第53話 白骨に霜の積もりて

 その晩、宝余が流し場で洗った食器の点検をしていると、耳房じぼうから藍芝が出てくるのが見えた。今夜は女形の衣装ではなく、髪はうなじの上で纏めて束を背に垂らし、水色の単衣に紫の薄物の上着を身に纏い、手にはいつもの大きな扇ではなく、華奢なものを持っている。白粉と香の匂いに代わり清涼さと優雅さが立ち上り、これから邸の当主の慰みものにされるとはとうてい思えぬ姿であった。


 藍芝は宝余に気づいたようで、立ち止まってこちらを見た。彼女は禁を犯したかのようにあわてて下を向いたが、藍芝はつかつかと近寄って、宝余の前に立ちはだかった。


「何をびくびくしているの」

「いえ――」

「大したことではないのよ。第一、あんたが心配してもどうしようもないことでしょう」

「…ごめんなさい」


 宝余の目から涙がこぼれ出た。我ながらどうしたんだろう、と思う。この頃涙もろくなったのか、油断するとすぐにこうなってしまう。

 いつも藍芝は、宝余に対しては冷酷ではないもののもっぱら無関心という接し方であったが、今夜の彼は優しかった。思えば、臨州の廟で宝余が救われたのも藍芝のおかげで、命の恩人ともいうべき存在であった。


「どんな形であれ、人が人として、本来の姿で生きていけるというのはいいわね」

 それだけをいうと、彼はくるりと背を向けた。


  林間に紅は褪せ、白骨に霜の深く積りて

  鴛鴦の淋しく鳴き、孤舟は明州を下る


 いつもの彼に似つかわしくない、寂寥たる詩の一節。朗誦する声がゆっくりと回廊を通り抜けてこちらにも届き、宝余の耳を冷たくする。

 人が人として、本来の姿で生きていけるというのはいい――。

 男に生まれながらも、女の姿で世を渡り、班のため男の夜伽をも受け入れねばならない藍芝。

 公主に生まれながら市井に預けられ、王妃となっていまは洗濯女として生きる宝余。


 どちらも似たようなものね――彼女はほっと息をつき、誰もいない道具部屋の扉を開けた。抱えた食器の籠を大机に置き、灯りをともすために燭台を探し、火をつける。きっとそれが合図だったのだろう、


「あの女を殺しておしまい」


 すぐそばの闇から、ただ一声が聞こえてきた。

 ――あの声は。

 はっとした宝余は、声の方向に眼を凝らした。次の瞬間、自分に敵意を持つ何かが部屋に踊りこんできた。「何か」は真っ直ぐ自分に体当たりしてくる。その正体も知らぬまま、宝余は身を翻してかわした。が、かわしきれず肩口に鋭い痛みが走る。その箇所に手を当てると、ぬるりと嫌な感触がした。


「何か」は宝余を捕えそこねて床にどうと倒れ付し、かたかたと音を立ててまた起き上がった。それからふわりと、宝余の目の高さまで浮き上がる。薄闇に浮かぶものの正体を知って、彼女はぞっとした。


「――小雲」


 操るための糸は全て外されている。なのに、何かに動かされているかのように、人形は細かく震えている。

 ――まるで操られているような動き。

 人形は卓の上に立ち、片腕には小刀が握られていた。否、正確に言えばこの人形の手は何かを掴むことができないつくりになっているはずだが、事実、小雲の手には刀が添わされている。卓上の明かりに照らされ、人形の顔は陰影がくっきりとつき、生身の人間よりもなお恐ろしい風貌となっている。


 ――違う、まさしく操られているのだ!


 不意に、宝余の背後から聞きなれた声が聞こえた。

「小雲、狙いを外すなどとはあんたらしくもないね。狙った獲物は決して逃がさないあんたが」

 はっとして宝余が振り返ると、予想通りの人物が戸口に背を預けて立っていた。手には細身の長い鞭が握られている。

 彼女は――!宝余は斬られた右肩を押さえながら、懸命にあとずさる。ほどなく背中が柱にぶつかり、逃走の試みはそこで潰えた。

「逃げようとしても無駄よ」

 いかにも愉快そうな相手の声が、宝余の鼓膜に突き刺さる。

「本当の傀儡師はね、こういう風に人形を遣うの」

 容赦なく次の攻撃が見舞う。襲い掛かる人形をどうにか床を転がってかわし、立ち上がりざま帯から銀細工職人の簪をひきぬいて構えた。


「そんなおもちゃでどうする気?芸もろくにできない人間が、このあたしに渡り合おうっていうの?笑わせてくれる」

 紅鸞は戸口から自分の背中を引き剥がし、一歩分だけ進み出る。宝余は柱に張り付いたまま、押し殺した声を出した。

「――あなたと渡り合うつもりなどない。でも何故こんなことを?…」

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