第64話 きっと今夜が最初で最後
ベッドに後ろ手をついて、早くも暗くなりかけた窓の外をぼんやりとながめる。
水笛を吹くような鳶の鳴き声が窓の外から聞こえた。魚を取り合って、街のカラスと喧嘩でもしているのだろうか。
「レグラムに見せたあの顔を思えば、私なんか殺そうと思えば簡単に殺せたはずなのに、結局殺さなかった」
ラトゥースは、膝の上でこぶしを握った。スカートをくしゃくしゃにする。
「もっと早く気づいていたら良かった。あのひとが、ギュスタ神官の生き別れた妹だったって。ギュスタ神官のことだって、罪を責めるばかりじゃなくて、ちゃんと彼の話を聞いてあげられたらよかった。なのに、私ときたら、最後までぜんぜん気付かなかった。もし、気付いてあげられていたら」
声をつまらせた。苦しげに顔をゆがめる。
「私なんか、自分勝手な理想を口にするばかりで……ぜんぜん、自分では、何もできなくて……結局は人任せなのに、みんなに迷惑ばっかりかけて……」
「違う」
ハダシュはその手をつかんだ。
いろいろな思いが錯綜しては消え、水泡のようにもろくはじける。
言いたいことはたくさんあった。言わなければいけない言葉も、言ってはいけない言葉も。だがまともな台詞が口を衝いて出る前に、手が、勝手にラトゥースを引き寄せた。
小さくふるえる肩を、かばうようにして抱き寄せる。
ラトゥースは抗いもしなかった。
「私……どこで間違ったんだろう」
すすり込む息のつめたさがかすかに流れ込む。
唇が、ほんのりと白くふるえていた。
「間違ってなんかねえよ」
聞こえなくてもいい。伝わらなくてもいい。それぐらい低くささやく。
「もし、おまえに会えなかったら、俺は、人間らしい気持ちってのがどんなものかさえ知らないままだった」
ラトゥースに出会っただけで、人生のすべてが変わってしまった。
もし、道を違えていたら。
ラトゥースが架けてくれた黄金の橋を渡ってこちら側へ戻ろうとしなかったら。
今頃どうなっていただろう。陽の当たらない裏路地をいつまでもあてどなく彷徨い、傷ついた足を引きずって、運命を呪い、他人を妬み、やがて動けなくなって冷たい雨にうたれ、そして。
だからこそ分かる。
ヴェンデッタは、最初から生きてゆくことを諦めていた。
本当は間違っていると分かっていても、破滅に身をゆだね、復讐だけを糧にして。
死にゆくすべだけを探していた。
愛と憎悪の見分けすらつかなくなるほど、人の心をなくして。
「……そう言ってもらえると、少しは……って思っていいのかな」
ラトゥースは、ちいさくほほえんだ。涙のにじむ眼を何度もしばたたかせ、ハダシュを見つめ、息をとめて、それから。
ぎごちなく、まぶたを閉じる。
無言の時間が流れた。ラトゥースは片方だけ、ちらっと薄目を開けた。
「まだ?」
「何が」
「……」
ラトゥースは涙まじりのためいきをついて、苦々しく笑った。
「ああ、そう言うこと。要するにこっちから無理やり行くしかないってわけね、ええ、ええ、分かったわ。ズルいったらもう……ううん、なんでもない。気にしないで。もう大丈夫よ。そうよね、何があっても前に進まなきゃ。それが、王国巡察使たる私の
再び顔を上げたときはもう、いつものいたずらな笑顔だ。
ハダシュは、ひたすらどうでもいいことをしゃべっているラトゥースの名前を呼んでみようとした。なのに、そんな簡単なこともまだできないと気づく。
名前すら、軽々しく呼んでやれないほど、まだ。
ラトゥースはポケットをごそごそした。
「ん、大丈夫。大丈夫大丈夫。キスなんてしてくれなくったってぜんぜん平気なんだから。あ、そうだ。ついでに思い出したから言っておくけど」
ハンカチを取り出して、くしゅ、と鼻をかむ。
「一応、ハダシュのことは宰相閣下あての特急便で嘆願書を書いて出しておいたから。何せ、黒薔薇やレイス先生の正体を暴くのに協力してくれた唯一の生き証人だものね。まあ船やら証拠品やらは盛大に吹っ飛ばしちゃったけど……それは私たちのせいじゃないし……たぶん司法取引が認められると思うの。ほら、何て言うの、超法規的措置ってやつ?」
「ラトゥース・ド・クレヴォー」
ハダシュはぶっきらぼうに饒舌をさえぎった。
違う。呼びたい名前は、そんな呼び方ではない。
ラトゥースが面食らったふうに目を泳がせる。
「何、突然、改まったりして」
「だから長すぎるんだよ、お貴族様のお名前ってやつは。苗字だの、
「あら、意外とくわしいのね。義父上は
「レイディ・ラトゥースか」
口ごもりつつ、また、かたくるしすぎる呼びかけの名で呼ぶ。
できることなら、もっと短い名で呼びたかった。だが呼べなかった。呼んでしまえば、きっと。
「安心しろ」
ハダシュはためいきをついた。吊り上げた口元にわずかな自嘲の影をおとし、笑う。
「超法規的なんとかも、司法取引とやらも不要だ」
ラトゥースは困惑の表情をする。
「どういう意味」
「俺は血に汚れすぎてる」
「えっ」
ラトゥースは、ふいに子どものような表情に戻って、いやいやとかぶりを振った。
「どういう……」
「レイス先生も言ってた。俺は人殺しだ。どんなに取りつくろおうとも、役人と取引しようとも、その事実は永劫に変わらないし変えられもしない」
「やだ。ホント、やだってば。そんな事言わないで。お願い。もうどこにも行かないで」
すがりついてくる、そのせつない表情が、今は何よりも胸に痛い。愛おしい。
「ばか。落ち着いて聞け」
「ばかはハダシュの方よ。誰もそんなこと言ってない!」
抗ってもがくラトゥースとの、唇が触れるか触れないかの寸前で、かろうじて押し返す。
今のままでは本当の思いを言葉にできない。名すらろくに呼んでやれない。
「俺は、お前の国の法に基づいた刑に服する。罪をつぐなって、真人間になって、堂々と戻ってくる。だから」
こんな図々しいことが言えるのは、きっと今夜が最初で最後だ。
犯した罪を償い終わる日が来るまで、二度と口にすることはない。
「その日まで待っていてくれ。必ず、戻ってくる」
ラトゥースはしばらくの間、まばたきもせずに固まっていた。
やがて、ようやく人心地がついたのか。
呆然とつぶやく。
「そんなこと言って。また逃げる気でしょ。冗談じゃない」
「冗談じゃねえって……」
「無理。そんな悠長なことしてたら、あっという間におばあちゃんになっちゃう」
ラトゥースは言葉を切り、くすんと笑った。目元をぬぐう指先が穏やかにきらめく。
「私が、いつまでもおとなしく待ってると思ったら大間違いだからね……っと!」
しまった、と思った時にはもう遅かった。ラトゥースが飛びついて来る。甘えたふうな、子どもっぽい、うぶなくちづけ。一撃で、溶ける。
「もう、二度と逃さないんだからね? もし逃げたら地獄の果てまで追いかけて逮捕よ、逮捕!」
「あー、もう、うるさい。せっかく俺が真人間になろうってのに、でけえんだよ声が」
「何その態度。ぜんぜん分かってない!」
「分かったから少し黙れ。さもないと」
外はもう薄暗い。
「何よ、子ども扱いして! だいたいハダシュがそんなこと言う……ぅ……ん……ぅん……?」
部屋の中に灯りはなく。吐息と、ついばむようなささやき以外には。
物音ひとつしない。
「おとなしく待てるか?」
「……うん」
窓の外には頬を赤く染めた月。恥ずかしがって黄昏の薄雲に隠れて、なかなか出てこない。
夕刻の鐘が聞こえた。
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