2.絶望の白夜


 浮かぶ月は三つ。空は薄緑の色で、太陽のような陽の光はない。

 この空は地球でいう白夜びゃくやのようなものなのか。目を開けると、いつも考えてしまう。

 そのうち聞こえる「やぁ。お目覚めかな」という声に、少しは親しみのようなものができてきて、今日はビクつかないで声の主に顔を向けることができた。

 セヴィリークゥシュ。

 西洋では一般的な白人の美しいエルフのような外見をした、彼なのか、彼女なのか、は、今日もやわらかい微笑みを浮かべて僕のことを見ていた。

 セヴィリーの額には翡翠色の宝石が埋まっていて、人間ではありえない部分に埋まっているキラリと光る宝石にチラチラと視線をやりつつ、「おはよう」と挨拶する。

 ここでは言語の壁はない。

 ここは『夢の世界』で、現実ではない。僕は地球に肉体を残して精神だけ別の世界に来ているような、曖昧な存在だ。

 でも、だからこそ、安堵もできる。

 ここでは僕はさらに希薄な存在になることができるのだ。

 ここにいる美しい人々にとって、僕は『地球人』というくくりの中の一人にすぎず、それ以上にも以下にもならない。

 僕の名前がイーサン・クラークで、クラークが聖職者を意味し、ウチがその名の通りの宗教関係の仕事を生業なりわいとしてきて、代々続いてきたその家系の僕に過剰な重圧がかかっている……なんてことも、何も関係がないし、言っても伝わらない。

 両親の口癖は『クラークの名に恥じぬよう』……口を開けばそればかり。

 厳しい家。

 厳しい家族。

 どこにいても休まることのない心。

 重圧に耐えきれず心が折れてしまった僕を、両親は腫れ物を触るみたいに医者を通してしか接しなくなって、今では毎月、お金だけを振り込んでくる。

 いずれ家業を継ぐ一人息子である僕の不在を周囲にどう言っているのかは知らない。でも、わざわざ僕を日本に放り込んで、ここから出るなとばかりにお金だけを振り込んで自由にさせているのだから、不出来な息子をどう思っているかなんて、考えるまでもない。

 だからこそ、僕はセヴィリーという美しい人を前に、こうして幻想の世界の中に身を浸していられるのだけど。

 ………僕は逃げたのだ。僕を取り巻く環境のすべてから。

 きれいなモノとして出発したはずの宗教が、金と愛欲でドロドロに溶けた汚物だと知ったとき、僕の心は平静ではいられなかった。

 それまで肌身離さずにいた十字架が、急に重く、汚いものに思えて、今では聖書を手に取ることさえ避けている。


「イーサン。今日は少し歩かないかい?」

「…どこを?」

「あの川まで」


 細長い指でセヴィリーが指したのは、この場所から下方の薄紫の川だった。

 鉱石の成分が滲み出してあんな色をしている、という美しい川を眺める。「…わかった。いいよ」毎夜、僕はここに来るだけ来て、セヴィリーと話をするけど、最初の場所を動いたことはなかった。今日は、なんとなく気紛れを起こしただけ。

 現実ではいつも重いからだがいやに軽い。今なら僕はどこまでも歩いていけるだろう、と錯覚するほどに。

 ここが夢の世界だからだろうか。きっと、そうだろう。

 俗世のしがらみから解放されると、体はこんなにも軽いのだ。

 翡翠の宝石でできたような樹木の枝を伝い、巨大な幹を中心に螺旋階段のように、くるくる、くるくる、地上を目指して歩いていく。

 やがて辿り着いた川べりで、キラキラと光る川面をただ眺めた。

 美しい。

 ただその一言だけで、余計な装飾はいらない。そういう景色が、この世界には当たり前のように存在している。

 僕はこの世界が好きだ。ただ存在しているだけで満足できるほどには。


「きれいだと思うかい?」

「…そうだね。きれいだと、思う」

「ふむ」

「…?」


 伏し目がちに窺うと、セヴィリーは顎に手を当て何かを考えていた。「……なに?」ぼそっとぼやいた僕に相手は微笑わらう。「人によって、全然違うのだね。リアクション、というやつ」「はぁ…」「女の子はたいてい喜ぶのだけど」僕は男だし。美しいものは美しいと思うけど、それ以上でも以下でもないっていうか。

 ふと、この川は冷たいのだろうか、と思い立って、水面に指を浸した。

 心地のよい冷たさ。

 この世界には、欠けているものはないのだろうか。すべてが美しく、満たされていて、完成されている、理想の世界なのだろうか。

 もしそんな世界が実在するとしたら、それは、聖書のEdenのような。


「イーサン」


 セヴィリーの声で我に返って手を引っ込める。その動作はほとんど反射だった。

 セヴィリーの声はやわらかいのに、誰かに唐突にイーサンと呼ばれると、いさめられている、と感じて萎縮してしまう。

 すべては両親のせいだ。小さい頃からそうやって僕を呼びつけては怒鳴っていたから。

 そろりと顔を向けた先にいるのは、両親じゃない。それでも不意に呼ばれるとそう幻視してしまう僕は、一瞬だけ両親の姿を見た。そこにいるのは額に宝石を埋め込んだ人でないヒトで、眉根を寄せて顔を顰めている両親の姿はすぐに景色の中に薄れて消える。

 セヴィリーは困ったような微笑みを浮かべていた。「コレは、君にはあまり、歓迎されることではないと思うのだけど」それは、僕を不安にさせる言葉だった。セヴィリーの口からそんな言葉を聞くことになろうとは。


「…なに?」


 そっとたずねた僕に、セヴィリーは、Bookmark of a dreamで企画されているのだという『夢の共有』の話をした。

 今ここには僕とセヴィリーという一対一の治療ができているけれど、今後は五対一、人間五人とカウンセラーのセヴィリーが一人、という状況へとシフトするらしい。

 一つの教室で複数の人間が授業を受けるように、一つの夢で複数の人間の意識を存在させる…。夢の共有とはそういうことらしい。

 Bookmark of a dreamは世界中でひっぱりダコの話題の治療だ。お金を積んででもこの世界に来たい人間はたくさんいるだろう。

 これまではその席がなかった。

 その問題を解消するために、Bookmark of a dreamは『夢の共有』なんて方法を打ち出してきたわけか。技術的にそれが可能だと踏んだか、可能だと証明するために、僕らがひっそりと被験者になるのか…。

 真実がなんだとしても、僕には歓迎できることではなさそうだ。


(所詮、お金だ。世の中はそうやって動いている。宗教も。医療も)


 僕は、一人でよかった。一人がよかった。一人でこの世界にたゆたっていたかった。

 今まではそれに近いかたちでここにいられたけど、それももう終わり、か。

 こうやって、当たり前の顔をして、絶望は足元から僕を見上げてくるのだ。


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