31話 智の花、糸の口

 安酒場の灯りが点々と浮かぶダウンタウンを、女はひとり黒衣を揺らして歩いている。脳の内容物が頭蓋から剥離して体液に浮かんで揺れているような、そういった酷く不快な頭痛を抱えながら、華は未だ血の止まらない胸を押さえ、歩いていた。致命傷ではなかった。けれど、抜き身の刀が胸を貫いたのだ。なんとかしなければならなかった。つまりは、いつものように。

 華は、店主不在のバーの横から地下へ降り、薄暗い通路に入ってから、懐に手を入れて銀色の輪を探り当てた。小さなその輪にじゃらじゃらとぶら下がっているのは、旧時代的な形状の鍵、十一本。

 彼女はその十一本の中から最も古いと思われる錆た一本を選び出し、通路を奥へと進んだ。カビ臭い通路の先にある、アルミのドア。反響する足音がそこで止まる。取り出した鍵を差し込むと、鍵は軋むような音を立てながらも開き、ほどなくして呆気なく彼女の手中で折れた。肢の先が鍵穴に刺さったままなのを見下ろし、華は己の手の内側に残った鍵の持ち手を輪から外すと、後ろへとに投げ遣った。金属がコンクリートに跳ねて転がる鈍い音が鳴るが、それが鳴り止まぬうちに華はドアノブを引いていた。

 目の前に現れた板張りの床から顔を上げ、自分の視界にかかった横髪をかきわけた時には、華はしんと音のない書架の合間に立っていた。星々の下でからん、からんとランタンが風に吹かれて音を立てる。彼女は息を一つ吐いてから胸を押さえ、目当ての場所に向かった。

 シャツに包まれた肌の上を血が滑り落ちていくのを覚える。彼女はそれでも足を前に進め、進むのをやめないままにぼんやりと考えた。なぜ私は、こんなことをしているのだろう。そういった類の問いに対する答えは既に出したはずだった。けれど彼女は再びそれを己に問い直し、答え直す。私がこうするのは、紛れもなく検校様のためだ。考える余地もないほど明らかに、私のなすべきことの全ては、あのひとの導きの先にある。

 そういった思考を自分の胸に染み込むようにと頭の中で繰り返し、そうするととうとう彼女の頭の中は、そういった堂々巡りの思考と、そこに一定のリズムを与える彼女自身の靴音だけになった。私は、あのひとに感謝している。あの日空っぽのまま落ちていた私に「華」寝床と食事を与え、それと同時に名前と役割を与えてくれた、あの人。あの人は何にもない私を、それなのに自分の傍に置き、飽くことなく導いてくれる。私はあの人に定義づけられて生きている。いまだ空っぽのままの私をあの人は、今も。

 華がびたりと足を止め、やつれた顔を上げると、そこは辺りと変わらない書架の合間──では、なかった。彼女の目の前にある書架の中央、本が詰まった棚に囲まれたその腹部には、両開きの扉がついていた。目の細かい木の格子の周りには花々の装飾が施され、引き手には重々しい金の南京錠がかけられている。華は重い頭を首の上でぐらつかせながらその扉に近づき、心まで委ねるようにしてそこに身体をもたせかけた。格子の上にびたりと張り付いた彼女の耳は、中の音を聞いている。そうすると、無音の扉の中から、まもなく小さなざわめきが湧き上がり、次第にその細かな物音は大きくなって、終にはどっと彼女の耳に押し寄せた。瞬間、彼女の身体に異変が起こった。その身体は腹の内側からびりびりと震え始め、扉にもたれかかったままの身体は、まるでその内側から揺さぶられるようにして激しくのたうった。意志に反して暴れる身体の抑えるため、彼女は足元に力を込めるが、それでも黒衣の身体は仰け反り、ねじれ、硬く噛み締められた奥歯の隙間からとうとう濁ったうめき声が漏れる。そうして荒い息を漏らし髪を振り乱しながら、彼女はそれでも押し寄せる痛みの激流を耐え抜き、それから不意に力が抜けたように転倒した。書架の間に倒れこんだ彼女は、すぐさま這って例の扉から距離をとる。彼女が離れた扉は今やひとりでに軋み、かかった南京錠が吹き飛びそうなほど、打ち破られんばかりに揺れている。息を整えながらその様子を見つめていた華は、手を首元にやってシャツのボタンをはだけさせると、血のついた胸元を露わにした。血が溢れ出していたはずのその場所には、もう傷はなかった。傷があったはずの肌は、血に濡れてはいるものの、元に戻っているのだった。それを見た彼女は淡々と息を吐くと、シャツと上着を着直し、ずれた眼鏡を押し上げる。

 顔にかかった鬱陶しい髪を横に払い、背後に扉の南京錠が尚も揺さぶられる硬い音を聞き流しながら、書架の間を再び歩き始める。彼女の仕事は「ここから」だ。


  ***


 まぶたの裏に焼きついたランタンの色が、瞬きするたび視界の真ん中にちかちか浮かぶ。そんな気がしたまま、私は浮き足立ってカフェのホールを回していた。料理を持っていくテーブルを勘違いしたって、お釣りを間違えて怒鳴られたって、そんなのがなんだっていうんだろう。目の前で起きている嫌なはずのことも、全部がどこか遠くで起こっていることみたいにどうでもよくて、私はいつにも増して一晩中にこにこ笑っていた。そういうふわふわした、夢の中からまだ帰ってないみたいに幸せな気持ちだった。

 朝、地下の小部屋で、私とまもるは向かい合って、しばらくの間さめざめと泣いていた。二人揃って泣いているから、自分が泣いているのか、まもるが泣いてるのか、そういうことがもう別々じゃなくって、ランタンに温められた部屋の中の空気ごと、ふたりで一緒に暖かい涙の中に浸かっているみたいだった。そのうち、まもるがぽつりと、

「帰らなくちゃいけませんね」

 と言って、私が、そうだ、とか、そうね、とか言って。坂の下のアーチまで私を送ったまもるが、はにかんでから踵を返して部屋へと戻っていったとき。あの時だ。あの時の後ろ姿が、今も眼に浮かぶようで。

 あれからずっと、私は夢の中にいるままだ。坂を上がってしばらくしてから、吉見のふたりが血相変えた顔で私を叱ったときも、冷めきったラザニアを持って帰ってきた私に春待ちゃんが涙ぐんで抱きついてきたときも、私はやっぱりふわふわした気持ちのままだった。三人ともに心配かけたし、不安にさせたし、きっと悪いことをしたんだ。でも、そういうことの全部が仕方ないことだったんじゃないかなって思えちゃうような、そんな素晴らしい、仄暗い夜の朝だったんだ。

 一体どこにいたんだ、と吉見の二人が尋ねてきたのは当たり前のことで、けれど私は、「どこかもわからず、ずうっと道に迷っていたの」なんて嘘を吐いた。足が痛くてしんどいし、春待ちゃんだって待ってるし、私、もう帰りたい! そんな風にごねたら、ふたりは顔を見合わせた後、私を家まで送ってくれた。ふたりとも、いいひとなんだ。アパルトマンの入り口で二人を帰してこっそり舌を出したのは秘密。だって、まもるの声を知っているのは、私一人だけが良かったんだ。昨日の地下室でのお喋り、熱っぽい彼の声音、まっすぐな瞳、涙ぐんで私を見つめていたときのあの目尻の形。そういうものの全部、ほんとうに「全部」を私は自分で持っていたくて、私ひとりだけで持っていたかったんだ。誰にも渡したり、見せたりしないで。そう思う私のことを、私自身なんだか後ろめたかった。でも、それと同じくらい、胸の奥がくすぐったいような感じがして。

 はあ、と私の喉の奥からゆったりとしたため息が漏れた。このまま今日がずうっと続けばいいのに。お客のいなくなったテーブルを片付けて、時折手を止めながらまたあのときの会話を思い返す。愛さえあれば、と彼は言った。そうかもしれない。愛さえ、あれば。口の中でその言葉を繰り返しながら、私は彼の柔らかくカーブした目尻のことを思い出していた。愛さえあれば。

「私はどこまでだって……」

 私の口がそう呟いていたとき、私の手がぴたりと止まった。テーブルに置かれたティーポットの銀色の蓋の中に、何かが映り込んでいる。私の姿じゃない。私の後ろにある、別のもの。

「話したの?」

 後ろから聞こえたその声に、私は、私の体が、彼女のそういう声色や、突き放したような調子や、こうして後ろからその声が飛んでくるということ自体を、心のどこかではずっと恐れていて、恐れるあまりにそれを待ち構えていたのを、つまりはそういう私自身のことを、思い出したのだった。私は振り返った。ゆっくりと、ぎこちなく私の両足が動いて、スピーカーから流れたままのジャズに靴の底が擦れる音が滑り込んだ。くるりとしたその一瞬の間に、私は路地裏で私の胸ぐらを掴んだあのひとの、病人みたいな顔を思い出していた。すると彼女は──茜は、壁に寄りかかったまま腕を組み、私のことをまっすぐに見つめていた。ああ、勘の良さそうな顔をしたひとだな、と思った。そう思ったのと同じくらい強く、あのひとはやっぱり約束を守らなかったんだ、とも思った。そして私は、茜の腕に、私が更衣室のロッカーにかけたままのはずの、私の上着とポシェットが巻きつけられているのを見つけた。

「話したのね」

 私の目線が上着から茜の顔に戻る前に彼女がそう言ったから、私は茜の顔を見つめるしかなかった。私の口は、ひどく心細そうな、薄情そうに震えた声で、

「……怒ってる?」

 と、彼女の質問には答えないで声を出した。

「失望した」

 茜は私の目を見なかった。それから組んでいた腕を解いて、上着をこちらに差し出す。

「それだけよ」

 私は茜から力なく上着を受け取って、それでも彼女の目をまっすぐ見ようとした。けれど、彼女はそれを許さなかった。彼女の伏した目は床の上を滑って通りに面した窓ガラスの方を向いたかと思うと、私を通り過ぎ、壁から身を離した彼女はそのまま店の奥へと消えていく。

「また明日」

 という茜の声が、閉じる休憩室の扉の音に挟まって、その余韻がなくなった後、私はカフェの中にひとりぼっちだった。まだ日付も跨いでいないのに。まだ、帰る時間じゃないのに。店の中のまばらなお客たちが皆んな揃って、でもこっそりと私のことを盗み見ている。上着とポシェットを両手に持ったままの私は、どうしたらいいのかわからなかった。バイトの制服を脱げないまましばらくそこに立っていた。涙が出そうだ。

 言い訳も許してくれなかった。


 ***


「派手にやられたもんねえ」

 と呆れ顔の椿に腰を包帯で巻かれながら、

「恨みを買った覚えはないんだけどね」

 と枇杷は不機嫌さを隠しもしない。華屋のいつもの洋間で暖炉に火を灯し、そこに集ったのは華屋のひとでなしたち。とはいっても、枇杷と椿と真木の三人だけなのだが。

「うちを攻撃してきたってことなんでしょ」

 しょ、の音に合わせて包帯の端をきつく結んだ椿に、枇杷がうめき声を上げ、悪びれない椿の顔をひと睨みする。それから枇杷はため息をつき、

「違う」

 と言って床を睨む。それから枇杷はすぐさま言葉を続けた。

「狙いは僕、ただひとりだった。いや、あれは」

 枇杷の目元が歪んだのを、肘掛にもたれて立つ真木が見ている。

「『僕が持っているもの』を狙っていた」

 持っているもの? と椿が繰り返し、真木は微かに首を傾げた。枇杷は眉根を寄せ、口元に手をやる。

「あれは何か、恐ろしく重要なことを隠している……」

 枇杷はそのまま神経質そうに足を揺らし、暖炉の火の色をじっと睨みつける。

「何か、僕たちに、知られてはならないようなことだ」

 そこまで言ったとき、

「っ……」

 枇杷がまた脇腹を押さえるので、真木はため息をついた。残りの包帯を救急箱に詰めながら、

「医者にかかったほうが良いわね」

 とうんざりした声を出す椿から離れるようにして、枇杷は肘掛け椅子から立ち上がり、

「そうだな。呼んでくれ。外に出たらまた襲われそうだ」

 と言って数歩先のカウチに倒れ込む。そのまま手近なクッションを引き寄せて顔を覆った枇杷に、真木と椿は眉を上げ、顔を見合わせた。


  ***


 書架にもたれかかり、華は手元の本のページを一枚一枚めくっていた。狂犬女が死んだあの夜のこと。あの夜のストーリーを、華はもう三度もこの本で辿っていた。話の筋を一言一句逃さぬよう、行ごとにべったりと目線を貼り付け文字を追っていく。しばらくそうしていた後、華は痺れを切らして舌打ちした。おかしい、どうにもおかしい。本を閉じないまま、華はその文字の向こうへと沈み込むようにして思考に潜る。

 枇杷のことは多少知っているし、調べもした。ひとでなしに花開いて怪物のごとく変貌した「かすみ」のいた場所、あの地下牢に、枇杷は華屋の人間という肩書きで幾度も会いにきた。鉄格子の間から奇声を上げ続けるだけの彼女に、辛抱強く語りかける枇杷。彼の言葉になんら人の言葉を返さないあの女に枇杷が向ける穏やかな横顔を、華は幾度も見てきた。枇杷は柔らかく声をかけ続けると、終いにはいつも必ず「また来るよ」と声をかけて出ていくのだった。

 華は、枇杷が己のことを化け物と思っていて、そうであるがゆえに、自分と同じく化け物じみた人間に対して悲哀のような親愛を覚えるのだということも知っていた。枇杷には確かに、かすみに愛着を抱いていたわけだ。

 華は深く息をすると、手中のシナリオに四度目の開演を許した。枇杷は愚弟たちの戦闘に割って入り、椿と共に敵二人を押さえ込むと、あっという間にその場の戦況を覆した。彼ならば敵の首二つを持ち帰るのも難しくはなかった、かもしれないが、彼はむしろ、路上に転がった愚弟一匹の命を救ってやることに手を回した。真木を抱えて椿と共に華屋へと退散した枇杷は、すぐさまもう一度街に出、かすみの姿を求めた。己の手で彼女を止めねばならない、と彼の足は夜の街を恐ろしく速く駆けた。そして、枇杷は八手とかすみの斬り合いの中に飛び込み、かすみに馬乗りになって彼女の胸を。

「刺した」

 華は淡々とした口調でもって、繰り返し読み覚えこんでしまったシナリオに幕を下ろした。黒いドレスの胸から生えた白銀の色。色の見えない彼女にも、そのはっきりと分断されたコントラストを想像することはできた。女を刺した彼が存在していた、じっとりと汗ばむような、けれど凍える冬の空気。胸に押し寄せる後悔の苦悶。

 そうして彼は自分が殺したかすみを抱き上げ、裁判所へと赴いた。そのときのことは、本で読んだ知識としてというよりは、むしろ華自身の経験として知っていた。顔を強張らせたまま、ゆっくりとかすみの死骸を自分に向かって差し出した枇杷と、骨ばった少女の身体を己の手で受け取った時の、小径の薄暗さ。悲壮を空気に散らしながら遠ざかっていく枇杷の背中。華自身が、それら全てを己の目で見たのだ。

 それなのに。華は思索にふける余り、無意識に下唇を触っていた。そうだ、「それなのに」、彼の物語の中には「鍵」が欠けているのだ。いや、枇杷がかすみをその手で抱き上げた時、彼女の体から鍵が落ち、枇杷はその鍵をポケットにしまった、ということははっきりと記載されている。第一、華はこの記述を頼りに枇杷に狙いを定め、枇杷に鍵を返せと要求したのだ。けれど、実際に会ってみれば、彼はしらばっくれもいいところ。というよりも、「本当に知らないのではないか」と思われるような態度をとり、華は大いに戸惑うこととなった。

 そして、枇杷の「不可解な」態度を裏付けるように、華の手にした本の中には事実が顔を覗かせていた。鍵を拾った後、枇杷の物語の中には、鍵の存在が二度と現れないのだ。最初に読んだときは気づかなかった。枇杷が鍵を拾ったというから華はそれを頼りに取り返しに行った。けれど、おかしい。噛み合わない。

 前提の話をすれば、ここにある書物は皆、その書物の題材たる人物そのひとが見てきた景色を描いているというのが前提だ。そうだとすれば、確かに、主観たる人物が重要だと思わなかったもの、つまりその人物の「意識に上らなかったもの」については、この本に記されることはないということになる。では、彼は気にかけていた「妹」の形見の鍵を持ちながら、それを一度も顧みることはなかったということだろうか。そう論理立てて自問し、華はすぐさま自答する。あり得ない。噛んだ下唇が裂け、そこにじわりと赤い色が滲んだ。思考の壁に行き当たった華は本を閉じ、長いこと活字を追って疲れた目に瞼を下ろした。

 ここに書かれていることに間違いはない。それはかつての十夜の言だ。掃き溜めの司法機関である十夜たちは、物事を公正に裁くという使命のもと、多岐に渡り最も精巧な目を持たねばならない。そうしたとき、この書架の森に入ることができること、つまりはここの本に書き出された掃き溜めの中の物語を閲覧できること、それこそが、彼らに与えられた最大の特権であった。特権の行使によって彼らが知りうる情報には、絶対的な正しさが保証されている。正しさ、つまりは、「語り手の見たままの世界を追体験できる」という、正確さという意味での正しさが。

 十夜に教えられたことは多い。まだ自分がこの街に来たばかりの頃、華は十夜に多くのことを教わった。華は書架から夜空を仰ぎ見て、懐かしい一場面に思いを馳せていた。


「昔はね」

 幻想のような景色に戸惑いつつも後ろを付いてきた華は、先んじていた十夜がそうしてぽつりと言葉を投げ出すのを聞いていた。

「ここにもひとがいたのよ」

 こつ、こつと、十夜のブーツが木の床を叩きながら進んでいく音が、華の耳にも届く。華は、風の音以外には何も聞こえない、静けさに満ちた風景を見回す。整然としてそこにある、どこまでも続く本の森。けれど人の気配はない深い森。

「ここにあるのは皆んな、そのひとが書いた本だった」

 十夜の足先が書架のほうへと向かい、夢遊病者じみてふらふらとしたその足取りが止まる。十夜は手を伸ばして書架から一冊の本を探り当て、手近なページを開いて指先で紙面をなぞった。紙の上に載った文字のかすかな凹凸を探るようにして彼女は文字列を辿り、それから彼女の口元には聖女のような微笑みが宿る。

「そのひとはね、相手の口から紡がれる音の物語を、自分の筆でそこに落としていくの。ひとつひとつ、相手の言葉をすくい上げるみたいに。言葉のひとつひとつを抱きしめるみたいに惜しみながら」

 十夜はページをひとつひとつめくりながら、愛おしむようにその紙面を撫でる。

「時々泣いてた。あのひと。涙ぐみながらも書いていた」

 華に見える十夜の横顔は穏やかだった。

「あのひとにとっては、言葉を尽くすことが愛情だったのね」

 十夜はそう言って本を優しく閉じ、革張りのそれを母親じみた愛情深い風情で抱きしめた。

「優しい時間だった」

 十夜は抱きしめていた本を手探りながら棚の隙間に当てはめ、そっと元の通りに押し入れた。

「でも、いなくなってしまった」

 彼女はその背表紙からそっと手を離し、二、三歩後ずさって、また書架の間を進み始めた。華もまた、十夜の後ろに従って再び歩き始める。

「ひとはいなくなって、今はただ、本が増えて行くばかり」

 殺風景な空気の中を、十夜の正確な足音がまた、こつ、こつと繰り返す。彼女の口から吐き出されたため息が、柔らかい音色を持って冬の中に溶けていく。十夜はそこでふと足を止めると深く息を吸い込み、その声音にほころんだような温度をのせた。

「今は、この図書館自体が息をしているのね。あのひとの意志だけを継いで」

 生きているのよ、と、十夜は天井を見上げるようにその眼差しを持ち上げ、囁く。開いた見えぬ目が、けれど天井の向こうを見ている。

「そうして、幾多の物語を紡ぎ続けている」

 胸の上で手を組み群青の空を仰ぐ彼女の姿は、まるで星に祈りを捧げる無垢な少女のようであって。十夜の視線に吊られるようにして、華もまた、色のない己の視界に降り注ぐ星々の輝きを見上げた。彼女には、その美しさがわからなかった。彼女の世界には、誰かの眼に映る夜空の濃淡や、星々の曖昧に溶けた色の違いが欠けていた。けれど、その、自分には見ることのできない世界の彩というものを、目の前の人物、世界の色も形も確かめられぬはずの盲人の女が、何より深く愛しているということを、彼女は望まざるとも理解したのだった。ゆらゆらと視界の中央で揺れていた十夜の髪がそのときはらりと広がって翻り、見えぬ目がはまったその顔が華の方に振り向けられた。

「私たちはね、そうして神話になったの」


 あのときの十夜の微笑みを思い浮かべていた華は、自分が手中の本の文字を目で追いながら、いつしかその中身を追わずにいたことに気がついた。彼女は数ページ戻り、再び中身に目を通し始める。けれどやはり、枇杷があの鍵に意識を上らせていることを示す記述は、どこにも見当たらなかった。どこにもないのだ。やはり、「書くほどのことではなかった」ということなのだろうか。

「でも」

 華の口から思わず声が漏れた。やはり、おかしい。彼女はそれから慌ててページを戻り、狂犬女が死んだ夜、あの「とどめ」のシーンまで戻って、それから注意深くそのページを見回し始めた。

「『ここに書かれていることに間違いはないのよ』」

 十夜の口から吐かれたその言葉を口に出しながら、華は慎重に紙面をなぞり、その指はゆっくりと本の綴じ目、つまりはのどの部分へと入っていき、何かに引っかかって止まった。華は眉をひそめ、ランプの仄暗い明かりが照らす図書館の中でそっと手袋を外し、今度は素手で先ほどの「引っかかり」に触れた。指の腹にかり、と当たる微かな凹凸。華が思い切って本ののどを開くと、その凹凸の正体が彼女の目に映った。「とどめ」のシーンを描いたそのページののどには、上から下まで乾いた糊付けの跡があったのだ。はっとして別のページと見比べてみるが、糊付けの跡があるのはそのページだけだった。

「差し換えられた……?」

 そうして口に出してみると、彼女自身己のその言葉に驚き、今度は別のことにも気がついた。そのページには、所々微かな凹みがあるのだ。枇杷の一人称である「僕」という字が刻まれた部分、その紙面が、他より「薄い」。その微かな凹みと紙繊維のほつれを指の腹で何度もなぞり、華は確証を得た。元来あったはずの文字が、そこから削り取られているのだ。つまり、つまりは。彼女の吐く息が熱く温度を上げ、喉の奥それ自体がびりびりと震え出した。ハイヒールの中に押し込めた足指の先に、自然と力が篭る。

 つまりは、ここに来た誰かが、別の場所からこのページを持ってきて、この部分に差し込み、元あった別の一人称を消して「僕」に書き換えたのだ。何のために? 明白だ。そうやって改竄しなければ書き換えたその「誰か」にとって都合が悪かったからだ。なぜ都合が悪い? 元々のページには、知られてはならないことが書かれていたからだ。 誰に知られてはならなかった? そこまで胸の内で問答を繰り返した華は、最後の問い立てを言葉に組み直している最中、既にそれへの返答をはっきりと見出していた。私だ。この、私だ。ここに出入りするひとでなしは、本来この私のみ。目の見えない十夜には字が読めない。このページに手を加えた何者かがこの本の読み手に想定しているのは、どうしたって私に他ならない。そして、その私から本来の情報をむしりとるため、かの人物はこのページを改竄した。そうだ、この私を、欺くために。華は頭の中でそこまで言語化してから、左手の本をゆっくりと頭の上に上げ、そこから一気に振り下ろして激しく床に叩きつけた。本は反動で跳ね転がり、どこかのページを開いて書架の合間に仰向けになる。華は今度、苛立つままに踵で床を踏みつけた。

 騙された。どこの誰ともわからない、存在すらも想定していなかった「誰か」に。全くの死角から、彼女は完全に出し抜かれたのである。彼女の怒りは凍りついた瞳の奥でますます激しく燃え上がる。そうして激情の最中にありながら、彼女の冷徹で正確な思考回路は、さらなる問いへの解を見出していた。改竄を施した何者かが、華よりも先に、この本に触れている。つまりは、華が未だ取り戻せずにいる鍵を使って、何者かが既にこの森の中に入り込んでいるのだ。あの鍵は、もう、使われている。そして、改竄したその人物こそが、華を騙しおおせたことに今この瞬間も嫌らしい笑みを浮かべながら、いけしゃあしゃあと鍵を持ち続けているのだ。彼女は自然とそう考えて、敗北感と怒りが自分の胃を締め上げるのを覚えていた。

「あの場所のことは、他のひとでなしに知られてはならないの」。十夜にはそのようにも言われてきた。何度も、何度も。だから、華はその言いつけを守って鍵を使い、司書として、書記官として、裁判所の猟犬としてこの場所に入り、ここの秘密を守りながら己の責務を果たしてきた。けれど、彼女がそうしてずっと守り続けていたものを容赦なく壊し、侵し、あまつさえ彼女を欺こうとする人物が、この掃き溜めの中に確かに存在しているのだ。華の胸の中は、その人物に対する怒りと、己の積み上げてきたものが一撃のうちに突き崩されることに対する恐怖感で半々になり、どちらの感情にも寄り落ちられなくなった彼女の顔面は蒼白として、ついに一切の表情が消えた。

 鍵を持つ不逞の輩をなんとしても見つけ、一刻も早く鍵を取り戻し、その人物自体を処理しなければならない。知りすぎた、そして、私のテリトリーを侵しすぎたその人物を。

 そう結論づけた華は、くらり、と自分の身体の軸が傾き、世界が揺れるのを覚えた。傷は治った、だが、身体も頭も使いすぎた。そうしてよろめいた彼女は思わず書架の中に収まった本たちの背表紙に手をついた。深く息を吐く。それから、彼女の手の下でじっと息を殺している目の前の本にさえ腹が立ち、けれど本からは手を引いて棚板に触れ、彼女は思うままそこに己の異能を流し込んだ。一瞬の間も置かず、積み込まれた本の奥からめりめりと裂けるような激しい音が上がった。まもなく彼女の数歩先の書架がぐらりと揺れ、中に収まった本もろとも通路に向かって倒れ始める。傾いた書架からするすると滑り落ちていく本の後を追うようにして、落雷のような破裂音と共に、黒い書架の大きな図体が軋んで通路に倒れ込み、華の黒衣は粉塵に塗れた風を受ける。本の散乱と壊れた黒い木材の折り重なりを見つめ、華は口元を覆った。辺りには古い本の匂いとカビ臭さと、埃が満ちている。そうして幾分気の晴れた彼女は、冷めてきた頭の中でこれからのことを考えた。鍵を持っている不届きものを探し出して殺すこと。それが彼女に課された責務だ。いや、そうか、それよりも前に、怒りに任せて起こした目の前の大惨事について、後始末をしなければならないだろうか。そう自答して、彼女はまもなく首を横に振る。いや、必要ない。なぜならば、ここの本は、次に来た時にはいつも「元に戻っている」のだから。今までもずっとそうだった。読み終えた本を戻さずここを出ても、次に入ってきた時には、本は元の場所に戻っている。便利なものだ。だから、次に来た時には、この大惨事にしたって、素知らぬ顔で冷徹な書架の一部に戻ってしまっていることだろう。いっそ、憎らしいほど整然として。そういうものなのだ。

 そこまで考えて、彼女はふと思い出した。「検校様」の言葉だ。振り返ったあの人の無垢な笑顔。もし、あの人の言うことが言葉通りで、この書架の森自体に「意志」があるのだとしたら。

 華は、治っていた怒りが、腹の底からまた湧き出すのを覚えていた。もし、この書架の森が意志を持ち、その意志でもってかの「改竄」を見過ごしたのだとすれば。

「なぜ」

 なぜこの書架の森は私の邪魔をする? 憎っくき簒奪者の肩を持つ? 彼女はそうして手近の本を踏みつけると、その本にヒールをはめたその踵を何度も叩きつけた。見出した答えに、腹の底から憤る。

 彼女はこう考えていた。ああ、それならばこの世界は、私などよりもよほどその「誰か」を愛していることになってしまうではないか、と。


  ***


 医者に使いをやった真木が部屋に戻ってくると、行き場もないように見える椿が頬杖をついたままそこにいて、彼を迎えた。真木の足音を聞いてか聞かずか、顔の上に乗せた腕で目を覆った枇杷が口を開いた。

「そういえば、あの猟犬の体の中に潜ったんだけど」

「えっぐ…」

「えげつないな」

 と椿と真木が声を重ねるのを聞き流し、枇杷は

「おかしかったんだ」

 と言って、顔の上の腕をのけた。そうすると、椿と真木は話の続きをせかすようにして彼の顔をみつめている。枇杷はそれを見ると起き上がり、カウチの上で足を組んだ。

「あれの身体の中にさ」

 枇杷はそう口にしながら己の記憶を辿る。屋根の裏側から華の位置を見定めて浮き上がり、彼女の体内を通った、あの一刹那。

「虚があったんだよ」


  ***


 目が開く。頭がぐらぐらする。後ろには、枕がある。いつものベッドにいるのだ、とぼんやりと捉えたとき、は、と笑い声のようなため息がひとつ、口から漏れていった。


 もういいか。


 胸の内側から転げ出て宙に浮かんだその言葉が、落ちて俺の胸に染み込んだ。もう、望まなくていい。茜のあの言葉が、粘つく唾液と一緒に骨の芯まで染み込んだみたいだ。望みたくない。そうだ、俺はもう、何も、望みたくない。いいじゃないか、彼女に飼い殺されてここで死んだって。実体のないあの美しい顔に見下ろされ、足蹴にされて、何もできないまま、ゴミみたいに死ぬ。最高だ。俺にぴったりじゃないか。何にもない、ズレたままの、ズレ切ったままでここまで生きてきて、愚図愚図俺にはさ。顔じゅうに漂った苦笑を押しつぶすようにして寝返りを打ち、枕に顔を埋めたとき、俺の腹のあたりに冷たい何かが刺さり、そのひやりとした感覚に、俺の背筋はびくりと跳ねる。

 起き上がると、俺の身体が作った影の下、波立つようにして寄ったシーツのしわの間に「それ」は落ちていた。鍵だ。見覚えのあるような奇妙な感覚にざわりと寒気がし、けれどそれがなんなのかわからないという恐怖心と好奇心の背反が俺の右手を動かし、指先でそれに触れたとき、背中が凍りつく。後ろに、何かがいる。その時、視界の端に、するりと薄い金色の髪が降りてきたように見えて、俺は鍵を手に握り込んで後ろを振り向いた。が、誰もいない。閉まったクローゼットの引き戸の金色が、薄闇の中にぼんやりと浮かんでいるだけだ。高まった鼓動の足並みがゆっくりと落ち着いていく。

 それから俺は手を開いて、握り込んでいたその鍵を見つめる。また、忘れかけていた。彼女がここにいたことの証明。もう、俺の心は折れそうなのに。折れたっていいのに。諦めたっていいのに。それなのに俺は、胸を貫かれて微笑んだ彼女のことを、こうして思い出してしまう。心臓が胸の奥でこくこくと鳴っているのがわかる。シャツの下から汗の匂いがして、茜のいない部屋には無音の冬が流れている。俺は右手の鍵を握り込んで、その手を心臓の上に置いた。

 みつけなくちゃならない。

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