7. 黒の船団

7-1

「シラユキ」


 僕は我に返る。

 乳白色の空間が目の前に広がっていた。


 白い闇だ。

 やっちゃった、と思ったのはすぐだった。


「ごめん、ぼっとしてた」

「雲の中だね。あたしが仮眠してから……ええと、三十分か。あたしも少し寝過ぎたね、ごめん」

「いや、僕の責任」

「オーケー、操縦桿を渡して」

「ユーハヴ・コントロール」

「アイハヴ・コントロール」


 雲の中に突っ込んでしまったのは僕のミスなので、素直にパス。

 どうかしている、自分から突っ込んでしまうなんて。


「大丈夫、疲れてる?」

「いや……」

「ここのところテスト飛行で飛びっぱなしだったし。今回の長距離テストも結構ハード」

「空を飛んでいる限り、疲れることなんてない」

「ならいいけど。……計器類異常なし。高度も仮眠前と変わらず。この辺りの山ならぶつかる心配はないから、このまままっすぐ飛ぼう。シラユキも計器に注意してて」

「分かった」


 パイロットが雲の中に突っ込んだ時に恐れるものは二つ。いや、三つかな。


 一つ目が空間失調症。自分の機体の左右上下を見失い、パニック状態になること。これをやると最終的に酷い乗り物酔いのような状態になって、後は地面に真っ逆さまだ。


 二つ目が気づかず高度が下がっていて、地面や山肌に激突すること。郵便飛行士の死因で、機械の不調、燃料切れに次いで多いのがこれ。


 三つ目は積乱雲に突っ込んでしまってバラバラになることだけど、今回はそれに該当しない。


 空間失調症を上手いこと挽回する秘訣は、計器盤とラジウム針を信じて下手に操縦桿を動かさず、姿勢を保つこと。これだけだ。簡単だが困難なもの。結構ベテランの飛行士でも、自分の感覚を信じたくなってつい操縦桿に悪戯をしてしまうのだ。ミモリの判断は冷静で正確だった。


 実を言えば操縦桿をピクリとも動かさずに雲中を飛行することは、極めて高い集中力と忍耐力、そして体力を必要とする技術で、彼女はそれを長時間にわたって維持することができる。僕も話しかけて集中を乱すような真似はしない。彼女からの指示を待つ。


「シラユキ、抜けるよ」


 雲自体はさほどの広さでもなかったらしい。ミモリの言葉と共に視界がぱっと開ける。といっても色合いにさしたる違いはない。白に僅かな青が混じっただけ。それでも雪の壁のような閉塞感から解放される。僕らはそろって息を吐いた。


「ちょっと現在位置を計測しなきゃね」


 そう言いながら、ミモリは操縦桿を傾けて機体を僅かにバンクさせる。


 眼下に広がる剣山連邦。山と山の合間に霧と雲がかかって、乳白色の渓流を形成する。ミモリはボードから地図とコンパスを取り出すために、僕に操縦桿を預けた。


 彼女は精度が極めて高い(これは天才的と言ってもいい)航法の秘術を持っており、彼女は無線通信施設間の狭い航空路に縛られない飛行(要するに電波航法以外のもの)が可能だ。


 もちろん普段は無線誘導と航空路に従うのがルールだが、いざという時にそれらを無視出来る能力は得難い。僕も簡単な地文航法を身につけてはいるけれど、実のところ無線航法が発達した現在でそれを使う機会はとても少なく、あまり実践的ではない。そもそも今の時代、ものすごい勢いで地形が変わる――ビルだとかダムだとか――ことなんてざらだから、実践的な技術かというとそうでもないのだ。それと、僕の記憶は今のところ、少々怪しい。


 郵便飛行士の間では、こっそりと航空路を外れたルートで何かを運ぶ時には重宝されるらしい。時間に遅れそうになった時とか。


 あとは、例えば今回は郵便飛行ではないので、フライト・プランの提出こそ義務だけど、僕達は無線基地局の恩恵を受けることは出来ず、自分達で地形や目印を見て飛ばないといけない。零細企業なんて、航空路の混雑の関係で、こんな山奥まで行かないと長距離試験飛行も出来ないのだ。


 海か山か、どちらかを飛べと問われて、飛行機乗りがどちらを選ぶかは微妙なところだ。フロートの付いていない飛行機にとっては海も山も大して変わらない。雪の上なら生き残る確率が高くなるって聞いたことがあるけど、誰に聞いたんだっけ。


 ともあれ、規定の航空路を外れるということは、企業や自治体の保護から逸脱するということでもある。もし戦場指定空域のど真ん中に民間機が迷い込んだ場合、軍用機は誰何の必要なくこれを撃墜できることは、飛行機乗りじゃなくても常識だ。指定空域外では企業軍には、基本的に攻撃権はない。先日の空爆のように例外はいくつかあるけれど。


 だからミモリ自身は最初から「正規ルートから外れること」を前提にした仕事は請けないことにしているのだという。何故かというにリスクが大きすぎる。命の危険すら伴うから。おまけに航空法に違反するため、基本的に積み荷はろくでもないものだ。麻薬、武器弾薬、その他ご禁制の品々。時には軍からの依頼もあるという噂だけど、それこそ僕らには縁遠い話。


 前の座席、彼女はメモと時計とコンパス、そして地図と大地と太陽を掃くように一瞥して計算を行っている。彼女はこの空と惑星に挑戦する数学者だ。彼女を欺こうとする様々な現象を相手取り、自らの正確な座標を割り出そうとしている。僕には出来ることはない。何故なら彼女がこの航法をしくじったことは一度もないから。それくらいには信頼に値するものであり、そして彼女がしくじったとしても、恨むことはないだろう。それくらいに僕は彼女を信用している。


 ただ、僕は結果より先に視線の先にそれを見つけてしまった。


「ミモリ」

「うん、大体この辺りで合ってるね。予想と進路はほぼ違いない……何?」

「さっき僕が雲に突っ込んだ理由、分かった」

「うん」

「三機編隊の飛行機を上方に見た気がしたんだ。それに気を取られた瞬間、雲に突っ込んだ。言い訳じゃないよ」

「分かってる。それで?」


 それで、と来たか。僕はこっそり笑う。本当に頭の回転が早い少女だ。次に言葉が続くことを見越していなければ出来ない促し。先の先まで言葉を予測している。


「うん、こんなところに航空基地なんてあったかな、と思って、そうしたら」


 機体を少しだけ傾ける。彼女にも見えるように。


「え、何」

「よく見て。中州になってるところ、ダイアモンド形の窪地」


 彼女も目が良い。すぐに理解した。いや発見した。


「――航空艦!?」

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