第52話 御旗を継ぐ者
燕君が自ら宝余を伴い、曹国良の邸に馬車を乗り付けて話を通してくれたので、宝余はあっさりと班と合流することができた。
幸いなことに全員があの死線を越えて生きており、また班旗と大班主の御旗のどちらも無事であったばかりか、御旗など濡れもせず破れもせず、いつものように大班主の肩にかけられていた。真っ先に迎えに出た忠賢は宝余の顔を見て大いに安心したようで、照れ隠しか
「どこに飛ばされていた?心配したんだぞ」
とぶっきら棒に宝余の肩を叩いた。
宝余は言葉を濁し、代わりに曹国良が班に何を命じたかを聞くと、明日の宴で芝居をかけるという。喪の差配の一件以来、忠賢は宝余に一目置いて相談を持ちかけることもするようになり、宝余はそれなりに嬉しかったが、今は気がかりなことがほかにもあった。
「その宴の名目とは一体どういうものでしょう?」
「いや、わからないが…」
忠賢は辺りを見回し、声を潜めた。
「しかし、何かおかしいのだ」
宝余も声を低くした。
「そう思われますか?実はここに来るとき、裏門から厨房を抜けてきたので様子をちらっと見ましたが、妙に置かれた樽の数が多いのです」
「樽?どんな樽だ」
「無地に、赤い線が二本入っていますから、きっと油の樽の印ですね。樽が真新しいし、まだ札がついたままになっていますから、つい先日買ったものでしょう。線が二本ということは、安価な油ですが、逆にこのような
「屋敷がいかに大きいといえども、ちょっと尋常な量ではない、違うか?」
「ええ、いくら邸内に人が多く宴会があるとしても、買われた肉や野菜の量に比べても…。それほど多人数の宴会とも思えぬのに、なぜ油だけあんなに買うのでしょう」
「油だけではない、私が見たところ、雇い込まれた武芸者の数も多いような気がする」
「そもそも、私達が河で襲われたのも、全く理由はわからずじまいです。曹大人が殺害を命じた可能性も残っているのですよ」
「何のために?殺害しようとしておいて、我等を宴に雇うのか?辻褄が合わない」
「確かに、それもおかしな話ですね。あるいは、舟の一件は別の人物の仕業かも…」
二人はわけもわからず不安な面持ちだったが、準備に多忙な忠賢は「じゃあ」と軽く手を挙げると、自分の持ち場へと戻っていった。残された宝余は大きな息をつくと疲れを覚え、庭の隅にある水汲み場の低い塀に背をもたせ掛けた。
――?
視界の隅に、ちらと人影らしきものが見えた。北にある裏門の脇で、誰かが門外の人間と話し込んでいるようである。その誰かに、宝余は見覚えがあった。
――紅鸞?
紅鸞の前に、門外からぬっと腕が付き出され、彼女に何かを渡したようである。受け取った方はそれを懐にしまい、辺りを憚るようにそそくさと庭木に紛れて姿を消した。
その不審な様子に宝余は首を捻ったが、彼女を探しに来た愛姐の声に気が付き、一声返事をすると厨房へと戻っていった。
夕刻になって、大班主は裏庭に皆を呼び集めた。彼は御旗を畳んで右腕にかけ、あの蓆の上に座っていた。一同が序列に従いその前に腰を下ろすと、大班主はおごそかに宣言した。
「――
みな突然のことで言葉もなかったが、大班主の言っていることをようやく理解すると、今度はざわめきが広がって行った。
――代替わり!大班主が御旗と御蓆をお譲りになるとは。ではこの班の誰かがなるのか?
特に変わった気色もみせぬ忠賢に対し、紅鸞は満足そうに頤を逸らす。
大班主は咳払いをし、一同を見据えた。
「天は儂に道をお示し賜うた。忠賢を次の大班主に据え、御旗と御蓆を引き継がせよと。忠賢、否やは許されぬぞ」
言われた本人は動揺しているのか、膝を掴んだ彼の指が震えた。
「いいえ、いけません。私は若輩者にすぎません。それに、大班主の地位は忝くも天子さまのご守護を賜っているもの、華の言葉もろくに話せない私などは…」
「儂とて、位を継いだときには三十にも満たなかったぞ。また、言葉のことは問題ではない。良いか、これは儂が選び出すのではなく、天がお決めになることだ。おとなしく従うほかはない」
忠賢は俯き、その場には沈黙が落ちた。宝余は、つい先ほど前余裕綽綽の表情だった紅鸞が、今は顔を赤くほてらせ、怒った表情を浮かべているのに気が付いた。
どれほどの時が立ったのか、忠賢は立ち上がり、大班主に向かって頭を垂れた。受け継ぐものの重さに慄きつつも、自身の恐怖を懸命に律しているかのように見えた。
「――我に下った命、謹んでお受けいたしますれば。この身が塵と果てるまで、御旗にお仕え申し上げます」
「それでよい。正式な引き継ぎはこの曹家の件が終わった後に致す。忠賢、大班主となれば、完全に名を捨て班を離れ、御旗と御蓆だけをよりどころとして生きていくことになる。だが今は、いち班主として残された数日を大切に過ごすがよい――そして、どんな乱世であっても、天が私達の上にでも落ちてこないかぎり、人が物語るのをやめることはないだろう。このことを肝に銘じよ。お前だけではない、他の皆もだ」
忠賢を含め、全員が平伏する。
「さあ、話は済んだ。早く着替えて
大庁に参集した班の者で、忠賢以下の役者はみな得意の役の衣装を身に着けて跪き、宝余と愛姐がしんがりにひかえた。
しばらく待つと中から主人の曹国良が姿を現す。恰幅の良い、ごわごわの髭を生やした初老の男で、その太い指先からはいかにも政争で死闘を演じ、人を死に追いやってまで栄華を極めてきた腐臭が立ち上っているかのようだった。国良はじろりと一同を眺め渡し、女形の衣装を身に着けた藍芝に近寄ると顎をすっと撫で、くるりと踵を返すとそのまま言葉もかけずに大庁に消えて行った。
「あの
一同が解散したのちも、こぶしを握りしめたまま藍芝はじっと跪いたままだったが、忠賢が「大丈夫か?」と声をかけると、返事もせずに立ち上がり、両腕で自らの体を抱くようにして中庭を出て行った。
「藍芝は、今夜は曹大人のもとに行かねばならないね。こういうことがあるたんび、班主の機嫌が恐ろしく悪くなって荒れるから、あんたも火の粉をかぶらないよう気をつけてー」
よくあることなのだろう、愛姐は事もなげに言ったが、その意味することに気付かぬほど宝余も馬鹿ではなく、ただ藍芝の後ろ姿を痛ましく思い返していた。
同じく顔を顰めたままの忠賢とは対照的に、紅鸞は愉快そうに藍芝を見ている。藍芝と紅鸞はもとより犬猿の仲だったから、内心このなりゆきに快哉を叫んでいることは明白だった。宝余は溜息をもらす。
――王宮には王宮の、市井には市井の、そして遊芸には遊芸の辛さ苦さがあるものよ。
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