8-4
「あと二〇分ほど真っ直ぐに飛べば、街に着きます」
ストレガの囁くような声。
我に返ると、山々はその背丈を幾分低くしていた。
空が広い。
「事前にお話しした通り、燃料は他の街に行けない程度には少なめに入れてあります。ですが全く余裕がないわけでもない。そこで、お願いがあります」
「何ですか?」
ミモリも最小限のボリュームで応じた。まるでこの星の篝火の前では、そうするのが掟だとでもいうように。
「少しだけ時間を下さい。あなた達に決して危害は加えません。私のわがままですが……どうしてもそうしないと、収まらないのです。強制ではありませんけれど」
何故か僕を見るミモリ。機長は君だろう? この機上においては君が主君だ。けれど意見を問われたならば、僕には答える用意があった。
「いいよ」
「OKです」
「感謝します。ほんの五分ほど……」
言うなり、黄金の静寂を切り裂く、重く、腹に響く力強いビート。
ストレガが機首を上げる。
迎え角は九〇度以上。
そのまま、細身の機体に秘せられた推力を一気に解放。
ズーム・アップ。急上昇。
太陽が最後に力強く輝く空に向けて、神話の英雄の矢のように駆け抜けていく。
主翼の反射光が尾を曳く。
頂点、爪の先ほどに小さくなった辺りでくるりと反転。
パワー・ダイブ。
大鷹の急降下だ。
もちろんその鼻先に僕達はいない。
なのに我知らず操縦桿を硬く握りしめる。
あとほんのちょっとの軌道修正で、容易く僕らの安全は覆されるだろう。
僕らの目の前で無理のない立て直し。
いくらエースだからって、夕刻に山間部で、あまり無理な機動は出来ない。
そう思っていた。
のだけれど。
ストレガ、機体姿勢を正にする間もなく急旋回。右だ。
続いて左。それがフェイントだと分かった時には既にまた逆方向に舵を切っている。
全く機体が滑らない。完璧なコントロール、見事なシザーズだ。なまなかな腕じゃあ一瞬で振り切られている。
それからターン。
失速ぎりぎり。
もしこんな山中で失速したら、立て直す間もなく墜落する。
それを彼女はやった。
翼がオレンジ色の雲を曳く。
ため息を吐くほど鋭い旋回。
僕は見る。
彼女が今、シザーズで引っぺがし、そして急角度のターンで背後に回り込もうとしている。今、敵には彼女がちょうど死角になっていて見えない。
だからその隙を全力で狙いに行く。
今、ストレガはGで相当苦しいはずだ。
そんなに苦しい思いをしてまで何故、と僕は疑問に思うことはない。
彼女は戦っている。
いつしか僕は彼女を自分の背後に見出している。
正確にはそのイメージ。
彼女が相手にしている敵機は、僕だ。
僕と戦いたいと、彼女のエンジンは、翼の唸りは、そう吼えている。
呼吸が荒い。
躰の芯、ずっと奥、心臓の真ん中に火が灯る。
それらは血液を燃やして圧縮し、激流となって全身を駆け巡る。
ストレガ、ターンを不意にやめて正姿勢。
僕の背後を取ったのだ。
僕は直ちにブレイク。
鈍い。まるで遅い。
彼女が喰らいついて離れない。
重たい僕の躰は猛禽の爪から逃れられない。
駄目だ。
墜とされる。
そうじゃない。
違う!
血潮が悲鳴のように叫んだ。
ここはお前の居場所じゃない、と。
僕は機体をひっくり返して急降下。
ストレガ、間髪入れずスプリット・S。
駄目、高度が下がりすぎた。速度を取り戻さないと。
今ので振り切れなかったのは致命的。
シックス・オクロック。
速度はまだある。ブレイクしろ。
ブレイクしろ、シラユキ!
「シラユキ」
冷静な声に耳を疑う。
前の座席のミモリが振り返って、僕の瞳を覗き込んでいた。
もちろん、ヘルガ・ヴァーリは僕の背後なんかにはいない。
今、アクロバットを終えてフレガータの横に並んだ。
「ありがとうございました」
少し息が上がっている。あんなの、航空ショウで出すような洗練された機動じゃない。もっと泥臭い、血みどろの戦いの技法だ。
躰にも機体にも負担がないわけがないんだ。
「おかしなことをしてすみません。……でも、ありがとう。ここで私は離脱します。後のことはミモリ・ロッカ、あなたが提案した通りに進められます。あなた達は普通に、自社に戻ってください」
「誘導、感謝します、ヘルガさん」
「仕事ですから。けれど、お二人とも。一つだけ忠告を」
ミモリが後で言うには、魔女というのは人々にとって不吉なものなんだそうだ。
その理由は、例えば呪いを誰かに掛けるとか、病気を流行らせるとか、何の得があるんだろうということばかりだったけれど。
一つには、不吉な予言をすることがあるからだと。
「シラユキという名前は災禍を呼び寄せます。それだけ強い名前なんです。だから、気をつけて。恐らくこれからも、何かあなた達に誘いが来ると思います。――私からは以上です。グッドラック」
思い出すのは、剣山連峰で僕達を襲ってきたあの老飛行士だ。
彼は僕を狙ってきたのだろうか。それとも?
もはやその謎は万年雪に覆われて、永遠に解き明かされる時は来ない。
夕陽の最後の一片が惑星の顎に飲まれた。
夜が来る。
ヘルガ・ヴァーリは翼を一度振ると、身を翻して山の合間、影の塔の中に消えていった。
やがて街が近いことを示す、地上の灯台が見えた。
そこに機首を向けた時、ミモリがぽつりと訊いてきた。
「シラユキ。シラユキは、ここにいる?」
「僕はここにいる」
「いつまでいてくれるのかな。ずっとじゃないよね、きっと」
「君が望むなら、出来るだけ長くいるよ」
「無理だと思う。……うん、多分、無理だよ」
「何故?」
「シラユキにはもっと強い翼が似合う。もっと強いエンジンと、頑丈な機体と。あんたはフレガータではもう物足りない。そういう経験をしてしまった」
「どうかな」
僕は首を傾げた。上手く誤魔化せたなんてまるで思えない。
ミモリは街が見えてくるまで、沈黙を守り続けた。
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