夜の果てに堕つ

第60話 流星雨

 燃えさかる炎が横顔をあかあかと染める。熱波を払うなにげない仕草にさえ、うすら寒い殺気がまとわりついた。


 ハダシュは防御の体勢を取った。

「やっぱりバクラントの間諜か。《竜の毒》を使うようそそのかしたのも、あんたの仕業だな」


 レイスは眉をぴくりと動かした。小馬鹿にした表情で答える。


「否定はしない。肯定もしない。だが、そんな些事にばかりかかずらっていると思われるのは心外だ」

「正体を隠して俺に近づいたのも、最初から」

「そこはお互い様じゃないか? 何も、恩着せがましく篤志ぶるためだけに、医者のまねごとをしていたわけじゃない」


 レイスは、剣を甲板の床板に突き立てた。手を離し、鼻で笑って、あえてよそ見をして。絶対的優位の余裕と、物分かりのいい大人の双方を演じ分けてみせながら話を続ける。


「いやまったく、今だから言うがね。大変だったんだよ? 君みたいに、自分の命をあだやおろそかにし、会うたびに瀕死、無事に戻ってきたと思えば致命傷をこしらえてくる奴にいちいち治療を施すのは。でも、だからこそ気が付いたのさ。君こそが、私が探していたな人間だとね」


「特別……?」

 ハダシュはいぶかしんだ。不穏に聞き返す。

「そう。特異体質と言ってもいい。

 冗談めかして話すレイスの表情が、火にあぶられて暗くかげった。


「君の無鉄砲は、てっきり自覚があるせいだとばかり思っていたが。まさかの見込み違いだったかな? まあ、いいだろう。君とは長い付き合いだ。このさい、腹を割って話そうじゃないか」

 笑みが深まる。

「わざわざこの船まで来てもらったのは、他でもない。取引したかったからだ。時間もないし、単刀直入に言おう」


 火葬のやぐらと化した船を、レイスは、熱に浮かされた笑みで眺める。


「この国を裏切れ」


 あまりにも軽薄で、直球すぎる誘いだった。意外すぎて、笑いがもれる。

「……裏切る? 俺が?」

「悪くない話だと思うがね。君は、この国では連続殺人鬼だ。いつ手が後ろに回るか知れたものじゃない」

「確かにな」

 ハダシュは気休めに苦笑した。

 いつもと同じ笑顔。いつもと同じ、そつのない、楽天的な調子で語りかけてくる。だが、そのすべてが偽りの顔だ。


「生まれた国が違うほかに、我々が敵対する理由などない。ならば和解の方法はひとつ。バクラントへ来い。せっかくの腕をこんな場末の街で腐らせるのは、あまりにも惜しい」


「ハダシュ、だまされちゃだめ」

 ラトゥースは焦った声をあげて割り込んだ。

「レイス先生はっ……」


 白銀の線がラトゥースの耳朶をかすめた。ぢっ、という音と同時に、赤い血の珠が飛ぶ。

 ラトゥースは息を呑んだ。耳朶の痛みと、飛来したランセットの銀色、後方でかろやかに鳴る金属の音。顔がこわばった。動けない。


「姫、よけいなことは言わない約束ですよ」


 レイスはにこやかな笑顔で注意した。

 汚れひとつない白衣をはためかせ、黒手袋の指を一本。

 ふざけた仕草でぴん、と立てて口に当てる。

「次も、うまく外せるとは思わないでください」

 いつの間に装備したのか。扇型を描く銀のランセットがずらりと指の間に挟み込まれていた。眼鏡が光る。


 ハダシュは目くばせしてラトゥースを下がらせた。

 ラトゥースは青い顔でうなずく。見開かれた眼が、レイスのランセットを食い入るように見つめていた。

 確信する。ラトゥースを船に拉致したのは、やはりレイスだ。


「そろそろ限界かな」


 頭上の帆柱が、ひときわ真っ赤に燃えあがった。がらがらと音を立てて焼け落ちる。レイスは態度をあらためた。


「さすがに時間切れだ。もういいだろう。返事をくれたまえ。もし、こころよく私の提案を受けてくれるなら、今後一切、姫には手出しをしない。約束しよう。これは相当な譲歩だぞ」

「だっ、だめよハダシュ……」

「てめえは口を出すな」

 ハダシュは声を低く凄ませた。ラトゥースをわざと強く振り払って、背後へと押しやる。

「断れば?」

 レイスは、にこやかに答えをうながす。

「私が欲しいのは、君だけだ」


 ハダシュはゆっくりと深呼吸した。肺の奥に熱風と塵煙が吹き溜まる。負傷した左肩が、焼け火箸をねじ込んだかのように痛んだ。


 周囲を見回す。

 レイスのいう通りだった。船全体に火が回っている。

 ろくな武器もなく、もはやまともに動けもしない。炎に囲まれ、前後を挟まれた状態では逃げることも不可能。かといって手負いのまま立ち向かうのはあまりにも絶望的すぎる。


 この国を裏切れ。


 自分の命を捨ててまで誓う忠誠など、存在しない。

 どうせさしたる思い入れもないのだ。捨てるも裏切るもない。

 言われるがままにレイスの提案を受け入れ、形だけでも膝を屈するふりをすればいい。

 そうすれば、もしかしたら。

 ラトゥースの命だけは、救えるかもしれない。


 死を賭しての無謀な戦いを挑むか。

 恥を忍んで哀れみを請うか。

 ふたつに、ひとつ。


 ラトゥースがふるえる手を伸ばした。指先がハダシュの肘に触れる。

「やだ……行かないで……」

 ハダシュは冷たく突き放す。

 一歩。前へ進み出る。


 燃えさかる帆柱が、おそろしい角度で左右に揺れ動いていた。炎が巻きたてられ、竜巻めいた火柱となって上空へと昇ってゆく。

 後部甲板が轟音をあげた。爆発の黒煙がもうもうと噴き上がる。真紅の火の粉が雨風に混じって降りそそいだ。


「じゃ、返事を聞こうか」

 レイスが尋ねた。

「断る」

 即答した。挑発の薄笑いを浮かべる。


「そうか」

 レイスはさも当然、と言った顔でうなずいた。さして落胆するふうもない。

 かりそめの軽薄な笑みが剥がれた。

 傍目はためには分からぬほど、少しずつ白く霜の降りてゆく表情かお

 隙ひとつない、鋭利な刃そのものの身のこなし。ゆらり、と。動く。


「残念だ」


 めまぐるしく明滅する火と雨と闇の狭間。閃光が瞬いた。交差した手から、血の色を熔かし込んだランセットの刃が放たれる。

 光刃が四方に散った。

 空が裂ける。全身が総毛立つ。


 反射的に回避。乱れ飛ぶランセットに気を取られ、一瞬、相手の姿を見失った。

 白衣の残像が眼の隅にこびりつく。

 気づいた時には目前に喜色満面の笑みとランセットの刃針。


「っニタニタしてんじゃ……!」


 あえて防御を捨て、攻撃を受けるより前に、大きく足を踏み出した。重心をかけ、膝下をぐっと折り込み、腰を低く沈めて。

 床を蹴った。膝のバネをたわませ、頭を突き上げるようにして瞬時に相手の間合い内側へ飛び込む。


「ねェーーーーッ!」

 心臓の位置めがけ、掌底の一撃。肋骨ごとへし折るつもりだった。全力でぶちかます。

 岩盤を直接殴ったような反動が、腕から腰まで骨にギンッと響いた。防弾胸甲を入れているのか。

「っ痛ぇぇ!」

「そこでこっちに向かって来るかい、普通!」


 レイスは、がはっ、と、肺の空気を吐き出しながら笑った。

「君らしいな!」

 腕をしなわせ、鞭のように旋回させる。


 両手のランセットが白光一閃。

 大きく頭上を横に薙いだ。続けざまに下からあおるような一撃。

 どこもかすめていないというのに、空気を引き裂く衝撃が皮膚の上っ面を削り取った。

 細かな血の霧が飛散する。


 喉すれすれを十文字に銀影が走る。

 間一髪。と思ったときには、拳から生えた切っ先が眼球の直前にあった。

 見切れない。速い。


 小さな手術道具のはずが、巨大な剣の切っ先に比して見えた。雨を削ぐ針先が、銀の炎となって迫る。


 たまらず腰くだけになって逃げた。身をかわす。

 が、ばら撒かれたランセットを誤って踏んだ。

 足がもつれた。体勢を崩す。

「くっ……!」


 倒れながら受け身をとって旋転。

 立ち上がる寸前、床に手を滑らせてランセットをすくい取る。

 指先に影がさしかかった。


 ハダシュは背後を見もせず、本能だけで反応した。振り向きながら身をよじる。

 殺気のかき鳴らす轟音が鼓膜を打った。

 鋭利なランセットが目玉を抉りにくる。とっさに先ほど拾った一本で打ち返した。弾き飛ばす。

 金属音が、山なりの放物線を描いた。


 横っ飛びにまろび逃れる。息すら、つけない。あらためて血の気が引いた。


「ぐっ、あ、はあぁ、マジか……」

 ハダシュはよろめき立ち上がりながら、悪態と一緒にあえいだ。肩の銃創のせいで腕がちぎれそうに痛む。声がつまった。

「このクソ医者が、ヤバすぎんだよてめえ……」

 煙を吸い込んで、咳き込む。新鮮な息を吸いたくとも心肺の機能が追いつかない。心臓が割れそうな音を立てた。


「相変わらず逃げ足は一流だな」


 レイスは冷然と笑みを浮かべた。

 甲板に深々と突き刺さった剣を抜き取る。重量感のある幅広の湾刀。


「嬉しいね。こんなふうに、君と殺し合える日がくるなんて思いもしなかった。夢のようだよ」

 ゆらりと切っ先を真正面に向けて。殺意の狙いを定める。白刃に炎の波が映り込んだ。

「お医者さんごっこのに始末されるのは、本職に対して失礼だろうからね。正々堂々、斬られてもらおうじゃないか」


 声を立ててせせら笑いながら。そのくせ息一つ乱さず。

 確実に距離をせばめてくる。どこか間の抜けたところのあったレイスとはまるで別人。

 いや、違う。どうやら、現実を直視したほうがよさそうだった。


 目の前にいる男は。

 レイスであって、レイスではない。


「先生、いい加減、おしゃべりが過ぎるぜ」

 ハダシュは肩で息をはずませた。片目をつぶって毒づく。煙で眼がひどくしみて、まともに開けていられなかった。


「それは失礼。あまりにも嬉しくてね。つい舞い上がってしまった」

 揺れる船の上でありながら、重心は一定。相対する剣先はびくともしていない。


 頭上の旗竿が大きく揺れた。

 文字通りの火柱が、めきめきと音を立てて二人の間に倒れかかる。

「もっと、もっとだよ。ハダシュくん。心ゆくまで私を楽しませてくれ。殺し合えば殺しあうほど、もっと君が欲しくてたまらなく……」

 火柱が倒れ込んでくる。その炎の残像を突き破ってレイスが踊り込んだ。

 突きと見せかけての大上段から一刀両断。


 ハダシュの形をした影が、真っ二つに斬りおろされた。


 黒ずんだ塊が、ゴロリ、と甲板を転がった。ちぎれた帆布が風にあおられ、燃え散らばる。

「嘘、そんな、やだ…… ハダ……」

 ラトゥースはしゃっくりみたいに声をつまらせた。蒼白の顔で飛び出す。その髪の毛を、後ろのヴェンデッタが逆手にからめ取った。

「あ痛ぁあっっ!」

「邪魔よ」


 煙が互い違いに割れて、それぞれ別の方向へと流れ去ってゆく。


 レイスの剣は、倒れかかってきた柱を両断しただけだった。ハダシュは煙幕を蹴散らして走り込んだ。


「話の途中でいきなり攻撃すんな!」


 倒れた旗竿の燃え残りに飛びついた。腰と背中を中心にして支え、横薙ぎにかっさばく。

 闇に導火線の残像が走った。

 先端のロープがレイスの剣に当たって跳ね上がる。

 大量の火の粉が降りそそぐ。白衣にバラバラと音を立ててまだらの火の雨が降った。煙が上がる。

「そいつは悪かったね」

 レイスは剣で炎を振りちぎった。ロープの切れ端がのたうって左右に転がる。

「かくいう君も、軽口を叩く余裕が出てきたようじゃないか?」

「っ!」

 旗竿を手元から叩き折られた。取り落とす。

 うなりをあげる太刀風に炎が引きずられる。鬼気迫る炎舞が、禍々しい流紋の渦を巻いた。


 レイスは剣の柄から片手を離した。ずれた眼鏡がまたたく赤光を乱反射している。

「……やれやれ。手負いのくせにその反応速度。こっちは半分本気で首を落としに行ってるのに、よくもまあ、人の気も知らずにもてあそんでくれる。まったく、君というやつは」

 神経質な仕草で、眼鏡のブリッジを押し上げて位置を正す。

 レイスは折れた柱を蹴飛ばした。端へと押しやる。白衣の肩がすすけていた。

 浴びた火の粉を、黒手袋ではたき落とす。


「ほれぼれするほど憎ったらしいな、ああ?」

 言い終える間もなく斬りかかってきた。濡れた床に足を取られる。


「くそっ!」

 頭上を剣が刈り飛ばした。髪の毛の削げる、ぞりっ、という感覚が伝わる。全身が総毛だった。

 かろうじて転がって避ける。

「はは、いい格好だ」

 レイスは剣を逆手に持ち替えた。右に左にと逃げるハダシュを追いかけ、けたたましく笑いながら何度も、何度も剣を床に突き立てる。

「あはははこいつう、待て待てえ、逃げるなよう、アハハハハァ!」

「もてあそんでんのはどっちだ、ド変態め!」

「フフフ、ほうら捕まえた……!」


 避けようと仰向けに転がった瞬間。

 首の真横に剣が根元まで突き刺さった。

「ッ……!」

 身体が硬直した。声もない。

 レイスは、ニヤリと笑った。容赦なくかかとでみぞおちを踏みつけ、その反動で剣を引き抜いた。再度、顔周辺の床に突き立てようとする。


 内臓が挽肉のようにすり潰された。血反吐を吐く。突き刺した剣の衝撃か、焦げた甲板が割れた。へし折れる音とともに、奈落が口を開ける。

 灼熱のカーテンが下甲板から噴き上げた。一瞬、火だるまになりかける。


「ちっ、運のいい」


 レイスが炎を避けて後ろに下がった。ハダシュは濡れた床を転がって、服についた火を消し止める。全身から消し炭の臭いがした。焦げた床を踏み抜きでもしたら、それこそ一巻の終わりだ。


「ハダシュ、大丈夫!?」

 ラトゥースが駆け寄ってきた。

「るせえ、こんなかすり傷どうってことねえわ……」


 腹を押さえ、胃液の泡を嘔吐する。ハダシュはこぶしで口元をぬぐった。

 口の中に、饐えた血が逆流した。唾棄する。


「このままじゃ勝っても負けても丸焼きの黒焦げ、違うのは死体の首が最後まで胴体につながってるかどうかだけだ」

 膝を付いた状態のまま、ふらついて立ち上がれない。ごまかすには、口を動かすしかなかった。自嘲気味に笑う。


「大丈夫、どうせ拾うなら、ただの骨よりは頭の方が目立って見つけやすいし」

 ラトゥースは青ざめた真顔で言った。手を中空に浮かして、頭蓋骨をちょうどいい感じに持ち上げたような素振りをする。

「は?」

 思わず、まじまじと見返す。しゃがれた笑いが込み上げた。

「ばかかてめえは! 海の底の骨なんか拾えるわけねえだろ。危ねえから下がってろ。ヴェンデッタ、こいつを頼む」

 ラトゥースを押しやる。

 ヴェンデッタはゴミを見るような眼でハダシュを見た。

「……死ねば?」

「ああ、あとでな」

 ひりつく唇を湿らせる。鉄と煤の味がした。


「ハダシュくん、どうするね? このままでは一蓮托生だ。無理に雌雄を決することもないだろう? 逃げてもいいんだよ」

 炎の向こうでレイスがあざけった。


「あの太刀筋……」

 ラトゥースがひそひそとささやいた。

「元々はちゃんとした、きれいな剣を修めてたはずよ。それでいて、わざと流派を分からせないように、あんな野放図な邪剣の太刀筋を使っているみたい」

「どっちでもいい。あいつは強すぎる」

 ハダシュは息をついた。

 いまだ偽りの仮面を平然と被り続けてなお、類まれなる手練れの本性をのぞかせている。ただの野盗や人斬りではない。


 声が続く。

「むしろ今こそ、逃げるべきだと思わないかね? 邪魔をする君たちさえいなければ、次こそは、姫の義父上のお命を頂戴することになるだろう。そうすれば戦争だ。われわれ《竜の毒に魅入られたもの》のみが生き残る戦乱の世に変わるのだよ」

 長広舌のなかに、うわずった嘲笑が混じった。

「戦争か、後悔か。どちらでも君たちの好きな方を選んでくれたまえ! 人は、強大な支配にではなく、己の無力にこそ絶望するのだよ。地べたを這いずり逃げ回るほかない自己嫌悪の日々か、戦って砕ける自己満足の蛮勇か! さあ、選べ!」


 ラトゥースはぶるっとふるえた。寒気のする息を吸い込む。

「……どうして」

 わなわなと握りこぶしが揺れ動く。激情にかられた眼が、レイスを突き刺した。

「どうして、そこまでして、私たちを」


「惑わされるな、クレヴォー」

 ハダシュは振り向きもしなかった。炎越しにレイスをまっすぐ睨みつけながら、はっきりと。

 この場の全員に聞こえるよう、言い切る。

「そんなことはさせない。今、必ず、ここで。すべての決着をつける」


 ラトゥースは息を呑んだ。ハダシュを見上げ、涙がこぼれそうになるのを、手でぐいとぬぐってうなずく。


 船尾の屋根が炎にのまれた。火柱を噴き上げて崩れ落ちる。

 床が傾いた。船全体が、めきめきとたわむように大きく前後にかしいでいる。

 沈没するのは、もはや時間の問題だった。


「相変わらず、嫌な男ね。私にはそんなこと、一度も言ってくれやしなかったのに」


 鈍い、硬い音が甲板に転がった。せわしなく転がって揺れて、ハダシュの足元で止まる。

 巻きつく太いサソリの尾を模した柄に、ずっしりと厚みがある反り返った刀身。

 何十、何百と血を吸ったはずの刃は、おそろしくなめらかに研ぎ澄まされていた。罪ひとつ、汚れひとつない無垢な芸術品のように。

 いやになるほど見慣れた形のナイフだった。


 奇妙に静かな、水を打ったかのような気配を割って、ヴェンデッタが口を開く。

「使いなさい。あなたのでしょ」


 ハダシュは無意識に唾を呑み込んだ。ナイフと、背後の黒い気配とを見比べて、奥歯をぎりっと鳴らす。


 レイスの眼が、興に乗ってまたたいた。

「何のつもりだ」

「ハダシュは私の獲物よ。他の誰にも殺させはしない」


 レイスは口の端を吊り上げた。

「せっかくの舞踏会パーティに、無粋な水を差さないでもらいたいね」

「まだお医者さんごっこを続けているあなたに言われたくないわ。全然、本気じゃないくせに」


 突風が巻き起こった。ヴェンデッタの黒髪が激しく乱れなびく。


 黒こげのマストが、根元からぐらぐらとあやうく揺れた。今にも折れ砕けそうな軋みを上げている。

 白い蒸気と黒煙が入り混じって猛威を振るう。炎の流星雨が降りしきった。


「ギルベルト・デュゼナウ。最後にひとつだけ、あなたに聞いておきたいことがある」

「最期とは。穏やかじゃないな」

 黒薔薇のヴェンデッタは、レイスの嘲笑を唐突にさえぎった。

「どうして嘘をついたの。兄上が、エルシリア侯に処刑された、などという嘘を」

「嘘?」

 レイスは白々しく眉を動かした。


「だから、力を貸したのに。あなたの言っていたのは嘘ばかりだわ。兄上が、本当は生きていたと知っていれば、私は」

 ヴェンデッタは絶句した。涙混じりの声を呑み込む。


「知っていれば殺さなかったとでも?」

 悲痛な問いかけに対して、レイスは心底どうでもよさそうに答えた。

「たまたま邪魔な男を始末したら、それがたまたま生き別れの兄だった。低俗にして陳腐。よくある悲劇の筋書きだ」

 残酷に言い放つ。傷をえぐり、踏みにじる笑いを浮かべて。


 ヴェンデッタはよろめいた。

「違うわ……違う……違う……」


 うめくようだったヴェンデッタの声は、次第に張り裂けるような叫びへ、そして悲鳴へと変わっていった。


「私は母を愛していた。兄を愛していた。エルシリアの美しい森を、ハージュの美しい湖を、遙かに望む白銀の雪を、張りつめた氷を、沈まぬ太陽を、萌えいずる緑の息吹を、それらすべてを愛していた。だからこそ私の弱い部分が許せなかった。強く生まれ変わるために世界を呪い、運命を呪い、レグラムを殺し、あなたの言うとおりにこの国を憎んだ。なのに、なぜ!」

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