第59話 生きて、悔いて、償う。そう約束した。
「えっと……どうしよ」
ラトゥースは、はしごを登っていくヴェンデッタの後ろ姿を心許なげに何度も見上げた。
「追いかけたほうがいい、かな?」
「せっかくここまで追いつめたのに取り逃す気か。ついさっき、偉そうに『タイホする!』とか啖呵を切ってたのはなんだったんだ」
ハダシュは顔半分を苦々しい笑みでゆがめた。先ほど撃たれた傷が、熱をともなった激痛を帯び始める。焼け火箸を押し当てたようだった。めまいがぶり返す。
「あの女軍人が言ってたぞ。おまえはすぐ罪人に情けをかけようとするって。そんなことだからすぐにだまされるんだ」
「いや、その、でも、だって、ハダシュもさっき……」
ハダシュは舌打ちした。ぞんざいにあごをしゃくる。
「うるせえ。さっさと追え。このままだとマジで逃げられちまうぞ」
船全体が、断末魔の軋みを上げて揺れ動いていた。
たとえはしごや階段を上りきったとしても甲板や船首楼はおそらく火の海。生きるためではなく焼き殺されに昇ってゆくようなものだった。
それでもハダシュは、ヴェンデッタを追ってはしごを上がった。
青白く泡立つ海水が、狭い空間に渦を巻いて流れ込んでくる。濁流がごぼごぼと泡をあげ、扉を引きちぎって押し流していった。
一気に水位が上がる。
先ほどまで立っていた場所が、黒こげの支柱や、積み荷の樽、木箱、その他一斉になだれ込んできたものに埋めつくされてゆく。
頭上から火のついた角材が降った。はしごが、今にも抜け落ちそうなほど危うい音を立てて、ぐらぐらと揺れる。
突然、先をゆくヴェンデッタのつかんだはしごの段が抜けた。
悲鳴が宙に浮く。
ハダシュは降ってきたその身体を、とっさに全身で受け止めた。引きちぎられそうな痛みが腕に走る。
二人分の重みに耐えかねたはしごの横木が砕けた。そのまま、数段分をずり落ちる。
「危な……!」
この高さから三人一緒に落ちたら、おそらく命はないだろう。必死に耐え切る。
落ちてきたヴェンデッタは、ハダシュの腕の中で恐怖につめた息をもらした。
助かったと気づいたのか、震える手で、かろうじてはしごを握り直す。
「私を捨ててゆけば、あなたたちは助かるんじゃないの」
「逆よ」
下からラトゥースが割り込んだ。
「全員でここから脱出するの。後のことはそれから考えればいいでしょ」
「まさか、本気でここから生きて出られるとでも思ってるの。おめでたい子ね。分かってるくせに。それともまだハダシュに言ってないの、あのこと?」
ヴェンデッタはさびれた笑いで応じた。ラトゥースはためらいの言葉をぐっと飲み込む。
「聞かなくとも分かってる」
ハダシュは二人の間に割り込んだ。
ラトゥースが言いたくないことが何なのか、内心はうすうす分かっていた。
部下のシェイルに、あれだけ釘を刺された後だ。勝手な行動をした結果むざむざと囚われの身になるなど。考えもなしに、そんなことをするわけがない。
自らの身を囮にして、真の敵をおびき出すためだと──
ヴェンデッタは血まみれの手で、ハダシュの顔を自分の側へと向き直らせた。
胸に頬をもたせかけ、甘えるようにうそぶく。
「私は死ぬべき人間だった。本当なら、とうの昔に死んでいるはずだった。どうして生きのびてしまったのかしら」
濡れそぼった髪が頬に貼りつく。滅びゆくもの特有の、じっとりと湿って重苦しい死の匂いがした。
「そんなことないから!」
ハダシュを間に挟んでラトゥースが言い返した。声に涙が混じっている。
「死んでいい人なんていない! たとえ罪人だとしても!」
「もう、無理よ。私だけじゃない。あなたたちも、もう絶対に助からない」
ヴェンデッタの横顔が、夜光虫の淡い青の照り返しに染め上げられている。波に翻弄される木の葉のようだった。
「お願い、ハダシュ」
冷たい吐息。くちびるが氷の色に光っている。
「ねえ、一緒に死んでくれない。このまま、私と」
あらがわなければすべてが崩れ去る。そう思ってはいても、はしごを握る手がぶざまに震えた。
甘い、あきらめの吐息がまとわりつく。
熱に浮かされた眼が、ハダシュだけを食い入るように見つめていた。
「どうせ死ぬなら、あなたと二人で死にたい。あなたと一緒に、今、ここで、永遠になりたい」
同じ言葉だけを執拗に何度も繰り返して。
死の救いをいざなう唇が近づいてくる。
「一緒に、死にたい。あなたと」
ささやく声の、吐息の。何という蒼白の色か。
だが、もう、冷たい土にも似た愛を受け入れるわけにはいかなかった。
「断る」
断言する。迷いはなかった。
「俺は生きる。生きて、悔いて、償う。そう約束した」
ため息のような声が降った。
「嫌な男」
ヴェンデッタは誰に語りかけるでもなくつぶやいて、再びはしごを登り始める。
突風が吹き込んできた。潮混じりの雨が、べたつく磯の臭いを運んでくる。
大きく船が傾いた。上下に揺れる。そのたびに、船全体が軋んだ。波の砕ける激しい音が打ち寄せる。
出口が近い。外は嵐だった。
▼
戸板を跳ね上げて出た場所は、船首側の上甲板だった。
雨の夜空が、真っ赤に染まっている。
ハダシュは最後の力を振り絞って身体を持ち上げ、痛みと悪寒で化石のようになった両足を投げ出した。
続いてラトゥースが這い出す。
「やっと、外に、出られ……あいたた」
「濡れてるぞ。気をつけろ」
「ありがと」
ラトゥースに手を貸してやる。ラトゥースは肩で息をしながら立ち上がった。ぶるっと震え、両手で自分を抱いて。こわばった腕をさする。
船内部に端を発した火は、もう消えることなく。
容赦なく吹き付ける雨風にあおられ、獰猛な火煙を海にすり流していた。
竜の舌を思わせる炎が、船の表面を這い回る。蒸気が噴煙のように立ちのぼった。マストや帆布、艤装を呑み込んで、さらに赤く、高く、のたうつ。
見渡す限りの海面もまた、炎を映して、深紅の溶岩さながらに煮え立っていた。
ヴェンデッタは呆然と立ちつくしたままだった。
逃げ道を探すでもなく、ずぶぬれの姿で、ただ。
「遅かったね。待ちくたびれたよ」
物影にひそんでいた闇が、ゆらり、と動いた。
銀の刃にも似た光が伝い走る。
ハダシュは肩越しに振り返った。
襟を立てた白衣の男が立っていた。銀の髪。足元は闇と影に溶け混じって、見えない。
炎に照らされた半身だけが一瞬、赤く浮かび上がった。見慣れた形の眼鏡が、炎を反射して血しぶきの光を放つ。
にこやかな笑みを浮かべた貴族的な顔立ちが、闇に半分沈み込んだ。
「まったく、やれやれだよ。さんざん苦労したのに。せっかくの船がこのざまとはね。まあ、当初のもくろみとは違ってしまったが、これだけ燃やせば港そのものもしばらくは使い物にならないだろう。撤去には一ヶ月以上かかるんじゃないかな」
異国の言葉だった。
おだやかな殺気を宿した微笑みが、ハダシュに向けられる。
「足止めには十分すぎる時間だ」
ハダシュは感情を押し殺した。それでも、わずかに声が震える。
「それがあんたの正体か。レイス先生」
「誤解しないでもらいたいね。姫のことは不可抗力だ。君だけが来てくれればそれでよかったのに」
銀の髪が風に吹き払われた。ひどく不気味にたなびく。
だが、レイスはもはや乱れ散る髪を押さえようともしなかった。
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