橘の朝、藤の夜

 一輪の橘が綻んでいた。

 御簾をくぐり、ふと目にしたその橘を、光は今出てきた局の主に少し似ていると思う。

 つややかな緑の葉の陰に、控えめに咲きほころぼうとする白い花。

 彼女はまさにそんなふうな、控えめで健気な雰囲気のひとだった。

「今宵また。」

 そう囁いて部屋を出た直後には、もう橘の事は忘れて、違う事を考えている。

 光はそれを不実なことだと思っていない。そもそもあれはただそう決まった、後朝の挨拶だと思っているのだ。

 もっとも、光は本当の後朝を、今朝迎えたばかりだった。

 初めての夜には一晩中、物語りして終わった女房と、昨夜初めて睦み合ったのだ。

 女は柔らかかった。

 すべらかで、そのくせ吸い付くような肌をしていた。

 優しい、良い香りが、一晩中光に絡みついていた。

 光が初めて女性に通ったのは元服した夜の事だ。

 その人はいまも光の北の方で、時々は同じ閨で眠るけれど、光はまだ北の方に触れたことがなかった。

 光の北の方は綺麗なひとだ。髪もまつ毛もくろぐろと濃くて、白い肌に映える。

 綺麗だけどちょっと整いすぎて、なんだか親しみにくい感じもするような美女。

 実は光は、もう少し優しい感じの女性が好きだった。

 そういう意味では昨夜の女房は嫌いではない。

 ただ、光の中にはすでにどうしても忘れられない面影があった。

 藤の盛りにであった、美しい年上の女性。

 濡れたまつ毛が頼りなげで、なんとか笑って欲しいと願った。

 元服して以来、物越しにしかお会いしたことはないが、光の亡き母に似ているという、父帝の女御。

 光がいつも思うのは、その人の事だ。

 昨夜はずっと良い香りがしていた。

 思うともなしに光は思う。

 もしも触れることができるなら、あの人の肌はどんなに甘く香るのだろう。


 名残の藤を口実とした誘いが北の方のもとから届いたのは、その日の事だった。

 北の方からといっても直筆ではなく女房が代筆した文だが、特に香り高い萌黄の薄様に書いた文を咲き誇る藤に添えた、美しいものだ。

 藤を見るのもいいかもしれない。

 どちらにしても、北の方を訪れないわけには行かないし、誘いにのるのもいいだろう。

 自分を昨夜の女房のもとに連れていったのは、北の方の兄だった。意図は見え透いているほどだ。

 通い初めた頃には十二歳だった光ももう十六だ。身体つきも大きくなり、しっかりもしたと自分でも思う。そして自分を婿に迎えた左大臣の意向はわかりきっていた。

 自分は北の方に姫を産ませなければならないのだ。

 光は北の方に行くという返事をしたためた。


 白い月がかかる下に、おびただしい藤の花が生けられている。

 藤はもう散り際だから、咲き残った花をかき集めたのだろう。

 唐わたりの大きな壺にあふれるように生けられて、甘い香りを放っていた。

 女房たちが楽を奏し、光も笛を手に取った。北の方もほんの少し、合奏に加わる。

 和琴をひく北の方の頬に、黒髪が落ちかかる。

 やはり、美しい人だと思う。

 父帝の女御や更衣たちの姿を見慣れていた光から見ても、北の方は美しかった。

 月と藤を楽しむために、灯火を絞った室内の薄闇で、白い肌が浮かびあがる。

 知ったばかりの女人の肌の感触が、光の中にやけに生々しく甦った。

 演奏が終わり、北の方が顔を上げる。

 目が合って、光はドギマギして目をそらした。

 閨に入っても藤の香はまだ香っていた。

 どうやら閨にも藤が飾られているらしい。いつも通り並んで横になるが、昨夜の記憶があまりにも生々しく、光は直ぐ側の体温を意識せずには居られなかった。

 触れるほど近いわけではないが、確かにそこにいるとわかるほどには近い距離。今までなんでもなかったその距離が、妙に苦しい。

 まして、淡く香る藤の香が、光をさらに混乱させる。

 昨夜の女体と、忘れ得ぬ面影と、北の方が溶け合ってゆくような。

 すぐそこに、体温がある。

 慣れた、けれど触れたことはないその温もり。

 しばらく背を向けて、こらえていた光だったが、寝返りをうって北の方に向き直った。

 しばらく見つめていると、北の方も光に背を向けて横になっているのがわかる。

 長い黒髪を枕辺に流し、袴に単を羽織っただけの北の方の輪郭は、重たげな衣装をつけていた時よりも、ずっと細く儚げだった。

 単を払い落としたのなら、肩に直に触れられるだろう。

 袴の紐を解けば、真っ白な裸形が現れるはずだ。

 光の指が、北の方の肩にのびる。

 指が今にも触れそうになった時、北の方が身動ぎして指をかわした。

 光の内の熱がすっと冷める。

 自分は何をしようとしていたのだろうと光は思う。 

 この人は昨夜の女房ではない。

 忘れられないあの人でもない。

 十二歳の年から同衾しながら、いまだに心許さぬ自分の北の方ではないか。

 美しいけれど、どこか親しみにくいこの人に、こんなに簡単に触れていいはずがあるだろうか。

 光は再び寝返りをうち、北の方に背を向けた。

 そのまま光は眠りに落ちて、朝まで目覚めることはなかった。

 閨に飾られた藤は、朝にはすっかり萎れていた。

 

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源氏物語サイドストーリースピンオフ 真夜中 緒 @mayonaka-hajime

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