敷島に源氏ありとふ人あらば後の世かけて友といはじな
〔語釈〕
「敷島」は大和。日本。
「源氏」は『源氏物語』の略。
「ありとふ」はあるという。「とふ」は……という。
「後の世かけて」は来世にかけて。「後の世」は死後の世界。来世。あの世。
「友といはじな」は、友といわないだろうなあ。「じ」は否定の意思・推量、「な」は感動・詠嘆。
〔訳例〕日本には(他の何をおいても)『源氏物語』があるという人がいたとすれば、私は現世だけでなく来世においてもその人のことを友とはいわないだろうなあ。
天下にその名をとどろかす『源氏物語』だが、原文はおろか現代語訳でも全編読んだ人はたぶんほとんどいないだろう。かくいう私もそのひとりだ。ほとんど読んだことはないが(冒頭は原文か訳文か忘れたが読んだ)、日本人として恥ずかしいというような考えはない。読み進めればそのうちその世界に没入して戻ってこられなくなるのかもしれないが、そうはいってもやはり読む気が起こらない。『源氏物語』以外にもすばらしい書はいくらでもあるだろうから特にそれに拘泥することはないだろうと思う。
私が『源氏物語』に不信感を持つ原因のひとつはそこに出てくる和歌にある。そこに出てくる和歌の数々は今の私の理想とするたぐいのものではない。それは要するに価値観の違いなのだが、価値観の合わないものにあえて取り組もうとは思わない。
私は、源氏物語は新約聖書のようなもので、記紀万葉は旧約聖書のようなものだと思っている(といっても新旧の聖書に明るいわけではない)。源氏物語はストーリーを楽しむもので記紀万葉は古代ロマンの詰まった宝物のようなものではないだろうか。私は後者を取るが、それは後者が前者より優れているためではなく、趣味だからという一点に尽きる。
『源氏物語』の影響力は絶大で、後の物語文学や和歌や近くは少女マンガなどにそれは顕著ではないかと想像するが、その種のものを至上とする人たちとは友達になれない気がする(といってそうではない友人も皆無だが)。
「後の世かけて」は
桜なきもろこしかけてけふの月 同上
という句に表現を借りている。これらの句の……かけてという言い回しの意味は調べ切れなかったが、おそらく上述のような解釈になるだろうと思う。
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