減り、わずかな言葉での意志疎通が求められるようになる。
無駄な装飾を減らした会話。人間が本来必要とする言葉の数は少ない。
「雲の上に出るぞ」
コイントスの声に従い、上昇気流に乗って僕らは雲の層に向かって上昇。
高度を上げすぎると、流電層の影響で人体や機械によくない傾向があるとされている。
この機体の性能では、具体的な影響がすぐに出るほど高くは上がれない。
もっと高く、ユピテル管による補助を得てやっと可能な高高度飛行でもない限り、そんな心配をする必要はない。
高高度性能を高めたスーパ・チャージャ搭載機の保有数は大企業によって制限されているし、今のところそれが必要になるほどの高さまで上がる任務は少ない。ああいうのは、爆撃機の邀撃くらいにしか使われないのだ。そして当の爆撃機はというと、厳重なシールドで長時間の高高度飛行を可能にしている。
やがて僕たちは、雲を俯瞰できるくらいの高さに到達。機体を水平に。
限界高度までは上げない。燃費が悪くなるからだ。操作性も落ちる。
いま、高度を上げたのは、行きは地上の偵察が目的で、帰途では高空の偵察を行うためだ。例えば航空艦や――そしてまたこれは滅多にないことだが――郵便連盟の
流電層の影響で、電探機器の信頼度は相変わらず低い。僕達パイロットにとって目が命なのは今も昔も変わらないし、偵察機の重要度は年々高くなるばかり。腕が良く、記憶力も良い戦闘機乗りは、偵察機に誘われて厚遇される。機体だって最新鋭だ。
雲の天蓋を突き抜け、白いリボンを曳きながら、蒼穹の下へ。
空には何もない。
この高度は、ただ旅客機に乗って遊覧する富裕層にとり退屈な青と白の風景であるかも知れない。
けれど空が隠し持つ秘宝の在処の、その旅路の一端に到達した僕ら飛行機乗りにとり、空とは決して単調な空白ではない。
あの雄大な積乱雲の中には、嵐が待ちかまえている。眼下の雲は一見穏やかだが、乳白色の外套の下に峻険な山々を、古城の尖塔を隠しているかも知れない。雲一つないあの高みの虚空には、今し方僕らが上昇に用いたような西風が、不可視の濁流を形成しているかも知れない。
このようにして僕らは、何もないはずの空に、切り立った崖を、大小の河川を見出す。或いは、ともすれば僕らを迷い込ませ、無残な鉄くずに変えてしまう起伏の丘を。
そしてまた、敵の姿をも。
それに気づいたのは僕が先だった。
「タリホ。左手下方、機影が見えた」
コイントス反応も早い。彼は翼を傾け、
「タリホ」
短く応答。細かな指示はない。彼は翼を振り、僕についてこいと合図。規定の手順に従って僕たちは接近を試みる。
機影は四つ。大型の輸送機と直掩の戦闘機。まだこの距離からでは敵味方の識別は困難だ。が、大型機の場合、無線の傍受装置を備えている場合もあるため、確認出来た場合は無線での細かな指示は禁止とされている。
僕たちに幸いであり、彼らに不幸であったのは、たまたま交差した彼らの進路において、僕たちが位置したのがちょうど太陽の中であったことだ。影も落ちない絶妙の位置。気づこうと思えば気づけるけれど、それは言うほどに容易ではない。対して輸送機は陸地を意識した迷彩だったし、この日の天気は雲が多く、それをスクリーンに彼らの姿がはっきりと浮かび上がった。このポジションの加護を得たまま、僕らは速やかに高度を下げて彼らの死角に滑り込む。戦闘機は三機とも、推進式だった。
僕は少し考えたが、親指を立てる代わりに、彼に向けてサインを返す。まず敵機を指さし、ついで自分を指さす。最後に三本の指を立てた。直掩の三機すべてを僕がやる、という意味だ。細かいサインは違った気もするが、意図は伝わったはずだ。大規模な作戦前に少しは功績を立てておきたかった。あるのとないのとでは、作戦内での自由度が違う。
彼は束の間、躊躇ったようだが、すぐに決断。ゴー・サインが出た。彼とて僕の腕を実戦で見ておきたいはずだ。
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