第15話 何度、同じ言葉を心に繰り返しただろう

 分かっている。逃げられない。裏切ることなどできようはずもなかった。


 犬のように飼われても、なお。


 他の薬では効かないのだ。ラウールの売る凶悪なそれでなければ、もう。

 ラウールもそれを知っている。だからもう、人間を見る眼ではハダシュを見ない。

 モノだ。あれを殺せと言えば殺してくる。身体を売れと言えば売ってくる。

 その代償は金と薬と居場所。それだけの道具。


 ヴェンデッタの冷ややかな嘲弄が胸に突き刺さった。

(今の貴方はただの奴隷。あの男に飼われた犬)


 拳を握りしめる。こんなはずではなかった。


 何度、同じ言葉を心に繰り返しただろう。こんなはずではなかった。

 降りしきる鮮血の霧雨。ぐっしょりと骨まで濡れて、石畳の上でもがきながら、何かを探して。唐突に終わる下らない命。


 こわばった眼を、床に落ちたはさみへと向ける。

 この部屋に忘れ去られた、唯一の刃物。

 苦い思いを振り捨て、ハダシュは手を伸ばした。

 錆びたはさみを拾い、青ざめた顔で見入る。

 小刻みに震える手の中で、ゆるんだ刃が鳴る。


 こぼれた刃の手入れもされず、まだらに黒く赤く錆びるにまかせたそれをためつすがめつ調べ、詳細に見入る。

 先ほどの娘、ラトゥース・ド・クレヴォーを捕らえ、喉にこれを添わせて脅しつければ、あるいは強引に脱出できるやも──


 いや、無理だ。


 疲れたためいきがもれた。こんながらくたなどおそらく何の役にも立ちはしない。

 なぜかそんな気がした。

 あの娘は憎悪を恐れていなかった。目を見れば分かる。牙を折られた殺し屋の刃など、あの娘にとっては敵のうちにも入らないだろう。


 窓を見やり、金属の手すりを兼ねた格子を確認する。

 脱出可能ではあるが、今のところそこまでの気力はなかった。

 随分見くびられたものだ、とハダシュは苦笑した。


 はさみをテーブルに戻し、片足を引きずって部屋の戸口へと向かう。

 滑りの悪い閂を持ち上げ、用心深く横へ滑らせてゆく。

 驚いたことに鍵すらかけられていなかった。

 ゆっくりと戸を引き開ける。油の切れたちょうつがいが壊れそうな軋みを上げた。


 足音を忍ばせて廊下に滑り出る。


 窓のない廊下は、濃い闇に澱んでいた。見えない空間を隔てた前方左側から赤く斜めに射し込んでいる光だけが、その先に人の気配があることを教えている。

 さらに一歩踏み出す。床板が音を立ててたわんだ。

 身をこわばらせる。


 気味の悪い冷汗がにじみ出た。

 凄まじいまでの緊張と同時に相反する倦怠感が全身を押し包んでゆく。

 殺してでも奪わねばならない何かがあるような気がした。

 身体中の傷が熱を帯びて腫れ、痺れ出す。動揺がみじめな惑乱を生み、痛みとなって次第に大きくなってくる。


 緊張のあまり意識の半分が被虐的な飢餓感に占められてゆくのを何とか押さえ込み、歯ぎしりのような荒々しい息をひとつつく。


 左右を見渡し、近づく者の気配がないことを確かめる。

 怖れることはない。死は常に背後に潜んでいる。


 ハダシュは壁に添い忍び歩いて、角で立ち止まった。


 すぐ隣に扉があった。下の隙間から帯状に黄色く灯りが洩れている。

 陰謀めいた話し声が聞こえた。


 近づいて、耳をそばだてる。


 戸板はあちこち節穴が開き、その上に色の違う継ぎ接ぎをいい加減にあてただけというしろもので、迂闊に身体を預けでもしたら扉ごと倒れ込んでしまいそうだった。


「それ本当なの」

 唐突なラトゥースの声が漏れ聞こえる。


 ハダシュは息をつめ、それから我に返ってかぶりを振った。油断させられるいわれはない。気を取り直して節穴の一つに眼を近づける。細い光が眼に当たった。


 まぶしい。戸板一枚はさんでいるだけなのに、なぜか手も届かない遠い世界を双眼鏡で覗いているような気がする。


 部屋の中央に、テーブルを挟んで話し合っている二人の女が見えた。

 こちらに背を向けている金髪の少女は髪型や衣装からして先ほどの少女、ラトゥースだ。

 表情は見えないが、せわしなく資料をめくる苛立たしげな仕草から感情をうかがい知ることはできる。

 ハダシュは会話を聞き取ろうと全神経を集中させた。


「レグラムめ、大したことないみたいに言ってたくせに。何なのこの件数」


 言った終いに、ぱしりと紙の縁をはじく。

 ラトゥースと向き合っているのは顔立ちのきつい女軍人だった。

 襟の詰まった金筋入りの軍衣をきりりと着込み、長く伸ばした髪を後ろにひっつめて、一筋たりともほつらせることなくまとめている。ラトゥースに付き従うエルシリアの軍人と考えて間違いないだろう。


 軍人はラトゥースと書類を前に、苦々しく口を開いた。

「シャノアが奴隷取引の中心市場となっているのは間違いないと思われます。特に十五歳未満の子供に関して、これは良家の子女ということですが、男女問わず誘拐され金品あるいは身代金を奪われたにもかかわらず救出できず行方不明になったままという事件がここ一年の訴えだけで六十四件」


 ラトゥースの舌打ちが聞こえる。


「通常の神経なら、とうてい見逃せない数ね」

「シャノア外から拉致されてきた数も含めれば、被害者の人数はゆうにこの数十倍にのぼりましょう。拉致されたすべての被害者を確認することはもはや不可能です」

「ってことは、シャノアから出る奴隷船を拿捕する以外、防ぐ手だてはないってことよね」


 ラトゥースはため息をもらした。


「神官どのが子どもたちのことを心配されるのも当然だわ。ひどい状況だもの。といって奴隷狩りの部隊に直接接触するのもしばらくは無理。私もシェイルも敵に顔を見られてる。もしあれが本物の……だとしたら、だけど」

「レグラムとカスマドーレはいかがいたしましょう」


 ラトゥースはうんざりした仕草で資料をテーブルに放り出した。

 高貴な身分であると自称したわりにははすっぱな態度で手を頭の後ろに組み、疲れたふうにソファの背にもたれかかる。


「あれは、ね」

 いったん言葉を切ったのは、どうやら悪びれもせずひそやかに笑ったせいらしかった。


「間違いなく賄賂を握らされてる。だけど、その相手が黒薔薇かどうかの確証はない。かといって証拠もなく追及するのも難しい」

「では、あの男を」


 女軍人がひくく言った、そのとき。


「大変大変大変、えらいこっちゃですわ……あああっと!」

 闇の反対側から急にだみ声が放たれたかと思うと、建物中に響き渡る足音とともに、何者かが猛然と階段を駆け上ってきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る