第12話 現実のミチ
私が発見されたのは、あの集中豪雨から一週間以上も後のことだった。事件とも事故とも判断がつかず、大規模な捜索が行われたようだが、私が見つかったのは家の近くの公園だったらしい。その後も数日間私は眠り続けた。だから、その前後のことを私は何も覚えていない。
病室で目を覚ましても、私はまるで状況が理解できなかった。戻ってきた、と実感したのは、体調が回復して学校に通いだしてからのことだ。何があったのか、執拗に周りから聞かれた。学校の友達からも、全然知らない大人からも。けれど、私には何の説明もできなかった。だから、いつも覚えていない、と答えていた。
すべてをはっきりと覚えているのに。
大切な、兄のことを思い出したのに。
どれだけ時が経って、日常を過ごしていても、私は夕立の音を聞くといつも思い出す。
ざざざっと音がする。
突然の夕立が空から落ちてきた。私は今でも震えてしまう。分からない。怖い思い出ではないのに。なのに、夕立はいつも濁って見える。ああ、きっと私には、救われない魂たちの叫び声に聞こえるんだ。
自分の部屋の机で、ノートに向かいながら、私はシャープペンシルを回す。目の前の窓にあたる音が聞こえる。ノートに書かれた数字の羅列がゆらめき、かすむ。私は立ち上がると、階下にいる母に向かって声を上げた。
「お母さん、今年はいつお婆ちゃん家行くの?」
「えー?」
下から自分とよく似た声が返ってくる。
「わたしだけ先に行っていい?」
「はー?」
「だから、私だけ先におばあちゃん家、行っていい?」
「何言ってんの? 場所、分かってるの?」
「分かってるよ。何度も行ってるし」
答えながら階段を下りる。
「雨の音聞いてたら、早く行かなきゃって思ったの」
「何かよく分かんないけど、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫!」
「電車とバス、使うんだよ。そうねぇ、バス降りたところまで迎えに来てもらえば大丈夫かしら」
「バスから十分くらいでしょ。歩くよ」
「車で十分よ。歩くと結構あるのよ。本当に大丈夫?」
「いいの、歩いて行く」
「出発は明後日の予定だったから、明日、行く?」
私はうん、と頷く。
「じゃあ、一日分の着替えだけ持って、先に行きなよ」
「ありがとう」
台所から、はいはい、という声が返ってくる。後ろ姿から、すぐに電話をかけようとしているようだ。私はすぐにもう一度自分の部屋に戻る。明日は朝一で家を出よう。まだ降り続いている雨の音を聞きながら、私は準備を始めた。
・
バスから降りると、かすかに覚えている風景が広がっている。もっと幼かった頃は、車ではなく、いつも電車とバスで来ていた。それで、いつもはこのバス停まで車で迎えに来てもらっていたのだが、今日はここから歩きだ。
両手に持った旅行かばんは小さいけれどお気に入りのものだ。真上から降り注いでいる太陽の光を遮るために被っている麦わら帽子もお気に入りだ。薄い水色のワンピースもせっかくだからといって着ている。全身がお気に入りだ。
周りには何もない。田んぼと畑がずっと先まで広がっていて、その先に小さく人家が見えている。その間の、いつ舗装されたのか分からないような道を私は歩き始める。標高が高いからなのか、暑さもそれほどひどくない。きっと自然が熱を吸い取ってくれているのだろう。
そんなことを考えながら歩いていると、道は川沿いに来ている。さらさらと流れている清流に目を向ける。太陽の光が水面にところどころ反射していて眩しい。離れた浅瀬には、子どもたちが素っ裸で遊んでいる。
昔、自分もよくやっていたなぁ、と思い出す。
その傍らで、子どもたちの親が大きな傘を広げて何かを話しているようだ。視線をさらに先に向けると、真っ赤な橋が見えている。子供の頃の記憶で、あの橋を越えるとおばあちゃんの家は眼の前にあった。
今思うと、あの橋は、私の世界の大きな一部だったのだろう。私が私と繋がるために、必要なものだったのだろう。
私は焦る気を抑えながら道を進む。
後ろから、ブロロロロロと、弱った馬のいななきような音を出しながら車が来た。私が道の隅に避けると、車は私のすぐ近くで止まった。
「あれれ、もしかしてアヤカちゃん?」
助手席の窓が開き、中から四十代ほどの女性が顔を出した。確か、お母さんの妹だ。私は、はい、と応える。
「あれれれれ、やっぱり。あれー、おーきくなったねぇ」
言いながら、私の周りに目を向ける。
「私だけ、今日先に来ちゃったんです」
「へー、すごいねぇ、遠かったろ。乗ってく?」
私は考えながら、道の先を見る。橋までの距離は近い。
「ここまで来たんです。歩いていきます」
「そう。着いたらスイカがあるから。途中で何も買わなくていいよ」
叔母さんの笑顔はやはりお母さんに似ていた。彼女は窓を閉めると、再び車は少しおかしな音を出しながら進み始める。私も、もう一度歩き出す。
幾分涼しいと言っても、これだけ歩いていると汗が出てくる。私はタオルで額を拭いながら、しばらくゆっくりと進んでいく。橋の手前に来たところで、露店がやっていた。アイスを売っているようだ。どうやら、叔母さんはこのことを言ったようだ。
「嬢ちゃん、どうだい?」
「ありがとう。また今度ね」
「つれないねぇ」
その口調が、どことなくレイチに似ていて、私は笑ってしまった。そういえば、猿っぽい赤ら顔をしている。もしかしたら、お昼からお酒を飲んでいるんじゃないだろうか。私は会釈をして、橋を渡り始める。車が交互に渡れるほどの大きな橋だ。その橋の半ばで、私はもう一度下を流れる川面を見る。
結構な高さがあるのに、水底まではっきりと見える。きれいな水だ。それに群れ泳ぐ魚の姿さえ分かるほどだ。一瞬目眩を覚え、私は橋の縁に捕まった。魚の群れが、子どもたちに見えてしまったからだ。タオルで目を覆い、視線を川から外し、一気に橋を渡り終える。ふぅと一息つくと、私は道の先を見た。おばあちゃんは家はすぐそこに見えている。道から一本だけ奥に入った場所だ。私はそちらに向けて歩き出す。
ふっと、横風が私の髪をさらった。
見ると、細い舗装もされていない道が山の中へと続いている。見覚えがある道だ。興味惹かれるまま、私はその細い道へと向きを変える。細い道の左右には、私の膝丈を越える草が生えている。それでも、道の間だけには草がない。ここを通る人がいるということなのだろう。両脇には木々も生い茂っており、見上げると緑の葉の間から太陽の光がかすかに漏れてきている。いくつもの虫の鳴き声が、私の鼓膜を揺らす。きょろきょろと視線を動かしながら、私はゆっくりとその道を進む。
しばらく進むと、道を囲うように鳥居が立っている。赤い鳥居だ。ところどころ汚れていて、赤い装飾が落ちているところもある。その鳥居を越えてもう少し進むと、道の左手に小さな祠があった。祠の中にはお地蔵さんが立っていて、手に錫杖を持っていて、頭には傘を被っている。私はカミカドを思い出す。彼もこんな格好をしていたような気がする。
「暑いねぇ」
わざと声を出して私は呟いた。タオルで額の汗を拭うと、そのまま道を進む。祠を越えてすぐに、少し開けた場所に出た。ちょっとした高台のようで、周りの風景を見渡すことができる。山に囲まれた小さな村。山の上手から流れてくる、大きな川。視線を下に落とすと、小さな道はおばあちゃんの家の裏手に続いている。
私はゆっくりとその道を下っていく。
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