第16話 それが本当にあなたの生きるべき世界なのか

 ハダシュは仰天して飛びすさった。

 駆け込んできた中年男もまたハダシュに気付き、奇声を上げてつんのめった。右手に酒瓶、左手には染みの付いた麻袋を下げ、コートはすりきれてよれよれ。武器を持っている様子はない。


 見つかった──


 ほぞをかむ間もなく、悲鳴を聞いたラトゥースと軍人がドアを蹴破るようにして飛び出してきた。


「ハダシュ」

 ラトゥースが絶句する。


 女軍人は酷薄に眼をほそめた。息を吐きつつ、わずかに腰を落とし、あからさまな敵意でサーベルの剣柄を押し下げる。


「貴様、なぜここにいる」


 ラトゥースはぎょっとしたふうに眼を押し開いて軍人の動きをさえぎった。

「待って」

「なりません」

 軍人は聞かない。銀の刃が血を欲してぎらりと鞘走る。


 ハダシュは顔をゆがめた。

 すばやく左右を見渡す。


 挟まれた。三対一。だが敵は二手にわかれている。


 一瞬の判断でハダシュは中年男に飛びかかった。腰めがけて当て身をくらわす。

 男はたまらずのけぞった。


 互いに体勢を崩し、絡むようにして倒れ込んだところに渾身の蹴りを入れ、踏みにじり、よれよれのコートを引っ掴んで盾にしつつ跳ね起きる。

 もがく男の手に握られた酒瓶が空を切る。


 ハダシュは本能的に瓶を奪い取った。


「だめ、やめて」

 ラトゥースが叫ぶのと、ハダシュが瓶を振り上げるのとがほぼ同時だった。


 逃げようと足掻く男の後頭部めがけ瓶を叩きつける。

 ガラスの割れる音が響きわたった。

 ワインと鮮血が入り混じって凄惨に飛び散る。


 男は壁にぶち当たって崩れ落ちた。

 まだらの色に染まった苦悶の呻きがつぶれ、そのまま、動かなくなる。


 ラトゥースのくちびるから悲鳴が洩れた。よろめき、進み出ようとしかけて、剣を抜き払った軍人にぐいと引き戻される。


 緊迫し、音を無くした闇の中で、痙攣する男の手が流れる血のワインをはねとばした。


「どうして、こんなことを」

 ラトゥースの眼から涙がこぼれ落ちる。

「どうして」


「お下がりを、姫」

 女軍人の声が塗り込められた闇を制した。怒りを潜めたするどい声が放たれる。

「危険です。近づいてはなりません」


 ハダシュは眼を上げた。

 その一言で、張りつめていた神経が切れた。

 青白く燃える眼と眼が壮絶にぶつかりあう。


「うるせえッ、それがどうした。騙しやがって」


 ハダシュは拳を壁へとたたきつけた。手負いの痛みごと人間らしさを振り捨てる。


「ちがう、そうじゃない」

 ラトゥースは眼に必死の色をたたえて何度も強くかぶりを振った。

「勘違いしないで。これはあなたのためなの。お願いだから、おとなしくして」


「黙れ。偉そうにしやがって。俺を売る気だったんだろうが」

 ハダシュは怒鳴りつけた。


 血の臭いを隔てて向かい合ったラトゥースは、先ほどのしとやかな、愛らしい雰囲気とはまるでちがって、総毛立つ戦慄に打ちのめされ、今にもくずれ落ちそうに見えた。


「違う。あなたを助けたいの。だから聞いて。分かってもらえるまで何度でも言うわ」

 ラトゥースは声を震わせながらも激しく口調をつのらせた。

 女軍人に押さえつけられながらも身を乗り出して続ける。

「今、ラウールのところへ戻ったら二度と帰れなくなる」


 ハダシュは絶句し、ラトゥースを見返した。


 部屋からさす光、廊下を満たす闇。

 二律背反する光がラトゥースの半身をそれぞれに切り取り描き出し、陰影深く浮かび上がらせている。


 さまざまに変化する表情は大人と子どもの狭間で揺れ動くもどかしさに似て、どこか不安なようでもあり、また逆に潔癖すぎる理想を追っているようでもあった。


「宝石商のジェルドリン夫人が黒薔薇と関わっていたことも分かってる」

 ラトゥースは堰を切ったように続けた。

「知らないとは言わせない。《背中に刺青のある赤毛の殺し屋が、夫人を殺害し、逃走中》。あの夜、追われていたんでしょ、黒薔薇に」


 ハダシュの息が止まった。


「全部、なかったことにしてもいい。私があなたに関する全責任を負う」

 軍人の手から無理やりもがき出ようとしつつ、ラトゥースは悲壮にうめいた。


「だからこのままここに残って、力を貸して欲しいの。私にはどうしても黒薔薇のヴェンデッタを追いつめなくちゃならない理由がある。あなたの協力が絶対に必要なの。だから、お願い、ハダシュ」


 ハダシュは血の気の失せた表情で呆然と立ちつくした。

 声も出ない。

 唇がやけに乾いた。

 何度もなめて、湿らせる。だがそうすればするほど意識がひり付いて不快感が増していった。わけが分からなくなる。


 大切なもの、自分の居場所、助け合える仲間。自ら拒絶し、叩きつぶしてきたそれらを、どうして今さら手にできようか。


「ふざけるな」

 頭からはねつける以外に、返す言葉が見つからない。


 ラトゥースは胸に手を押しあてた。声を高くし、必死の面持ちでさらに強く言いつのる。


「だめよ、ハダシュ。このまま一生、闇の世界で暮らすなんて駄目。それが本当にあなたの生きるべき世界なのかどうか、もっとよく考えてみて。大丈夫、あなたならきっと戻れるわ。今がなの。自分を信じて、立ち止まって、考え直してみて。お願い、信じて」


 信じて。


 その言葉を耳にした瞬間、ハダシュは自分の中の何かがめりめりと音を立てて壊れてゆくのを感じた。

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