4.存在するかもしれない『永遠』


 薄く目を開けて、最初に見える景色はいつも同じだ。薄緑の空に、三つの月。

 いつもと同じ夢の景色に、いつもと同じ夢の時間がこのあとも続くことを期待して、僕は目を閉じた。そんなことあるはずがないとわかっているのに。

 僕はもう独りの時間で心を癒やすことはできないのだ。


「やぁ。お目覚めかな。ようこそ、イーサン。コトリも」

「セヴィリー」


 いつもと変わらないセヴィリーのやわらかい声に応える声は、女の子の声だった。どうやら僕と夢を共有する最初の相手は女の子らしい。

 ほんのちょっとだけ目を開けて、声のした方を確認してみる。

 …日本人の女の子だ。髪が習字の墨みたいに黒い。「久しぶり」「そうだね。元気だったかい」「まぁまぁだよ」女の子が笑う。セヴィリーが微笑わらう。僕はセヴィリーとそう親しい間柄にはなれていないけど(それは僕が壁を作っているからなんだけど)、あの子はそうじゃないみたいだ。

 僕の存在なんて邪魔でしかない、そういう空気を感じる。それが勘違いだとしても、僕の心はそう感じている。

 いっそ、このまま、目が覚めないかな。現実に戻らないかな。

 早くも憂鬱になり始めた僕を女の子が振り返る。

 二人の様子を窺って薄目だった僕はさっと目を閉じた。それで現状から逃げられるわけじゃないのに、心臓がドキドキと脈打っているのがわかる。


「まだ寝てるのかな…? えーと」

「イーサン、だよ」

「イーサン」


 僕のそばまでやってきたんだろう、降ってくる声が近い。

 僕は、クラーク家の一人息子だ。いずれは聖書と十字架を手に教壇に立つ未来のため、異性との接触は家や学校によって制限されてきた。

 つまり、僕は母親以外の異性を知らない。


「イーサン? おーい」


 そんな僕の肩をトントンと叩く手の感触。

 男とは違う、耳にやわらかいと感じる、女の子の声。

 夢の世界だからこそ、言葉の壁もなく、彼女の言葉はきちんと言葉として僕まで届く。

 女の子が僕を呼んでいる。母さんじゃなくて。女の子が。僕を。ただそれだけの事実に心臓がドキドキと大きく脈打ち始めた。

 たまらなくなって、僕は目を覚ましたフリをして起き上がった。


「…、ぉはよぅ」


 本当に小さな声でだけど、挨拶もした。視線は斜め下、ふわふわした葉の足元に逃しながら、だけど。

 女の子は僕に向けて手を差し出した。「おはよう、イーサン。わたしは蓮見はすみ琴里ことり。コトリでいいよ」握手を求めているようだったので、僕はおずおずと手を差し出して、僕より小さな手を握った。

 女の子の。コトリの笑顔は口元だけで、小さくて、ぎこちなかったけど、少しもニコリともできない僕よりはずっとマシな笑顔だ。

 セヴィリーはいつもの微笑み顔で僕に「おはよう」と言うと、細い腕を僕とコトリへと差し出した。


「今日は、散歩をしよう。おいで」


 いつもは同意を求めるセヴィリーが、今日は違う。

 コトリは疑問を感じなかったらしく、嬉しそうな顔でセヴィリーの手を取った。

 少しだけ眉根が寄った僕に、セヴィリーは微笑みながらこう言う。


「じっと向かい合っていたら、緊張するだろう?」

「…………」


 それは、そのとおりだ。

 話を盛り上げる会話力もなく、面白い話題も提供できない僕は、コトリと会話を弾ませる自信はない。

 会話がなくなれば、沈黙が訪れる。それが心地のいい沈黙になる可能性は限りなく低い。僕らは今ここで知り合ったばかりで、沈黙があれば、それは居心地の悪さに変わるだろう。ここはセヴィリーの提案に乗った方が僕のためでもある。

 セヴィリーの言葉を理解した僕は、仕方なく立ち上がり、彼なのか彼女なのかの手を取った。


「ねぇ、どこへ行くの?」


 コトリの声に視線だけ投げる。

 彼女はセヴィリーを見上げて、なんだか、楽しそうだ。きっと、セヴィリーとのこの時間をとても楽しみにしていたんだろう。「どこか、希望はある?」「わたし、お店が見たい。一軒くらいあるんでしょ?」「うーん…。お店。お店かぁ」セヴィリーが苦笑いをこぼしつつ、僕らと手を繋いだまま歩き始める。

 ……なるべく、二人の邪魔をしないで、ひっそりとしていよう。

 僕は独りがいいのだし。空気みたいにしていよう。それがいい。

 一人納得したところで、コトリの顔がこちらを向いた。ギクリ、とからだが変にこわばる。「イーサンは、どこの人? 日本じゃないでしょ」どこの人。出身ってことだろうか。「え。と。アメリカ…」「アメリカ。きれいな金髪と青い目だもんね。そっかぁ」それでマジマジとこっちを見つめてくるから、どうしても視線が泳いだ。

 空気みたいにしていようと思った矢先に話しかけられるとは思わなかった。心臓がドキドキしてうるさい。 

 僕は、僕らの間にいるセヴィリーをうまいこと盾にしてコトリの視線から逃げた。それなのにコトリは覗き込むようにして僕に話しかけてくる。


「わたし、十六。二月が誕生日だから、来年は十七か。イーサンは?」

「…十二月で、十九歳」

「年上かぁ。

 あ、歳。セヴィリーっていくつなの? 何歳?」

「歳、とはなんだい?」

「えっ。えーとー、えーっと、何年生きたか、っていうのを何歳っていうんだけど…。

 こっちの世界だと、三百六十五日を一年っていうんだ。自分が生まれた日は三百六十五日のどこかにあって、生まれて生きて、一年目は一歳、二年目は二歳…っていう感じに数えていくんだけど…? わかる、かなぁ」


 自分の説明がうまく言えていないと思ったんだろう、コトリは難しい顔をして黙り込んだ。

 コトリの言葉に首を傾げたセヴィリーには、歳、月日、という概念があまりないらしい。ここはそういうものを気にしなくても成り立つ世界、ということだろう。

 もしかしたら、この世界には『永遠』すら存在するのかもしれない。彼らはこの美しい世界でひっそりと生き、終わりのない日々を穏やかに暮らすのかもしれない。

 それは。死を恐れ、おそれ、忌避し、いつか無に還ることに怯えて生きる人間には、夢のような話だ。


〘本当に?〙


 コツン、と翡翠の樹皮を蹴飛ばして、足が止まる。

 顔を上げてもセヴィリーとコトリしかいない。他には誰も。

 でも。今。二人じゃない誰かに。話しかけられたような。


「イーサン。どうかしたのかい」


 足を止めたセヴィリーに、同じく足を止めたコトリ。二人の視線に僕は頭を振った。

 ここは、不思議な世界。僕らの常識が通用しない世界。

 不思議なことの一つや二つ、起こる方が正しい。あまり気にしないようにしよう。


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